16話 猫を見に行く
週末の夕方、穂高先輩の最寄り駅へと降り立った。
日が高い内は暑くて猫もしんどいかもねとのことだったので、出来るだけ涼しい時間に見に行こうとなったのだった。さすがに早朝は無理だった。
定期外に出るのは久しぶりだ。ヒグラシが鳴く中を猫を求めて先輩の徘徊コースだと言うルートをのんびりと歩き回る。最終目的は黒猫のくーちゃんだが、この際どんな猫でも良かった。近くで見たいし出来れば触りたい。
「しょっちゅうお散歩してるんですか?」
「暇な時はたまに。俺寝るの好きで、何もない休みの日は昼過ぎまで寝ることあるんだけど」
「シンデレラですね」
「なんか違くない?」
「ぐっすり寝てる先輩も確実に美しいので」
「ほんとに違うやつじゃない? それ」
先輩が首を傾げた。すみません、話の腰を折りました。続けてくださいと手のひらを向ける。
「何だっけ。一歩も外に出ないのも何かなと思って、そういう時夕方とか夜中に徘徊してる」
「先輩の近所に産まれてみたかったです。私もお散歩してばったり夜中に会ってみたいものでした」
「ふ。怪異らしいから?」
「月明かりの先輩が絶対麗しいからですね」
隣を歩く先輩の歩調が少しゆっくりになった。猫いました? 振り向いて見上げると、マスクの位置を調整しているようだった。
この辺にはいないっぽいね、と先輩が静かに呟く。
「近所に住んでたとしても」
「はい」
「夜中に一人で歩いてちゃ駄目だよ」
危ないでしょ、と先輩が少し真剣な顔をした。
いつもどれくらいの時間徘徊するのかと尋ねると、気分、と返された。一時間以上かかる大回りのルートもあるし、十分で帰宅のスピードコースもあるらしい。
以前先輩が見せてくれた、土手で撮影された最多記録の猫たちの写真は大回りの時のものだったそうだ。せっかくなので可能であればそこに行ってみたいですと頼み込むと、ちょっと遠いけど大丈夫かと確認される。
ここまで来たからには一匹だけでも目にしたいので、穂高先輩さえ良ければと即答する。あまりの勢いに先輩は少し笑っていた。
「全然猫たちに会えない時もあったりしますか?」
「天気とか時間次第ではあるよ」
「もし今日駄目だったら会えるまで通っても良いです?」
「遠いでしょふつうに」
縁石の向こうを走り抜けて行った車を見るともなしに眺めていて、当たり前のように先輩が車道側を歩いているのに気付いて胸元を抑えた。先程横断歩道を渡る前もそういえば車道側にいたような気がしている。いつの間に。さり気なさに恐怖すら覚えた、穂高先輩の沼が深すぎる。
静かに身悶えする私をよそに、文ちゃん、と先輩が囁くように進行方向を指差した。
「ほら、あそこ」
「猫!」
「そっとね」
民家の前、ブロック塀の上で蹲るように灰色の猫が丸くなっている。塀に同化していて気付かなかった。
驚かさないようにそろりと近付く。細い目をぱちりと開けたその猫が、窺うようにこちらを見ていた。
逃げそう。先輩が呟いた瞬間に猫は走り去ってしまった。振り向くと先輩が苦笑している。
「え何で分かったんですか」
「うーん」
怖がらせちゃったかもね。変な体勢で固まった私を先輩がのんびりと見下ろしていた。
駅から四十分ほど歩いた頃、目的地の土手に到着した。ここまでに数匹猫は見かけていたが、どうしても近付くことが出来ていなかった。
何でだろう。首を傾げる私をその度穂高先輩が愉快そうに眺めていたが、答えは教えてくれないままだ。
「くーちゃんいますかね」
「いると良いね」
坂道を上り切って、開けた視界に少し驚く。写真で見せてもらってはいたが思っていたより大きな川だ。
釣りとか出来そうですね。水面に浮かぶ水鳥を見下ろしながら呟くと、文ちゃん釣りとかすんのと聞かれる。したことはないが興味がないわけでもない。
「やったことないです。先輩あります?」
「昔学校行事でやったくらい」
「釣れました?」
「蟹釣ったよ」
「蟹って釣れるんだ」
こんなやつ。先輩が両手で小さな丸を作った。もう少しでハートになりそうだ、ちょっと円を広げつつ指を曲げてはいただけないだろうか。心のシャッターチャンスが待っている。
「あ」
「え」
「くーちゃん」
「え!」
アスファルトと草の境目をゆったりと黒い塊が歩いているのが見えた。こちらに向かってきているようだった。
目視した瞬間に走り出しかけた私の前に先輩が腕を伸ばす。待ての姿勢だった。
ふふふ、と笑っている声が降ってくる。落ち着いてね。柔らかい目が見下ろしていた。
「ちょっと待ってみよ」
しゃがんだ穂高先輩に倣って私も隣にしゃがみ込んだ。黒猫は一直線に歩いてくる。ぴんと立った尻尾がゆらゆらと揺れていた。
「文ちゃんね、好き好きしすぎて怖がられてるかもだから」
「好き好き」
「今だけクールな女になろう」
「私が……クールな女に……」
なれる? こてりと首を傾けた先輩に、頑張りますと精一杯キリリとした顔を作った。顔はいつもの文ちゃんで良いんだよと先輩が口元に拳を当てている。笑ってマスクがずれるのを抑えているようだった。
ぴゃ、ぴゃ、と黒猫が甲高い声を上げた。何それ可愛い。にゃーじゃないんだ。穂高先輩に駆け寄ったくーちゃんはするりと体を擦り付けていた。
背中を撫でる先輩の手は非常に優しい手付きだった。愛しいものを見る目で、くーちゃんも応えるように目を閉じてごろごろと喉を鳴らしている。
「写真いいですか……」
「今なら撮れそうだね」
「先輩も……」
「俺も撮るの?」
良いけど、と答えながら先輩の手はくーちゃんに触れ続けている。撫でられて嬉しいのだろう、両脚の間をぐるぐると黒い毛玉が何度も往復している。
あらゆる角度で保存したい。シャッター音が止まらない私に、撮りすぎじゃね、と言って先輩が笑った。
「文ちゃんも触れると思うよ」
とうとう寝転がったくーちゃんを穂高先輩がわしわしと可愛がっている。良いのだろうか。そろそろと指を伸ばした私に、先輩が一つ頷いた。
「失礼します……」
「猫にも言うんだ」
喉を指先で擽る。おっかなびっくり触れすぎたせいか、くーちゃんが少し顔を上げた。
猫の毛ってこんなに柔らかいんだ。奥の本体に辿り着くように毛をかき分ける。ぐるぐる、と振動が指先に伝わってきた。
「先輩、いのちです」
「ふふ」
可愛い。すごい。くしくしと鼻先を撫でると、うっとりと目を閉じた。あまりにも可愛い。顔がだらしなく緩んでいる自覚があった。思わず涎が垂れそうになって、口輪筋に力を入れる。
先輩の手がくーちゃんから離れているのに気が付いて、触らないのかな、と顔を上げた。まだ撫でてる途中みたいな慈愛に満ちた表情の先輩と目が合う。
「可愛いね」
「めちゃくちゃ可愛いですね。連れて帰りたくなってしまう……」
「俺も写真撮っていい?」
「くーちゃんのお顔撮れますかねこれ、隠れちゃってて」
「文ちゃんの」
ツーショット撮ってあげるよ、と先輩がスマホを振っていた。
くーちゃんがごろりと姿勢を変える。
「顔やばい自信あるんで、送ったら消してくれますか?」
「え。やだ」
楽しそうに先輩が笑った。
目的のくーちゃんには無事に会えて、大満足で駅へと引き返す。
徘徊コースって言うならおうちこの辺なんですか。住宅街を歩きながら何の気なしにそう聞くと、うん、と先輩が立ち止まった。
「そこの交差点右行くと駅の方だけど、左行くと俺の家」
「普通に住宅街なんですね、怪異のひとのおうち見たことなかったので……」
「俺洞窟とかに住んでると思われてた?」
傷付いたー。そう言う先輩に慌てて首を大きく振る。いや想像したことなくてなんか分かんなくてごめんなさい。どたばたと暴れる私に、うん、と先輩が少し笑った。
「すぐそこだから外観見てく? 全然普通の家」
「あじゃあ外観だけ……」
通り過ぎる家々から夕飯の匂いが漂い始めている。カレーってほんとに強いな。食欲を唆られながら並んで歩く。
窓を開けているのか、笑い声が響いているご家庭もあった。あったかーい。
「そこの二軒目の、」
ぴたりと先輩が足を止めた。何かあったのか。先輩が指差しかけた先を見ると、すぐそこの家の前、ちいさな水色の自転車に乗った女の子がこちらを見ていた。夏で日焼けしたのかこんがりと焼けた肌は健康的だ。
まん丸の目と目が合う。
「え、どうしまし」
「ママーー!!! お兄ちゃんが女連れてるーー!!!!!」
女の子は自転車を乗り捨ててばたばたと玄関に駆け出していった。ばたん、とドアの開閉音がここまで聞こえる。
何事かと先輩を見上げると、目元に手を当てて静かに瞼を閉じていた。見たことのない仕草だった。
「ごめん。あれ妹」
「あ。八歳の」
「うん」
家の中で大暴れでもしているのか、ばたばたと走る音が聞こえた。それが近付いてきたかと思うと、思い切り玄関ドアが開かれる。
「ママ! ほら!」
先程の女の子が手を引いてきたのだろう、成人女性がドアの向こうに立っていた。
先輩と同じ切れ長の瞳、さらりとした真っ黒い髪、抜けるような白い肌。驚いているのか手を引く女の子と似たまん丸の目でこちらを見ている。
耳の近くまで避けた口が、少しずつ開いていった。
「え。何、女? 何? 彼女さん? 待って恵那ちゃん、ママ今マスクしてない! ごめんなさいね、ちょっとあの。ちょっと穂高! 上がって貰いなさいよ!」
やだもう、と女性がばたばたと家の中に引っ込んで行くのが見えた。女の子がむっと唇を尖らせたのが見える。
文ちゃん。後ろから名前を呼ばれた。迷子になった子供みたいな、不安そうな声だった。
「あの、」
「え、穂高先輩めっちゃママ似じゃないですか。美人親子!」
足が速いのかを聞いた時はパパ似って言ってませんでしたっけ。振り返って確認した穂高先輩はやはり先程の女性にそっくりだった。
美人だ美人だとは思っていたが、完全に中性的な印象があった。ママの良いところを全部持って産まれたのかと興奮してしまう。
「ちょっと一瞬だったのであれですけどたいへん似てましたね、てか先輩ママ何歳です? めちゃくちゃ若く見えたんですけどもしかして歳取らなかったりしますか?」
「文ちゃん」
興奮する私に固い声が落ちて、はっとしてごめんなさいと顔を上げた。いや。目を逸らしていた先輩が、迷うようにゆっくりとこちらを見る。
「怖くないの」
「何がですか?」
顔面偏差値の差がですか。
確かにふつうの人間には達しにくい場所ですねと頬を揉みながら呟くと、はは、と先輩が小さな声で笑うのが聞こえた。




