3話 名前を知る
終わらなかった。
昨日の晴天とは打って変わって、今朝は早くからぱらついた雨が地面を湿らせている。しかし涼しくなる訳でもなく、ただただ湿度が上がって不快指数を底上げするだけの微妙な天気でしかなかった。
しかし私には清涼剤がいる。電車でひと時を共にする、かっこよくて可愛いとんでもない美貌の持ち主、この世の奇跡たる存在こと先輩である。
初めて話した時と、昨日。都合二回も会話をしてしまった。どちらも短いものだとは言え、確かに私たちは会話を。会話を、したのだ。私が脳内で一方的に語りかけていた訳では、ない。
幻だったのかもしれない。一晩経った今でもやはりそう思ってしまう。
しかし、万が一あれがほんとうの記憶だった場合。私は今日どのような立ち振る舞いをしたものだろうか。起きた瞬間からずっとそんな事ばかりを考えていた。
話しかけても良いものなのだろうか。連日何話しかけてきてんの? と嫌がられはしないだろうか。
それとも一昨日までのように会釈をする程度に止めれば良いのだろうか。昨日は話したのに今日態度違うじゃん、と悲しませはしないだろうか。
結論は出なかった。出ないままにホームに着き、いつもの電車にすごすごと乗り込む。私ひとりの頭では、何も解決策を導き出すことが出来なかった。
私の目は指示もしていないのに普段通りに先輩を探していた。こちらに気付いて顔を上げた先輩が手を振り、ちょいちょいと自分の近くの座席を指差している。
そこに座れ、ということだろう。
これは考えていなかった。なるほどね!
「おはようございます」
「おはよ」
「今日は座らないんですか」
「昨日はいっぱい寝たからね」
映画観るの我慢した。真剣な顔で先輩が頷く。
どうやら今日は可愛い先輩の日であるらしい。
失礼しますと断って座ると、昨日も言ってたけどそれ何なの、と先輩が少し笑った。
笑った顔をしかと見るべく見上げていたのだが、そうして近くに座ったことで改めて気が付いた。先輩は、あまりにもスタイルが良い。顔が遥か彼方に見えた。近くで拝見できることがご褒美なのは間違いがないが、ずっとこうしていたら首がどうにかなってしまう予感がした。
「すんごい姿勢いいね」
首への負担を避けようと背筋を限界まで伸ばした結果、先輩が喜んでいる気がする。楽しそうに笑っている。何よりだった。
そうしているうちに目線の高低差に気付いたのか、ああ、と先輩は呟いて私の隣に移動してきた。
「失礼します」
「うひぇ」
「何それ」
なにかが潰れたような声を出した私を見て先輩がまた笑った。
遠くから見ていただけの時は触れればこちらが切れてしまうような、冷たさすら覚える印象だったのに。実際はあどけない顔でよく笑うあたたかいひとであるらしい。なんと優しいことだろう、隣に座ることで恐らく私の首を配慮してくれたのだ。
愛おしさが天元突破していく気がする。保護しなければならない、そんなことを思った。
「そういえば、先輩に聞きたいことがあって」
「何?」
「私、今まで怪異の友達とかいなくって。幼稚園の頃に一つ下にろくろ首の子がいたかな? ってくらいなんです」
「そうなんだ」
「何か地雷ワードとかありますか? 失礼があったらまずいと思って昨日口裂け女について調べてみたんですけど、気付いたら寝てたんですよね」
不思議な体験だった。ベッドの上でスマホを見ていたはずなのに、いつの間にか私は高圧洗浄機を抱えて滑り台の天辺に立っていたのである。一体どこから夢を見ていたのか、全く気が付かなかった。
「それ調べられてないね」
ふは、と先輩が噴き出した。寝付きいいねと言われて照れるが、いつもの私はそんなものではない。スマホに充電ケーブルを挿し込む事すら耐えられないくらいすぐに寝落ちしてしまうのだ。今日は充電が満タンだから、まだマシな方であると言えた。
「地雷ね。何だろ。急に襲い掛かられたら嫌かも」
「それは私も嫌ですね……」
怖いよね、と言われて私も頷く。そんなものは怪異のひとだろうと人間だろうと垣根を越えて恐怖の対象である。ましてや先輩はこれだけの美人さんなのだ、私とは比べ物にならないほど危険に満ち溢れているのかもしれない。
学校はセキュリティとか大丈夫なのだろうか。
「一高には怪異のひと多いんですか?」
「この辺の高校の中では怪異の受入れ多い方じゃないかな。同じクラスにハーピーの女子いるよ」
「え! ふたり揃ったら眼福じゃないですか。写真とかないんですか」
「眼福」
ないなー、と先輩がカメラロールを確認しているようだった。どうしても見たいという訳ではなかったので、口走りましたすみませんと一息で言えば、これならあるよと画面を見せられた。
猫ちゃんだった。
「可愛い! 三毛猫だ!」
「近所の猫。可愛いよね」
「肉球って全猫ピンクかと思ってました」
「俺も前そう思ってた。面白いよね」
毛の色に依存するのか、写真に写り込むぷにぷにの肉球はピンクと茶色と黒で綺麗に三色に別れている。黒猫は黒いんでしょうか、と尋ねると、どうだろう、と先輩が少し考え込む素振りを見せた。
「思い出せないな。確か黒猫もいたから撮れたら撮ってくるね」
「先輩猫天国とかに住んでるんですか?」
「その場合俺も猫になんない?」
地域猫の餌スポットがあるのだと先輩が教えてくれる。天国には違いないようだった。いや、先輩が住んでいるのならばそこがどこであろうと天国へと変貌を遂げるのだろう。
「名前とかあるんですか」
「この三毛猫はみーちゃんって呼ばれてるよ」
「みーちゃん」
「そういえば」
先輩の口から飛び出た可愛らしい響きに脳味噌が揺さぶられる。辛うじて意識を保つよう努力していると、不意に先輩が顔を上げて首を傾げた。
「名前なんて言うの?」
「みーちゃんですか?」
「みーちゃんじゃなくて、きみの」
まだ知らなかったよね、と先輩がスマホをしまいながら続ける。
きみ。きみって呼び方良いな、と数秒呆けてしまった。慌てて息を思い切り吸い込む。私の返答などで待たせる訳にはいかない。
「そうでしたっけ? そうかもですね! あやです。文化の文であやです」
落ち着いてて気に入ってます、と続けると、可愛い名前だねと頷かれる。恐縮です、と頭を下げた。
「よくふみって間違われます。それも大人っぽくて良いですけどね。先輩は間違わないでくれると嬉しいです」
「ふふ」
あやちゃん、あやちゃんね。先輩がインプットでもするみたいに私の名前を復唱している。こんなものにリソースを割かせたら誰かに怒られるかもな、と少し怖くなった。なんか、神様とかに。
「俺はほだか。稲穂の穂に、高い」
「かっこいいですね! 名前まで!」
「あは。ありがと」
俺も気に入ってる、と先輩も頷いた。穂高先輩。ぴったりだな、と思わずまじまじと見てしまう。
なあに、と先輩が言ったことで酷く驚いた。どうやら口から出ていたようだった。
十五分はあっという間だった。いつもそう思ってはいたが、今日は殊更に短く感じたように思う。
穂高先輩が立ち上がってカバンを持ち直している。結露の向こう、水滴の付いた窓を見ていると、じゃあ、と声をかけられた。
「またね。文ちゃん」
ひらひらと手を振っている。いつもの仕草だった。穂高先輩、また明日。同じように手を振り返して、閉まっていくドアを眺めた。
一日分のエネルギーは得たが、同時に一日分のエネルギーを使用したように思えた。動悸は落ち着いたり早まったりを繰り返している。
「みーちゃん」
ぼそりと呟いた。
「穂高先輩」
更に小さく呟いた。
——文ちゃん。
「んひひ」
向こうに座るサラリーマンが怪訝そうにこちらを見ている。
私は清楚で真面目な女子高生。そんな仮面を被るように、慌てて背筋をぴんと伸ばしたのだった。




