第三章 自分探し
達也は、この春から大学生になった。父親を早くに亡くし、母子家庭に育った達也は、高校を卒業すると同時に就職することを考えていたが、母の美里から大学に進学することを強くすすめられた。それは、一人息子である達也には、人並みの学歴をつけてやりたいという美里の願いでもあった。
達也は、美里にはできるだけ負担をかけまいと、自宅から通える範囲の大学を選んだ。学費の一部や小遣いくらいは自分で稼ごうと、コンビニや物流倉庫などでアルバイトをかけ持ちした。そんな達也に、美里は口うるさく言っていた言葉があった。それは、「あんたは家のことは気にせんでええから、自分のことをしっかり考えなさい。」だった。
達也が大学生活に慣れてきたある日の夕食でのこと、大学終わりにアルバイトに寄ってから帰宅した達也に、美里が投げかけた。
「あんた、大学の方はどうなん。最近、何にも喋らへんけど、自分が将来何になりたいか、見つかったの。」
急ぎ足で食べていた達也は、喉が詰まりそうになって、咳き込んだ。慌ててグラスの水に手をのばした。胸を軽く叩いて、何とか飲み込んだ。
「あぁ、何となくは…」
そう答えながら、達也はその先を具体的に言えないもどかしさを感じた。
「あんたは中学高校と、部活とか何にもせんと過ごしてきたやろ。お母ちゃん、そんな達也のことが心配で、みんなと同じように大学にもやったんやから、いい加減将来のことを考えてくれんとな。このままじゃ、安心して老後を迎えられんわ。」
美里が愚痴っぽく言った。言われた達也は、何も言い返せなかった。
美里が達也のことを心配して、そのように言うのには理由があった。達也は、中学高校と帰宅部を選択した。同級生たちが次々に部活に入っていく中で、達也は自分が何をやりたいのかを見つけることができなかった。それには、達也自身の生まれ持った性格も深く関係していて、何事にも物怖じしてしまい、新しいことに足を踏み出せないことは、小学生の頃の達也と少しも変っていなかった。
それでも、達也は、決して学校を休まなかった。学校では、特に親しい友人はいなかったので孤独な毎日を過ごすことになったが、授業にだけは真面目に取り組んだ。だから、それなりに学力がついてきていたし、なんとなく将来のイメージを持っていた『工学部』にストレートで進学することができた。
「大学に、サークルって言うんか、好きな者同士が集まるところがあるんと違うの。勉強やアルバイトもいいかも知れんけど、何か一つでも新しいことを始めてみたらどうなん。せっかく大学に行ってるんやから…」
テーブルの上のおかずを箸でつつきながら、美里が不機嫌そうに言った。
「う、うん…」
達也は、何も言い返せずに、気が重たくなった。このように美里に言われるのは、今日に始まったことではなかった。一刻も早く、空いたお腹を満たして、その場を離れたかった。
「お母ちゃんな、あんたぐらいの頃に、何もかも嫌になって、家を出たことがあるんよ。」
突然、美里がしんみりとした口調で話し出した。そんな風に話す美里の姿を見たことがなかったので、達也はおかずを口に運びながら、やがてその動きを止めた。
「あの頃は何て言うんやろうか、荒れてたんよな。高校三年生のときやったけど、まわりが大学やら就職やらでピリピリし出して、でもお母ちゃんは自分が何をやりたいんかわからんようになってもうて、誰にも言えずに一人で焦ってたんよ。」
それまで想像だにしていなかった、美里の後ろ向きな一面だった。その先の話を、無性に聞いてみたいと思った。
「それで?」
「あぁ、それで、お母ちゃん、家出したんよ。お父ちゃんとお母ちゃんに『ちょっと出てくる』と言ってな。でもお金をあまり持ってなかったから、行くところに困った。友達の家に無理言って一泊泊めてもらったけど、いつまでもそこにはおれんかった。だから、秀おじさんの家に行くことにした。あり金はたいて、船に乗って大阪から徳島に渡った。秀おじさんは、急におかあちゃんが来たから最初は驚いてたけど、おかあちゃんの話を聞いて事情をわかってくれた。『さとちゃんの気が済むまで、ここにいてくれていいよ。』って言ってくれた。秀おじさんは、お母ちゃんを夜の海に連れて行ってくれた。おかあちゃん、空を見てびっくりした。あんなたくさんの星を見たのは初めてやった。砂浜に寝転んで星を眺めていたら、自分が星空に吸い込まれてなくなってしまいそうで、怖くなった。怖くなって逃げ出したくなった。でも、そのとき思った。自分って、ちっぽけなんやなってな。そう思ったら、自分の悩みなんてどうでもよくなった。そうやって心が空っぽになったら、今度は生きてみたいと思えた。自分の気持ちに正直に生きたいと思えた。だから、次の日、お母ちゃんは自分の家に帰った。家に帰って、お父ちゃんとお母ちゃんにこてんぱんに怒られたけど、おかあちゃんは気持ちが楽になった。その日から、自分のやりたいことを、一生懸命やろうと思った。お母ちゃん、小さい子供が好きやったから、思い切って近所の保育所に行って、絵本の読み聞かせを始めたんよ。そしたら毎日が楽しくなって、それで今のこども園の仕事に就こうと思ったんよ。」
美里が目を細めながら懐かしく話すのを、達也は固唾をのんで見守った。
「お母ちゃんはお父ちゃんがいない分、あんたには口うるさく言ってるけど、達也には自分の気持ちに正直に、一生懸命生きて欲しいと思ってる。誰かに笑われてもいいやん。一生懸命生きていたら、誰かは必ずわかってくれるから…」
そう言い残して、美里はそっと立ち上がると、夕飯の後片づけにとりかかった。達也は、キッチンの流し台に向かう美里の後ろ姿を、ぼんやりと見つめていた。
達也の大学生活は、単調だった。朝起きて、満員電車に揺られて大学に行った。びっしり詰まった講義を終えた後は、楽しそうに集う同期たちには目も暮れずに、アルバイト先に向かった。短い時間、歯を食いしばって働いた。そして、疲れた表情を浮かべながら、アパートに戻ってきた。単調な生活だったが、慣れてしまえば流れに身を任せて日々を過ごすことができた。
それでも、サークルで汗を流したり、資格の勉強に勤しんだりする同期たちの姿が羨ましかった。
ある日、達也は学生食堂でうどんを食べた後、何気に学生会館に立ち寄った。そこには、学生生活をサポートするための、相談窓口があった。達也は入学以来、初めて足を踏み入れる場所だった。カウンターでは、女子学生たちが旅行パンフレットを広げながら、楽しげに話していた。カウンターの脇に何かのパンフレットが差し込まれていたので、達也はその中の一冊を手に取った。それは、資格を取るための講座の案内だった。試しに適当なページを開いてみたが、聞いたことのない資格ばかりが載っていて、興味が湧いてこなかった。
パンフレットをラックに戻したとき、達也の目に壁に貼られた一枚のポスターが飛び込んできた。毎年、学生たちの長期休暇に合わせて発売されている、JRの乗り放題切符の宣伝だった。鄙びた無人駅の待合室で、二人の若者が列車を待っている様子を写した写真が印刷されていた。ポスターには『さぁ、自分探しに出発しよう!』と、大きな文字が添えられていた。
達也は、いつか美里が話していたことを思い出した。美里は、自分の将来が見えなくなって、両親に内緒で徳島に渡ったと話した。そこで、自分と向き合い、自分のすすむべき道を見つけることができた。達也は、心の中で何かが微かに燃えるのを感じた。それが何であるかはわからなかったが、その炎が自分を前にすすめるために必要なものであることだけは感じた。
夏休み直前、達也は、アルバイトで稼いだ給料をはたいて、乗り放題の切符を買った。アルバイト先に無理を言って、まとまった休みをもらった。切符の行き先は決めていなかった。慣れ親しんだ場所を離れられるのであれば、どこでもよかった。
達也は、行き先を四国に決めた。行き先はどこでもよかったとは言え、生まれて初めての一人旅だったので、不安でいっぱいだった。四国なら、徳島に秀おじさん一家が住んでいるので、もしも旅の途中で不測のことがあれば、駆け込んで助けを求めることができると考えた。
美里には、四国を一人旅することを伝えた。急に思い立ってのことなので、反対されるかと思ったが、美里は「気をつけて行っておいで。」と言って、笑顔で送り出してくれた。
美里の学生時代とは違って、大阪から四国までは、高速バスを使って向かうのが主流になっていた。だから、達也も大阪のターミナル駅から、バスに揺られた。バスは混雑した都心の高速道路をノロノロと走って抜けると、本州と淡路島とを結ぶ明石海峡大橋に差しかかった。海峡を行き交う船を眺めていた達也は、無性に寂しくなった。バスは景色に見とれる暇も与えずに、トップスピードで走り続けた。もう後戻りはできないと思った。達也は、財布から出した乗り放題切符を握りしめた。
四国の玄関口、徳島駅に降り立った達也は、そのまま改札口へと向かった。行き交う人々が方言交じりで話しているのを聞いて、達也は改めて四国に来たことを実感した。改札口を抜けると、一両編成のディーゼルカーが、長いホームの端に肩身が狭そうに停まっていた。達也はその列車で、どこまで行くかは決めていなかった。一人旅は三日間の予定だったので、時間はいくらでもあった。とりあえず何も考えずに、行けるところまで行こうと思った。
達也は適当に、空いている席を探した。そして、初老の男性と向かい合わせで座った。発車ベルがけたたましく鳴り響くと、列車がゆっくりと動き出した。窓の外を流れる景色は、新鮮だった。川幅が一キロメートルもあろうかと言うほどの大河を渡ったかと思うと、一面に畑が広がった。達也は、徳島に来るまでに感じていた寂しさを、いつの間にか忘れていた。流れる景色を夢中で目に焼きつけていると、向かいに座った初老の男性が声をかけてきた。
「どこから来たんで?」
達也は突然話しかけられて、尻込みをした。
「おっ、大阪です。」
やっとの思いで、声に出した。
「そんなら懐かしいで。わしも若い頃、大阪で働いとったんよ。ピアノを作る会社で、営業しよった。あの頃は作ったら作るだけモノが売れたけん、忙しかったで。大阪で美味しいもん食って、いっぱい遊んで、楽しかったんよ。」
男性は目を輝かせながら、昔を懐かしんだ。
「そしたら、大阪から徳島に来て、これからどこに行くんで?」
「一人旅です。行けるところまで行こうと思っています。」
「へぇ、ほうで。そんなら寂しいとん違う。わしも初めて大阪に行ったとき、右も左もわからんかったけん、心細かったで。でもな、必死やった。自分で決めて出てきたところやったけん、なんとかここで生きていくんやと決めて、一生懸命頑張った。そしたら、仲間がようけできてな、それに家内とも出会えたけんな。あんたもいろいろある思うけど、頑張るんやで。それに、四国の人はみな優しいけんな、困ったことがあれば言いよ。」
「はい、ありがとうございます。」
達也は笑顔で返した。見ず知らずの人と出会って、少し元気をもらえた。男性は途中の駅で降りていった。気がつけば、車内は数名を残すのみで、寂しい空気が漂っていた。
それからしばらく列車は山裾を進んで、終点の駅に到着した。達也が列車から降りると、そこは人気のない無人駅だった。その先に進むには、後から来る列車に乗らなければならなかった。達也は待合室の壁にかけられている時刻表を見て、唖然とした。次の列車まで、二時間近くも待たなければならなかった。早くも、出鼻をくじかれた。
達也は、待合室のベンチに腰かけた。乗ってきた列車が折り返すと、あたりはたちまち静寂に包まれた。リュックの中を探ってみたが、本など時間を潰せるものは見当たらなかった。達也は、何もすることなくぼんやりしていた。ときおり、待合室の時計に目を遣ったが、時計の針はほとんど進んでいなかった。風に乗って、雨の匂いがした。途端に、空が暗くなり、夕立のように雨が激しく降り出した。
達也は、軽はずみで旅に出たことを後悔した。だが、ここまで来た以上、戻る訳にはいかなかった。そっと目を閉じて、ときが過ぎるのを待ち続けた。いつの間にか、眠ってしまっていた。
「やぁ、たっちゃん。」
夢の中で、自分を呼ぶ声がした。遠い昔、どこかで聞いたことのある声だった。
「たっちゃん、僕だよ。由人だよ。」
また声がした。夢ではないのか。達也ははっと肩を上げて、慌ててまわりを見た。達也の横には、一人の青年が座っていた。
「久しぶり。僕のこと、覚えている?」
青年が、達也に笑顔を振りまきながら言った。
「由人、よっちゃん?」
達也の頭の中で、記憶と声がつながった。
「そうだよ。僕のこと、覚えていてくれたんだね。」
そう答えた由人の声は、達也の記憶の中のものよりも、少しだけ大人びて聞こえた。当たり前と言えば当たり前だった。達也が由人に最後に会ったのは、小学三年生のときだった。同い年の由人が、達也と同じように大人びていたのは当然のことだった。
達也は、一人旅の旅先でおよそ十年ぶりに由人に再開した偶然を、すぐに飲み込むことができなかった。達也は、今さらながら、由人に何と声をかけたらよいのか迷った。だから、少しの間考えた。そして、ようやく言葉が浮かんだ。
「そう言えば、よっちゃん、あのときはごめんね。僕、つばめの巣に夢中になってしまって、よっちゃんと一緒に来たことを忘れてしまっていたんだ。だから、よっちゃん、退屈してしまって、先に帰ったんだよね。」
達也が深刻そうな表情を浮かべながら切り出すのを、由人は表情一つ変えずに聞いていた。
「たっちゃんが謝らなくても、僕は全然平気だよ。それよりもよっちゃんが、無事に家に帰ることができて、僕は嬉しかったよ。」
それを聞いた達也は、由人の顔を見返した。由人は、達也が迷いながらも家に帰る様子を、どこかで見ていたような言い方をした。あの後、由人と会うことがなかったので、達也が由人に、あの日の帰り道のことを話したこともなかった。
達也は、違和感を覚えつつも、ずっと引っかかっていたことを由人に伝えることができて、ほっとした。それから、達也は中学高校のこと、大学に進学してから今に至るまでのことを矢継ぎ早に話した。由人は、かつてのように、達也の話を優しい表情を浮かべながら聞いていた。その姿は、まるで達也が数々の悩みを乗り越えてここまでやってきたことを、一緒に喜んでくれているかのようだった。
「ところで、よっちゃんは、どうしてここにいるの。これからどこかに向かうの?」
達也が訊くと、由人は、
「僕も一人旅なんだ。四国に行けば、たっちゃんに会えるような気がしてね。僕はこれから徳島に向かうよ。それからまた列車に乗って、四国を一周するつもり。」
と、答えた。
達也は、由人も一人旅をしていることを知って、由人に親しみを覚えた。かつての探検のように一緒に行くことを提案した。
それまで笑顔を振りまいていた由人の顔が、急に険しくなった。
「たっちゃん、僕は一緒には行けないんだ。僕にはどうしても行かないといけないところがある。たっちゃんは、自分を探しにここまで来たんでしょ。それなら、たっちゃんは一人で行くべきだよ。」
由人の言葉がやけに冷たく感じた。達也は由人に断られて黙り込んでいると、由人はまた笑顔に戻って言った。
「大丈夫。たっちゃんなら大丈夫だよ。この一人旅で、きっと未来が見つかるよ。」
由人がそう言ったとき、遠くの方から列車が近づく音が聞こえた。由人が乗る徳島へと向かう列車だった。
達也は、由人との別れが近づいて、寂しさを感じた。やがて、列車がホームに停まった。扉が開くと、由人は何も言わずに乗り込んだ。
達也は、俯きながらドアの近くに立ち尽くした。やがて、車掌の笛の合図で、扉がゆっくりと閉まった。閉まり際に、由人が言った。
「たっちゃんなら大丈夫」
列車は、轟音とともにゆっくり動き出した。手を振る由人の姿がどんどん遠ざかっていく。達也は、視界をにじませながら、いつまでもそこに立っていた。
列車が線路の向こうに消えて、ようやく達也は正気を取り戻した。いつの間に雨が上がったのだろうか、由人を乗せた列車が走り去った方向に、虹がくっきりと現れた。
達也は、また一人になった。待合室のベンチに座ると、さっき由人が話した言葉を思い浮かべた。
「大丈夫。たっちゃんなら大丈夫だよ。」
達也は、さっきまで由人が座っていたベンチをぼんやり見つめた。
「この一人旅で、きっと未来が見つかるよ。」
達也は立ち上がった。何としてでも一人旅を成し遂げてみせる、達也はそう心に誓った。
それから、達也は待ち望んだ列車に乗った。そして日が暮れるまで、列車に揺られ続けた。初めての街に降り立った。港に面した都会だった。自分で交渉して、駅近くのビジネスホテルに宿を取った。お腹が減ったので、街を歩いて食堂に入った。朝、家を出るときから何も口にしていなかったので、温かいご飯が心に染みた。
そして、一人旅二日目、その日も朝から列車に乗った。帰りのことは考えないで、行けるところまで行こうと思った。その日も、列車の待ち時間が長かった。でも、少しも気にならなかった。待てば、いつかは必ず列車がやってくると信じた。そう、未来行きの列車が。
二日目は香川から高知へと入った。長い乗車時間と待ち時間に、達也の身体はくたくただった。夏休みの観光シーズンに入っていたので、ビジネスホテルはどこも満室だった。達也は、仕方なく高知市内の小さな旅館に宿を取った。市内中心部の、古そうな木造の旅館だった。宿に入った達也は、狭い和室に通された。食事はついていなかったので、来る途中のコンビニで弁当を買った。
達也は、手早く弁当をかき込むと、地図を開いてこれまでの行程を振り返った。本当なら、このまま愛媛に行きたかった。そうすれば、完全な四国一周とまでは言えなくても、四国四県を巡ったことになる。だが、達也の財布の中は心もとなかった。それに、美里のことが気になった。いくら、笑顔で送り出してくれたとは言え、達也の初めての一人旅を心配しているに違いなかった。だから、達也は次の日は来た道を戻って、途中から高速バスで大阪に帰ることに決めた。
次の日に大阪に帰ると思うと、このまま旅を続けたいと思う反面、安心感が込み上げてきた。家に帰ったら、温かい食卓で、美里に旅行でのことをたっぷりと話そうと思った。旅の途中で、偶然親友の由人に会ったことも…。
その夜、達也は疲れがどっと押し寄せて、気がつけば部屋の電気も消さずに寝入ってしまった。
達也は夢を見た。自分が泊まっているであろう旅館が、火事に見舞われる夢だった。夢の中で、達也は部屋で眠っていた。部屋の照明はつけっ放しだったが、旅の疲れで消す元気もなかった。
にわかに部屋の外が慌ただしくなった。そう言えば、何かが燃えたような臭いがわずかに感じられた。こんな時間に何事だろうか。達也は、重たい身体を持ち上げようとした。だが、疲れた身体に力が入らなかった。いつしか、視界が白く染まった。部屋の扉がかすかに見えた。達也は枕を両手で掴むようにして、腹ばいをして進んだ。ただ事ではなさそうだった。とにかく、この部屋から逃げ出さなければならないことは、わかっていた。
一歩、また一歩と腹ばいになりながら、達也は必死に進んだ。呼吸が苦しくなってきた。火災のとき、煙にまかれることが危険であることを、何かのテレビで見て知っていた。扉まであと一歩というとき、達也の視界からすべてのものが消えた。
「大丈夫、今、運び出してあげるからね。」
達也は遠のいた意識の中で、声を聞いた。ふわっと身体が浮いたような感覚がした。
「僕が必ず助け出してあげるからね。」
どこかで聞いたことのある声だった。
「僕はいつだって、たっちゃんの見方だよ。」
遠い昔、誰かがかけてくれた言葉だった。火事だというのに、なぜか懐かしい気持ちになった。
誰かの背中越しに、力強い息遣いが聞こえた。荒れ狂う炎に向かって、自分をおぶっている誰かの足取りは少しも緩まなかった。炎が熱かった。煙が苦しかった。もう駄目だと思った。
「お兄ちゃんと一緒にいれて、僕、幸せだったよ。」
達也は、もうろうとする意識の中で、確かに聞いた。
「よっちゃん?」
達也は、懸命に唇を動かそうとした。だが、声にならなかった。
「そうだよ。僕だよ。お兄ちゃん、これからも元気でいてね。きっと明るい未来が待っているよ。」
その言葉を聞いたのを最後に、夢の記憶はぷつりと切れた。それから、達也は長い間、眠り続けた。
「達也、達也、お母ちゃんだよ。」
また、夢の中から声が聞こえた。達也は、瞼を開けた。明るい光が、瞳の中に一気に差し込んだ。視界が戻るまで、だいぶ時間がかかった。
自分の顔を上から覗き込む人々がいた。どうやら見覚えのある顔だった。その人たちは、自分の姿を見て、一様に喜んだ。そして、涙を流しながら、自分の手を握ってきた。
達也は、ドラマで見たような細い管や様々な装置が、自分の身体につながれていることに気づいた。どうやら自分は、病院にいるようだった。達也は、自分に何が起きたのかを、必死に思い出そうとした。だが、記憶は何かに霞んでいて、思い出せなかった。
それから、達也は日増しに元気を取り戻していった。それに伴って、身体につながれた管や装置は、一つまた一つと外された。動きを制限する管やコードから解放されて、達也はようやく自分でご飯を食べたり、廊下を歩いたりできるようになった。
ある日、達也は、巡回に訪れた看護師の女性から、そこが高知市内の病院であることを聞かされた。それを聞いて、達也は自分が一人旅に出たことを断片的に思い出した。だけど、旅に出たことと、自分が病室にいることとが、どうしてもつながらなかった。
「実は、達也くんね、火事から助け出されたのよ。」
病室の窓のブラインドを開けながら、看護師の女性が言った。達也は、天井に視線を送りながら、記憶の中をまさぐった。微かに火事に遭う夢を見たことが脳裏に蘇った。あれは、夢だと思っていたが、本当のことだったと言うのだろうか。
「達也くんが辛いことを思い出すといけないから…」
と言って、看護師の女性は難しそうな表情を浮かべながら、新聞を手渡してきた。少し前の地元紙だった。一面記事に、漆黒の中を燃え上がるオレンジの炎が大きく写っていた。
達也は、自分が本当にこの炎の中にいたことを、にわかには信じられなかった。狐につままれたような気持ちで、記事を読み始めた。
八月三日未明 高知市内旅館より火災
午前二時ごろ、高知市〇〇のビジネス旅館より、出火。消防によると、当日、同旅館には十名の宿泊客と二名の従業員がいたが、全員の無事が確認された。火元は現在調査中。
火は、駆けつけた消防により、直ちに消しとめられ、周辺への延焼は見られなかった。
ただ、目撃者の男性によると、火災が発生した当初、周囲の制止を振り切って、旅館の中に駆け込んだ男性がいたという。その男性は、旅館の中から逃げ遅れた男性客一人を救出すると、そのまま行方不明になったとのこと。警察と消防は、その男性の行方を追っている。
(高知土佐日報)
達也は、新聞記事を読んでいて、手が止まった。脳裏に、あの日見た夢の中でのことが浮かび上がった。あのときの声は、確かに由人だった。夢の中で、由人は自分を火災から助け出した。そのとき、彼は確かにこう言った。
「お兄ちゃん、これからも元気でいてね。きっと明るい未来が待っているよ。」
達也は、由人が言った『お兄ちゃん』と言う言葉が引っかかった。でも、あれは本当に由人だったのだろうか。危機的な状況の中で、達也が見た幻覚ではなかったのか。達也は、なんとなくもやもやした気持ちで病院を退院し、大阪に戻ることになった。
だが、そんなことは、達也が大阪に戻って、慌ただしい学生生活を再開すると同時に、達也の意識の奥底へと消えていった。その後、達也は学業とアルバイトに専念する傍らで、学外でボランティア活動をするサークルに入った。旅先で誰かに命を救ってもらったのだから、今度は自分が誰かの手助けをしたかった。達也はそこで、図書館ボランティアを紹介された。試しに行ってみると、子供たちが達也の読み聞かせを心待ちにしていた。達也は無我夢中で、子供たちに絵本を読んだ。本を通して、子供たちの心をつなぎ合わせた。達也は、ボランティア活動を通して、図書館の仕事に興味を持った。だから、大学で司書の資格を取った。
大学四回生になった達也は、就職先に悩んだ。同期たちがメーカーや研究機関に進むことを目ざす中で、達也は図書館で働きたいと強く願うようになった。自分がこれまで勉強してきた電気工学の知識は生かせないかも知れないが、自分で見つけたことを追い求める上で、そんなことはどうだってよかった。だから、市の職員の採用試験に挑んだ。採用数若干名の壁が達也の前に立ちはだかり、一度目の受験は不合格になった。だが、達也は決してあきらめなかった。卒業後はアルバイトをしながら、夜遅くまで採用試験の勉強に勤しんだ。そして、三回目の受験にして、見事合格を勝ち取った。
そんな達也の姿を、心から喜んでくれたのは、美里だった。達也が初出勤の朝、美里は玄関を出る達也に、そっと声をかけた。
「あんたが選んだ道やから、お母ちゃんは全力で応援してる。だから、立派な図書館司書になって、本の楽しさをみんなに伝えてあげて。」
達也は、
「うん、行ってくる。」
と言って、締めたネクタイに手をやった。鏡に映った自分の顔に、光が差したように見えた。




