2話 隣に座る
あの日以来彼──先輩とは、電車で目が合えば軽く会釈をする仲になった。
私が乗る頃には先輩は大抵端の車両の壁際をキープしていて、私が乗り込むのを見付けると手を振って挨拶などをしてくれる。
気怠げな彼に似合わぬ可愛らしい仕草だったが、顔が良い存在とは何をしていてもその魅力は一切損なわれないものなのである。それどころか増すばかりだ。何とも恐ろしい事だと思った。質量保存の法則に従うのならば代わりに何かが減っているのかもしれない。何? この世の毒素?
私の通学時間は長い。確固とした理由もなく遠くの学校へと進学してしまったせいである。何も考えていなかったあの当時の自分が恨めしい。
だからこそ座席の確保を求めてこうして早い電車へとずらしてみた訳だが、早起きは三文の徳というのは言い得て妙であると日々実感していた。憂鬱だった通学時間が毎日朝から一日分のエネルギーを貰える素敵な時間へと変貌を遂げたのである。
そう思えば、何も考えていなかったあの当時の自分を褒めちぎってあげたいほどである。手のひらは回してなんぼだ。
先輩が降りるまでの数駅、ほんの十五分ほどの時間ではあるが、同じ車両で清涼な空気を吸わせていただける生活は何にも変えられないものだった。目が合うと細められる目元に何かがギュンとなる。主に胸が。
はー、今日も生きよ。そんな風に思いながら先に電車を降りる先輩を見送る。
ドアから出る際にわざわざ一瞬振り向いてひらりと手を振る律儀な姿に同じく手を振り返しながら、美人は心まで美しいのかもしれないな、と改めて思うのだった。
その日はいつもの電車に乗るなり異変に気付いた。いつも立っているはずの先輩が珍しく座席に座っていたのだ。
具合でも悪いのだろうか。先輩は色白だし貧血の可能性もあるのかもしれない。そう思いながら近付いて、更なる異変に気が付いた。もう引き返せないところまで来ている、電車は走り出してしまった。
これまで黒いマスクを着けている先輩の姿しか見たことがなかったが、今日は灰色のマスクを着けている。
「おはようございます」
「おはよ」
「今日、グレーなんですか?」
気になって我慢出来なかった。ちょんちょんと自分の顔を指差しながらそう尋ねると、うん、と小さく頷かれた。
うんって。
可愛い。
「似合う?」
こてりと先輩が首を傾げた。
心臓が止まったような気がした。
やはり可愛い。
「似合ってます。似合わない色がないと思います」
「んふ」
「いつもの黒も良かったですけど、グレーも捨てがたいですね……」
「ふふふ」
お淑やかに彼が笑う。それを見ていると幸せホルモンのようなものが湧き出てくるのを感じる。背景に白くて長いお花が咲いているように思えてきた。清楚の象徴みたいなお花。百合だっけ。縁がなさすぎて名前が定かではない。
座りなよ、と彼が隣の座席を軽く叩いて示した。私のような者が、隣に? ひゅっと息を呑む。一瞬怖気付いて躊躇ってしまうが、じっと見上げるその視線には逆らえなかった。
失礼します、ともにょもにょと呟いて人ひとり分を空けて座る。遠くね? と先輩が笑った。
乗客は疎らとは言え他に誰もいない訳ではない。自然と潜めるような声量になった。
「今日は座ってるんですね」
「うん」
沈黙に耐え切れなかった訳ではないが、隣席へと促してくれたこの人に退屈を覚えさせてはならない気がした。そんな勝手な使命感でぽつりと彼に質問を投げかける。
見上げた彼の目はいつもよりどこかとろんとしたものだった。普段以上に開いていないというか、一所懸命開けています、というような。瞬きをする度に眠りに落ちるのではないかと思えた。
「昨日夜更かししちゃって。膝に来てるから座ってる」
立ってらんねー、と言いながら彼がこきこきと首を鳴らした。一高は勉強がそんなに大変なのかと尋ねれば、映画を見ていただけだと言ってぎゅっと目を瞑った。
「途中で停めようと思ってたんだけど、気になって最後まで観ちゃった」
「サブスクですか?」
「うん。SFとか観る?」
「普段は観ませんね。けどお勧めとあらば何でも観ます」
「選り好みはしときなー」
タイトルは教えてもらったが、どうにも私の加入しているサブスクでは配信していないようだった。どうしてだろう。いくら検索すれどもレンタルすらも対応していなかった。
歯噛みする私の隣で、先輩があくびを噛み殺しているのが見える。マスクがもぞもぞと動いていた。
「駅に着いたら起こしましょうか? 少しは寝られるんじゃないですか」
「んー」
先輩の降車駅まであと十分はあるはずだ。眠れなくてもせめて目を閉じていれば楽なんじゃないですか、と言いながら横を見ると、しぱしぱとしんどそうな目がこちらを見下ろしていた。
「痴漢禁止ね」
「しっ……ません」
くすくすと先輩が笑った。そうして限界が来たのか、背もたれに体重を預けてずるずると少し滑り落ちる。
閉じられた瞼、羽ばたけそうなほどのまつ毛が長く影を落としている。
すごい、私、会話をしてしまった。初めて話したあの日以来の体験だった。
ちゃんと受け応えは出来ていただろうか。たった今の出来事だと言うのに一切の記憶がない。
せめてもとその横顔を一瞬盗み見る。彫刻もかくやと言わんばかりの美しさだった。しっかりと目に焼き付けた。私の目は潰れていないだろうか。
そうして私は万が一にも彼の眠りを妨げないように、息を殺して残り数駅をカウントダウンするだけの存在になるのだった。
「着きましたよ、先輩」
間もなく到着を告げる旨のアナウンスが流れ、彼にそっと声をかけた。
一度も目を開かなかったからてっきり眠っているものだと思っていたが、予想外にすぐにその目は世界を映した。
「寝れました?」
「わかんねー」
ありがとね、と言いながら席を立つ彼を見上げて、無理しちゃ駄目ですよと軽く手を振る。ゆっくりと頷く彼はやはりまだ眠たげだった。
またね、と目元を緩めた彼が降りて行く背中を見送る。
もの凄い濃密な時間を過ごしてしまった気がしてきた。本当はまだ自室のベッドで眠っているのかもしれない。
思わず抓った手の甲はじんじんと痛い。にわかには信じがたいことだが、どうやら全て現実のようだった。
明日世界は終わってしまうのかもしれない。私は赤くなった甲を摩りつつ、一人怯えながら窓へと目を向ける。もこもこと広がった入道雲が一日の始まりを告げていた。




