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公園のよっちゃん  作者: 松山 さくら


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第二章 友情

 クラスの男子達の達也への嫌がらせは、落とし穴の一件から、少しずつ鳴りを潜めていった。達也が、自分から男子達に反発した訳ではなかった。だから、達也は、男子達の変わりように、首を傾げるばかりだった。

 何はともあれ、達也の学校生活に平穏が戻った。達也はそれまでと変わらずに、人と関わることを避けたが、まわりからの嫌がらせがなくなったので、達也の表情は明るくなった。

達也のその姿に誰よりも安心したのが、美里だった。ある日、仕事から帰った美里が、達也に向かってつぶやいた。

「あんた、最近明るくなったけど、どうしたん。意地悪していた子たちに、自分から嫌やって言ってやったん?」

 達也は返事に詰まった。少し間を置いてから、「うん」とだけ答えた。

「嫌なことは嫌やって、言ったらええんよ。お母さんなんか、あんたぐらいのときは、クラスの男子たちと、ようけんかしてたよ。そうやって何人も泣かしてたから、誰もお母さんに歯向かってこんかったよ。」

 美里は、得意げに話した。

 達也は、美里の話を聞いていて、じれったい気持ちになった。それ以上、母の話を聞きたくなかったので、宿題をすると言って、美里の話を遮った。

 リビングで宿題をしながら、達也はもの思いにふけった。あれだけ男子たちから嫌がらせを受けていたのに、それが急に止まった。自分の言動を振り返ってみたけれど、思い当たることは見つからなかった。気づけば、握っていた鉛筆の動きが止まって、だいぶ時間が経っていた。達也は、時計を見て驚いたようにはっと肩を上げて、鉛筆を走らせ始めた。

 しばらく経って、クラスの女の子が達也に声をかけてきた。

「達也くんのお友達、とっても強いね。」

 達也には、それが何を意味しているのか、わからなかった。達也は戸惑うように視線を彷徨わせた。

「達也くんのお友達、達也くんをいじめていた男子たちと、けんかをしたみたいだよ。『たっちゃんをいじめるな。』って大きな声で言って、男子たちに向かっていったみたい。男子たち、達也くんのお友達に叩かれて、泣きながら帰ってきたみたい。」

 その女の子は、けんかの様子をクラスの誰かから聞いたようだった。達也は、狼狽えた。自分のために、一体誰がいじめっ子たちに立ち向かってくれたと言うのだろうか。

「僕のためにけんかをしたなんて、それは一体誰なの?」

 思わず、達也は訊いた。女の子は、少し考えた様子だったが、答えが思い浮かばなかったのか、開き直って言った。

「私にはわからない。でも、男子たちの知らない男の子だったみたいだよ。多分、違う学校の人かなぁ。」

 女の子の『違う学校の人』という言葉を聞いて、達也は言葉を失った。もしや、男子たちに向かっていったと言うのは、由人ではないのか。由人は達也を落とし穴から助け出すときに、確かに『僕はいつだって、たっちゃんの味方だよ。』と言った。達也は、訳がわからなくなった。あの夕暮れの公園で出会うまで、達也は由人という男の子と会ったこともなかった。名前すら知らなかった。それなのに、由人はなぜ、自分が怪我をすることを覚悟してまで、達也のために立ち向かってくれたのだろうか。

 達也は女の子に、男子たちが災禍に見舞われたことを、自分に知らせてくれたことのお礼を伝えた。女の子は、

「そんなこと気にしなくてもいいよ。でも、達也くんを大事にしてくれる強いお友達ができてよかったね。」

 と、慰めるような表情で言った。

 達也の脳裏に、女の子が言った『強いお友達』という言葉が反芻した。


 それからしばらくして、クラスの男子たちは、達也を避けるようになった。それまでのように達也を仲間外れにしようとしているのではなく、達也を怖がっているようだった。放課後に達也が一人で公園に行くと、それまで遊んでいたクラスの男子たちは、まるで死神でも見たかのように悲痛な顔を浮かべて、どこかへ散っていった。達也は、怖気づきながら公園から退散する男子たちを、呆然と見送っていた。

 ある日、達也がそうやって、一人きりで公園に立ち尽くしていると、

「やぁ、たっちゃん。」

 と、声がした。その声の主が由人のものだと、達也にはすぐにわかった。

「あぁ、よっちゃん?」

 達也は、あたりを見まわしながら答えた。いつの間に公園に入ってきたのだろうか、由人は達也のすぐそばにいた。

「たっちゃん、あれからどう。あの子たちにいじめられていない?」

 由人は、ニコニコしながら訊いてきた。達也は少し声を上ずらせながら答えた。

「えっ、うん、いじめられていないよ。それよりもよっちゃん、もしかしてあの男子たちとけんかをしたのは、よっちゃんなの?」

「うん、それは僕だよ。だって、たっちゃんは、あの子たちからずっとひどい目に遭わされていたでしょ。僕、それを見ているのが辛かった。だから、これ以上たっちゃんをいじめないように、僕がけんかの相手になってやったのさ。」

 由人は高らかに言った。達也は、そう話す由人の身体を舐めまわすように見た。由人の身長は自分よりもほんの少しだけ低く、体つきもやせ細っていた。どう見てもその身体で、何人も相手したとは思えなかった。

「よっちゃん、けがしなかった?」

 達也は、由人を思いやるつもりで訊いた。

「ほら、僕は全然平気だよ。」

 由人は、両手を大きく上げながら答えた。

 達也は、由人にかける言葉が思い浮かばずに、

「そっ、そうなの…ありがとう…」

とだけ伝えた。

 それから達也は、由人と並んでブランコに揺られた。由人は、他の子供がブランコに乗ったらするように、漕ぐ高さを競おうとはしなかった。代わりに、達也の方を向いて、達也がブランコを漕ぐのを見守った。

「あのね、よっちゃん。」

 達也は思い切って切り出した。

「よっちゃんは、こないだも僕を穴の中から助け出してくれたでしょ。僕はよっちゃんのこと、よく知らないんだけど、どうして僕を助けようとしてくれるの?」

 由人は、達也の方を向いたまま、

「それはね、たっちゃんは僕の大切な親友だからだよ。ずうっとずっとね。」

 と、穏やかな口調で言った。

「えっ、でも僕はよっちゃんのこと、これまで知らなかったよ。学校も違うし…」

 達也は思わず訊き返した。

「僕は、たっちゃんのこと、昔から知っていたよ。だから、たっちゃんといっぱいお話をしてみたかったんだ。」

 由人は、そう言うと、ブランコを力強く漕ぎ出した。誰もいない公園に、由人が漕ぐブランコの音が響きわたった。達也は、由人が言った言葉を心の中で反芻しながら、由人が力強くブランコを漕ぐ姿をぼんやり見つめていた。


 学年が上がってからも、由人とは度々会った。達也が一人で過ごしていると、由人はどこからともなく現れた。達也が学校で嫌なことがあったときは、真剣な表情で訊いてくれたし、家で美里に叱られたときは、やさしくなだめてくれた。由人は、達也に口出しすることなく、いつでも聞き役にまわってくれたので、達也は由人と一緒にいて、心地よく感じるようになっていた。黙って達也の話に耳を傾ける由人の横顔を見ていると、随分昔から知り会っていたような感覚に襲われた。

 そんな由人だったが、不思議にも由人からは話題を出さなかった。また、何かをやろうと、達也を誘うこともなかった。あくまでも受け身であり、達也が話し出したり、何かをやり始めたりするのを、ひたすら待ち続けた。

 達也が小学三年生のとき、クラスで『冒険遊び』なるものが流行った。身のまわりで気になったことを、大人たちに内緒で、友達同士で探検するという遊びだった。

「俺、こないだ亮太と、自転車で隣町の学校まで行ってきた。かあちゃんに怒られるかハラハラしたけど、黙ってたら気づかれなかったよ。」

 クラスの男子が話した。親や先生の目を盗んで、隣町まで行けたことを自慢したいようだった。

それを聞いていた別の男子が、打ち明けた。

「僕なんか、武志と夜の小学校に入って肝試しをしたんだよ。先生たち、まだ職員室にいるみたいだったけど、真っ暗な階段を上がって、理科室の扉にタッチして戻って来た。僕は平気だったけど、武志が音楽室からピアノが聞こえたと言って、大騒ぎした。それで先生たちに見つかっちゃった。」

 そう話しながら、自分の度胸の強さをアピールしていた。

 そばで聞き耳を立てていた達也に、一人の男子が訊いた。

「そうそう、達也はみんなに自慢できることあるの?」

 達也は突然話を振られて、たじろいだ。無論、クラスメイト達に自慢できるようなことは、何一つ思い浮かばなかった。達也が答えに窮している様子を見て、「達也だもんね。」と、男子たちは口を揃えて冷たく笑った。

 途端に達也は悔しくなった。所詮、達也には何もできないだろうと、馬鹿にされたような気がして、両手をぎゅっと握りしめた。

 その日の帰り、達也の足取りは重たかった。クラスメイト達が自慢げに話していた姿が、目の前に浮かんでは消えていった。達也は、自分も誰にも負けない何かをやってみたくなった。そして、自分には何ができるかを考えた。いつしか周りの景色が見えなくなり、気がつけばいつもの公園の前にいた。

 達也は吸い込まれるように、公園の中に入った。自分よりもだいぶ小さな子供たちが、母親たちとともに遊んでいた。達也はベンチに向かうと、ランドセルを置いて、その横に座った。

 目の前の子供たちが、親が目を離した隙に草むらに入ったかと思うと、一人の女の子がえいっと声を上げて、何かを捕まえた。驚いた母親たちが草むらに駆けつけた。女の子が、大きなカマキリをつかんで見せた。「まぁ。」と、大人たちの驚く声が聞こえた。その女の子の母親らしき人が、

「そんな大きな虫を捕まえるのはやめなさい。挟まれたらどうするの。」

 と、慌てて言った。

 カマキリをつかんでいた女の子は、「いやだ。私が捕まえたの。」と、頑なに言い張った。結局その女の子は、母親の剣幕に屈したのか、泣きながらカマキリを草むらの中に逃がした。

 その様子を見ていた達也は、胸が苦しくなった。女の子が母親に叱られたことにではなかった。女の子が果敢に虫を捕まえたことにだった。達也は、それまでに虫を捕まえたことがなかった。むしろ、虫を見るのを怖がってさえいた。だから、虫を見かけたらすぐに逃げ出したし、女の子のように捕まえた虫をじっと観察することもなかった。

 達也は、自分よりもうんと小さな女の子が、平気で虫を捕まえている様子を目の当たりにして、自分の弱さを感じずにはいられなかった。自分もさっきの女の子のように、何かにチャレンジしてみたいと思った。クラスメイト達に自慢できる何かを、成し遂げてみたかった。

 

「たっちゃん、困っているようだね。」

 聞き覚えのある声がした。達也は、肩をびくつかせると、近くに来ているであろう由人に向かって言った。

「あぁ、よっちゃん、僕…」

 達也がそう言い始めたとき、由人は近くのブランコから音も立てずに立ち上がった。達也は、由人がそこにいたことに一瞬驚いたが、自分の気持ちをすぐにでも聞いて欲しかった。

「僕、冒険してみたいんだ。誰もやったことのない冒険。僕にだってできるってことを、みんなに見せたいんだ。」

 由人は、達也が座っているベンチにゆっくりと近づくと、達也の横にちょこんと座った。由人は、達也の心の中を見透かしているかのような言い方をした。

「学校でみんなに自慢されたんだね。たっちゃんは、どんなことをやってみたい?」

 達也は、そう訊かれてすぐには答えられなかった。これまでに自分から何かをやった経験がなかったので、何をやったらいいのかすぐには思いつかなかった。

「誰も行ったことのないところに行くとか、見たことのないものを見るとか…」

 達也は、由人が何かヒントをくれるのを期待した。だが、由人は口を真一文字に結んだままだった。時間ばかりが流れた。何も言わずに横に座っている由人のことが、少しだけ憎らしく思えた。

 そのとき、二人の頭上を一羽の鳥が横切った。それは一度だけでなく、ループを描くように、何度も繰り返した。

「つばめだね。」

 徐に由人が口を開いた。達也は頭の中で、図鑑で見たつばめを思い描いた。黒と白の身体で、頭が真っ赤で…それからも、つばめは何度もやってきた。やってきては、同じようにループを描いては、どこかに消えていった。達也がその様子を見ていたとき、頭の中に閃いた。

「そうだ!あのつばめの住んでいるところを探してみたい。」

 達也は夢中で声を上げた。

「たっちゃん、それいいね。つばめの家を探しに行ってみようよ。」

 目を輝かせながら、由人が応えた。

「そしたら、僕たちは『つばめ探検隊』だね。」

「うん、『つばめ探検隊』に出発!」


 その週の土曜日、五月晴れのもと、達也と由人は、公園に集合した。五月とは言え、朝から太陽の光が照りつけた。由人は熱中症になるといけないからと、ペットボトルのお茶を持ってきてくれた。「よし、行こう!」達也が号令をかけると、二人は自転車にまたがった。慣れた道を自転車で走るのは快適だった。乾いた風が心地よかった。しばらく進むと、さっそくつばめが目の前を横切った。

「よっちゃん、知ってる、つばめは空を飛びながら、餌を取るんだよ。」

 達也は、前の日に図鑑を読んで仕入れた知識を披露した。由人は、

「へぇ、そうなんだ。」

 と、嬉しそうな顔を浮かべた。

 空を横切るつばめを見つけても、その動きはすばしっこかった。つばめたちは、翼を大きく広げて、風を切りながらどこかへ飛んでいった。

「よっちゃん、あっちに行ってみようよ。」

 達也が指さした方向は、それまで一度も行ったことのない住宅街だった。普段なら物怖じして、自分一人では絶対に行かない方向だったが、由人と一緒なら違った。ペダルを漕ぎながら、どこまででも行けそうな気がした。それから二人は、初めて見る景色の中を進んだ。

「よっちゃん、つばめ見なくなったね。」

 達也はブレーキをかけて自転車を止めると、後ろを行く由人に呼びかけた。

「もう少し行ってみようよ。僕ね、地図を持ってきたんだ。たっちゃんは探検隊の隊長だから、この地図はたっちゃんが持っていてね。」

 そう言って、由人はところどころ破れかかった地図を手渡した。それから、二人はどんどん進んだ。あてなくペダルを漕いでいたので、いつの間にか住宅街を外れて、目の前には田畑が広がった。途端に、汗が背中を流れた。ずっと漕ぎっぱなしだったので、足が痛くなってきた。

「よっちゃん、少し休憩しない?」

 達也が提案すると、由人は「うん」と返した。

 二人が自転車を停めたのは、ため池のほとりの広場だった。二人は広場の端に置いてあった丸太の上に腰かけた。まわりに建物がなかったので、遠くの方まで見渡せた。

「よっちゃん、僕たちの家はあの辺かなぁ。」

 遠くを指さしながら達也が言った。そこには目印の裏山が小さく見えていた。

「そうだね。僕たち、ずいぶん遠くに来ちゃったね。」

 その言葉を聞いた瞬間、達也の脳裏に美里のことが浮かんだ。いくら由人と一緒だとは言え、こんなところまで来たことを知ったら、美里はカンカンになって怒るに違いなかった。達也は途端に暗い目つきになった。それを見ていた由人が、

「たっちゃん、どうしたの。大丈夫?」

 と、心配そうに訊いた。達也は、心の中とは裏腹に、

「だっ、大丈夫。平気さ。」

 と、強がった。

「だって、僕たち『つばめ探検隊』だもんね。」

 達也の不安な気持ちを押しのけようと、由人が明るい声で言った。

「うん、僕たちは『つばめ探検隊』誰も知らないものを見つけに行くのさ。」

 達也は自分に言い聞かせるように言った。

 それから二人は、再び自転車にまたがった。池を一周し、そのまま田んぼのあぜ道をすすんだ。広い田んぼだった。どれだけ進んでも、同じような景色ばかりが広がった。達也は自分のお腹が鳴るのを感じた。よく考えれば、朝、美里が作ったお茶づけを食べて以来、何も口にしていなかった。探検がお昼をまたぐとは考えていなかったので、お昼ご飯のことまで気がまわらなかった。だが、ここでそのことを由人に切り出すわけにはいかなかった。だから、達也は音楽の授業で習った歌を口ずさんで、空腹を我慢した。

 それからどのくらい走ったのだろうか、二人は古い町並みへと入っていた。あてもなく道なりに進んでいるうちに、狭い路地に迷い込んでいた。長年の風雪に耐えたであろう、木造の住宅が軒を連ねていて、路地の中は迷路のようだった。

 不意に二人の頭上を、何かが横切った。最初はその動きが早すぎて見えなかったが、軒の上に視線を集中させていると、それがつばめであることがわかった。

「よっちゃん、つばめ。つばめだよ。」

 興奮を隠し切れずに、達也は声を張り上げた。

「ほんとだ。たっちゃん、ほらあそこ。」

 そう言って、由人が指さしたのは、古い民家の軒先だった。目を凝らすと、空を舞っていたつばめたちが、ひっきりなしにそこに吸い込まれては、また飛び立っていった。

「よっちゃん、行ってみようよ。」

 達也は夢中だった。自転車をその場に倒すと、軒先目がけて走って行った。達也の目に、つばめの巣が入ってきた。想像していたよりも大きくて、しっかりしたつくりだった。達也が巣の近くに寄ると、四羽いた雛たちは一斉に達也の方を向いた。「かわいい」達也は思わず口にした。だが、雛たちはすぐに空の方を見上げた。空を凝視しながら、何かを探しているようだった。

 雛たちが一斉に口を大きく開いた。四羽は同じ方向を向き、「ここだよ」と必死にアピールしているようだった。次の瞬間、口に何かをくわえた親鳥が雛たちのもとに近づいた。そして、その中の一羽の口の中に、何かを押し込んだ。達也が、それが何かを考えているうちに、親鳥は再び空に飛んでいった。

 達也には、それが図鑑で読んだ親鳥による給餌であることに気づいた。

「すごい。雛に餌をあげているよ。」

 達也はまわりに誰がいるかを構わずに、夢中で喋った。それからまた、達也は雛たちに見入った。親鳥が何度も餌を運んでくる様子を、飽きることなく見続けた。

 だいぶ時間が経って、達也は由人のことを思い出した。そう言えば由人と一緒に来たのだった。

「よっちゃん、これ見て。」

 あたりに聞こえるように呼びかけたが、返事はなかった。達也は不審に思い、まわりを見わたした。誰もいなかった。もしかしたら自分がつばめに夢中になっているうちに、由人は退屈してしまって、その場を離れたのかも知れなかった。達也はここへ自転車に乗ってきたのを思い出した。確か、あそこに停めたはずと思い出して、さっき自転車を寝かせた場所に戻った。そこには、達也の自転車がぽつんと横たわっているだけだった。

 途端に、達也は不安に襲われた。五月とは言え、夕方の五時をまわれば太陽は少しずつ傾きを増していた。どこからともなく、夕餉の準備をする匂いが漂ってきた。達也の脇を、家路を急ぐ子供たちが足早に駆けて行った。

きっと、由人は自分を残して、帰ってしまったのだ。達也は、見知らぬ町で一人ぼっちになってしまった。それまで夢中でつばめを追いかけていた分、達也は自分の置かれた状況がわかるにつれて、不安感を膨らませた。


 達也は自転車を起こすと、とりあえず狭い路地を出た。どこかの住宅街なのだろうが、達也にはそれがどこなのか、まったく見当がつかなかった。達也は困り果てた。そのままここでうずくまって泣いていれば、不審に思った近所の人が声をかけてくれるかも知れなかった。だけど、それは三年生になった達也にとっては、恥ずかしいことのように思えた。第一、自分は『つばめ探検隊』の隊長として、この町にやってきたのだ。来るときは由人がいてくれたとは言え、自分の意思でここまで来たのだから、帰りも自分の力で帰りたかった。

 達也は目の前の道を、どっちの方向に進もうかと悩んだ。ふと、自転車の前かごに入っている紙が、風に吹かれてパタパタと音を立てた。「そうだ、地図があったんだ。」達也は、心の中でつぶやいた。夕闇が迫っているとは言え、まだじゅうぶんに地図の中の文字は読めた。地図の読み方は、社会の時間に習った。とりあえず、目印となるものを見つけて、自分の居場所を知りたかった。

 達也は、地図とまわりの景色とを交互に眺めた。道路の向こうに、大きな建物が見えた。達也の通う小学校に似た建物だった。さっき、路地の中で由人を探していたとき、見知らぬ子供たちが達也の横をすり抜けた。顔はよく見なかったが、背格好から自分と同じ年頃のようだった。達也は向こうに見える建物を眺めながら、それがさっきの子供たちが通う学校であって欲しいと思った。

「ここまで来れたのだから、大丈夫。僕にもできるよ。」達也は、自分の胸に手を当てて、言い聞かせた。そして、ようやく自転車のペダルに力をかけた。ときおり、家路を急ぐ車が、無遠慮に通り過ぎた。犬を散歩させる大人たちが、見知らぬ達也の姿に、好奇の目を向けてきた。達也は、不安な気持ちを悟られないように、笑顔を作った。まるで、通い慣れた道を行くかのように、前だけを見て自転車を走らせた。

 目印にした建物が近づいた。やはり学校だった。達也が通う学校よりも、ずいぶん大きな建物だった。門の前で自転車を停めたとき、達也の目に『西小学校』の文字が入ってきた。途端に、達也は思い出した。クラスの男子が隣町まで探検したと自慢していたのは、ここのことだったのだ。達也は嬉しくなった。自分は、クラスメイトが自慢していた場所に来て、しかもつばめの巣を見つけたのだ。それを聞いたクラスメイト達は、口を揃えて驚くことだろう。でも、今はまだ、それは妄想の段階だった。それは、達也が自分の力で家に帰って初めて、自慢できることだったからだ。

 目印の学校を地図で探した。地図の隅の方に、その名前が載っていた。自分の通う学校までの道を、地図の上でなぞってみた。道路を何度も右に左へと折れて、ようやく自分の通う学校にたどり着ける計算だった。ずいぶん遠くまで来てしまったように感じた。こんなところに一人でいることを美里に知られでもしたら、大目玉を食らうに違いなかった。だから、何としてでも、美里が仕事から帰ってくるまでに、家に帰りたかった。家に帰って、何事もなかったかのように、テレビの前に座っているのだ。

 達也が再びペダルを漕ごうとしたとき、誰かの声が聞こえた。

「こんなところで何をしているの。もう家に帰らないといけない時間でしょ。」

 達也は、その声が自分に向けられたものだと、すぐには気づかなかった。

「あなた、何年何組の子なの?」

 今度は、自分の横から聞こえた。達也がそっと横を向くと、学校の先生らしき人が立っていた。鞄を肩にかけているところを見ると、仕事を終えて家路に就くところのようだった。

「あっ、そのう…」

 達也は、困ったように言った。それを聞いたその女性は、

「とにかく中に入りなさい。こんな時間だから、一人で帰るのは危ないわ。家の人に連絡して、迎えに来てもらうから。」

 と言って、達也の肩に触れようとした。達也は、それを辛うじて交わすと、

「だっ、大丈夫です。一人で帰れます。」

 と声を震わせながら言った。そして、逃げ出すようにペダルに力を込めた。夢中だった。「待ちなさい。」と、後ろから甲高い声が聞こえた。ここで捕まる訳にはいかなかった。達也は、夢中で漕いだ。もしかしたら、自分の後を追いかけてきているかも知れないので、決して後ろは振り向かなかった。

 どれだけの間、達也はペダルを漕き続けただろうか。漕ぐ力を弱めると、一気に呼吸が苦しくなった。激しい運動をしたのと、危機一髪から逃れたこととで、心臓がバクバクと音を立てていた。どこをどう通ってきたのだろうか、達也の目の前に見覚えのある景色が広がった。裏山だった。手をのばすと、届きそうだった。達也は、ようやくほっと肩を撫でおろした。

 そこからの道のりは、軽やかだった。達也の住む住宅街に入ると、家まで一直線に進んだ。進みながら、この道がもう少し長く続いてくれたらとも思った。毎日通う学校の横を通り過ぎるときには、まるで自分一人だけの凱旋パレードをしているような気分になった。

達也は、『つばめ探検隊』から無事に帰還した。自転車をアパートの駐輪場に停めると、足早に部屋へと向かった。長い一日を終えて、アパートの他の部屋から漏れる灯りが、懐かしく思えた。

 達也は、首からぶら下げた鍵で部屋に入ると、冷蔵庫に向かった。きんきんに冷えた麦茶を、グラス一杯飲み干した。美里が帰ってくるまで、あとわずかしかなかった。汚れた服をはたいて顔を洗った。テレビをつけて、テーブルの前に陣取った。

 部屋のドアが開く音が聞こえた。達也は、「お母さん、おかえり」と、元気な声を出した。


 次の日、達也は興奮を抑えつつ、学校に向かった。朝の準備を終えたクラスメイト達は、教室のうしろに集まって、いつもの『冒険遊び』の話に夢中だった。

 達也は徐に、クラスメイト達の輪に近づいた。一人の男の子が、「昨日、公園でこんなでっかいカマキリを見つけたよ。」と、両手でカマキリの長さを再現しながら言った。「へぇ、すごいなぁ。」と、聞いていた男子たちが驚くように言った。

 達也は、「僕なんて…」と、輪の中に割って入って言ってやろうと思ったが、すぐに止めた。別にクラスメイト達からの、賞賛の声なんていらなかった。達也は、昨日体験した出来事を、自分の心の中にしまった。そうしていると、自分が少し大きくなったような気がしたし、この先どんなことだって乗り越えていけるように思えた。

 その日の帰り、達也はいつもの公園に向かった。ランドセルをベンチに置いて、その横にちょこんと座った。そうして、目の前で無邪気に遊ぶ、年下の子供たちを眺めた。もう何度、同じ光景を眺めたことだろうか。

 達也には、一つだけ気がかりがあった。それはもちろん、由人のことだった。『つばめ探検隊』に出た後、由人とはぐれてしまったままだった。自分があまりにもつばめに夢中になってしまっていたので、由人は退屈して先に帰ってしまったのかも知れなかった。探検に行くことを自分から言い出した手前、由人にはひと言、謝りたかった。いや、それよりも、自分一人でこの町に帰って来ることができたことを、由人にだけは知っていて欲しかった。由人なら、目を輝かせて、自分の話を聞いてくれるに違いなかった。

 公園から、一人また一人と、子供たちが帰っていった。どこからともなく、犬を連れた大人たちが現れては消えていった。そろそろ由人が現れる頃だった。達也は、由人に会ったら最初に何を話そうかと考えていた。だが、由人は現れなかった。公園の隅の方から、暗闇が近づいてきた。達也は落ち込んだ。そのまま待っていようかと思ったが、美里のことが気になった。後ろ髪を引かれる思いで、達也はとぼとぼと公園を後にした。


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