第一章 達也
「達也、あんたがしっかりしていないから、こんなことになるんでしょ。」
達也のランドセルの中から、一冊の教科書を開いて、母の美里が言った。
「こんなことをされて、達也は恥ずかしくないん。これをやった人たちに、なんとか言ってやったらどうなん。こんな調子なら、お父さんに笑われるよ。」
美里が怒っているのは、教科書に書かれた落書きについてだった。無論、達也にはそれが誰にされたのかは、おおよそわかっていた。これが初めてのことでもなかった。担任の先生に訴えるチャンスはいくらでもあったが、そんなことをすれば、その後どうなるかはわかっていた。だから、言えなかった。いや、もう慣れっこになっているので、言うつもりもなかった。達也は、その場を鎮めるために、自分で落書きをしたと言い続けた。
「あんたはこないだも体操着がなくなったやろ。それに筆箱の中の鉛筆も折れていた。自分でやったと言うけど、そんなことあるはずないやん。誰かにやられっ放しで、恥ずかしくないん。自分で言えんのやったら、お母さんから先生に言いつけるよ。」
美里の剣幕に、達也は耐えるしかなった。美里は、瞬間湯沸かし器のように、一気に怒りを爆発させる。そうして、熱湯が自分に降り注ぐのを絶えたのは、もう何回目だろうか。
達也は美里の怒りが、時間の経過とともに引いていくことを知っていた。落ち着いてきた頃を見計らって、「僕がいけないんだ。僕が退屈だったから書いたんだ。」と言えば、自分が叱られるだけでやり過ごすことができる。それで、少なくとも先生には知られずに済むので、次の日も平穏に学校に行ける。毎日がその繰り返しだった。
達也は、母の美里との二人暮らしで、兄弟はいなかった。父の陽一とは、幼い頃に死に別れた。陽一は、仕事をまっとうする中で殉職したと、美里からは聞かされていた。達也がまだ一歳を過ぎた頃のことで、当然のことながら父の陽一の姿は、写真でしか見たことがなかった。
そんな陽一のことを、美里は陽一が亡くなってからも慕っていた。だから、達也を叱るときは、いつも陽一のことを言葉の節々に出した。
達也は、幼い頃から引っ込み思案な性格だった。美里が働きに出ていたので、達也は近くの保育所に預けられていた。天気がいい日は他の園児たちが外に出て走りまわっていたが、達也は一人部屋の中に籠った。積み木を積んだり、お絵描きをしたりして、すすんで他の園児たちと交ろうとはしなかった。
そんな達也の姿を見て、保育園の先生たちは口を揃えて心配した。お迎えに来た美里に向かって、協調性がないだの、友達付き合いが悪いだの、思ったことを口にした。その度に、美里は迷惑をかけていることを謝り、達也にきつく当たった。
そんな日々を過ごしているうちに、達也は美里から叱られることに慣れていった。最初は叱られて泣きじゃくっていたが、次第に我慢することを覚えた。自分を悪者にして、叱られるのを我慢しさえすれば、美里の怒りはすぐに収まった。
達也は、次第に自分の気持ちを外に出さなくなった。思ったことがあったとしても、それを外に出すことで、誰かとトラブルに発展することを恐れた。そうして、小学校に上がる頃には、内気で何を考えているのかがわからない子供になっていた。
小学校に上がった達也は、クラスメイトたちの好奇の的になった。「おはよう」と声をかけても、返事がない。いつも一人で、こそこそと何かに没頭している。遠足に行ったときは、クラスメイト達の誘いを断って、一人でぽつんとお弁当を食べている。誰からともなく、達也のことを『変わった奴』と見なすようになった。
あるとき、クラスの男子が、達也に意地悪をした。達也は、相手に言い返す訳でもなく、黙り込んだ。どうやら、そのことは、先生にも気づかれていないようだった。これに味をしめたクラスメイト達は、達也への嫌がらせを始めた。最初は、悪口を言うような些細なものだったが、徐々に嫌がらせはエスカレートしていった。達也の持ち物が隠されたり、壊されたりした。下駄箱の靴の中に砂が入れられていたり、教室の机の中に悪口を書いた紙が入れられたりした。
それらは主に、クラスの男子たちの仕業だったが、達也が声を上げないので、女子たちは見て見ぬふりをした。不審に思った先生が、クラスメイト達に問い詰めることがあったが、彼らは皆、知らぬ存ぜぬを貫き通した。おまけに達也までもが何でもないと言い張ったので、先生はそれ以上深追いしなかった。
美里が、達也のいじめに気づいたのは、達也が小学校に上がって、半年を過ぎた頃だった。
ある日、仕事から帰ってきた美里は、達也のランドセルの中を覗いた。集金の案内など、学校からの連絡が入っていることがあったからだった。何げなく筆箱を開けたら、鉛筆が数本なくなっていた。そのことを達也に問いただすと、達也は学校に忘れてきたと話した。
それからしばらく経って、再び筆箱の中を覗くと、週末に買ったばかりの消しゴムがぼろぼろに切り刻まれていた。不審に思った美里は、達也の目の前でぼろぼろになった消しゴムを見せながら訊いた。達也は、そわそわしながら、自分ではさみを使って切ったと言った。なぜそんなことをやったのか、美里が理由を訊いても、達也は答えをはぐらかせるばかりだった。
その夜、達也が寝静まった後、美里はこっそりと布団を抜け出して、リビングに向かった。達也のランドセルの中身をごっそり出した。徐にノートを取り出すと、ページをめくってみた。数ページめくって、手が止まった。赤鉛筆で、『バカ』と、殴り書きがされていた。美里は、手が震えた。持っていたノートを床に落とした。
次の日、美里は一目散に仕事から帰ると、達也をリビングの机の前に座らせた。達也の前に、前日の夜に見たノートを開いた。達也はみるみるうちに顔を強張らせた。美里は、達也に正直に言うように迫った。だが、達也は自分で書いたと言い放った。いくら美里が問い詰めても、達也は決して折れなかった。落書きを見つけてしまった手前、美里は自分で書いたとしきりに訴える達也を、叱るしかなかった。達也は、嵐が過ぎ去るのをひたすら耐えた。
たまりかねた美里は、先生に相談することにした。女性の先生は、達也がいじめに遭っていることを知らないようだった。先生は、達也から事情を訊いてみると言った。次の日、先生は達也から話を聞いたが、達也は自分がいじめられていることを否定した。本人が頑なに拒否する以上は、クラスの中でこのことを追及することができなかった。
ただ、先生はそれ以降、厳しく目を光らせるようになった。その姿勢はクラスメイト達にも伝わったようで、達也の物が消えたり傷つけられたりすることは、少しずつ減っていった。
クラスメイト達の達也に対するいじめは、別の形で続いていた。達也が二年生に上がる頃から、ことあるごとに仲間外れにされた。
グループを決めるときは、クラスメイト達は達也と同じグループになるのを避けたし、グループで活動するときは、達也を無視するか、逆に達也一人に課題を押しつけた。もっとも、クラスメイト達の全員が、達也を仲間外れにすることに直接加担していた訳ではなかったが、なんとなくクラス全体の雰囲気がそのようにさせていた。
達也自身は、自分が避けられていることに不快感を抱いてはいたが、むしろ煩わしい他人と関わらずに済むので、クラスメイト達から疎外されることを受け入れていたと言える。
アパートに帰ってから、美里からは口うるさく言われ続けた。「あんたの意思が弱いからや。」とか、「もっと強くならんと。」などと、顔を合わせる度にきつく言われた。そんなとき、達也は貝になった。美里が諦めるまで、決して口を開かなかった。
そんな達也が、一人の友達と出会ったのは、二年生の秋の日のことだった。行く宛てなく、近所の公園をぶらぶらしていると、一人の男の子が達也の前に現れた。
「たっちゃんだね。」
突然自分のあだ名を呼ばれて、達也は困惑した。それまでに会ったことのない男の子だった。自分よりもほんの少しだけ背が低いので、まだ一年生くらいだろうか。もしそうなら、同じ学校に通っているということで、相手が自分の顔と名前を知っていてもおかしくはなかった。
「あぁ。僕は達也。君は?」
達也は勇気を振り絞って、声にならない声で訊いた。男の子は、ブランコに座ると、勢いよく漕ぎ出しながら答えた。
「僕の名前は由人、よっちゃんって呼んでね。」
達也は、顔を強張らせたままだった。突然目の前に現れた見ず知らずの男の子に、馴れ馴れしく話しかけてもよいものか悩んだ。
「僕は二年生だけど、君は何年生なの?」
喉の奥から振り絞ったつもりなのに、ぼそぼそとした声になった。
「知っているよ。僕も二年生。だけど、たっちゃんとは別の学校に通っているよ。」
由人と名乗る男の子は、笑みを浮かべながら答えた。達也は、由人が言った「別の学校」という言葉が、少し不思議に聞こえた。この公園に来るのは、同じ小学校の子供たちと決まっていたからだった。
「僕の通っている東小学校とは別の小学校ってこと?」
達也は試しに訊いてみた。
「そうだよ。少し離れたところの学校だよ。」
由人は得意げに答えた。
達也は、途端に意味が分からなくなった。由人が別の小学校に通っているのならば、なぜ自分のことを知っているのだろうか。保育園でも一緒になったことはなかったはずだ。しかも、クラスメイト達から相手にされない自分に、どうしてこうも親しげに話しかけてきたのだろうか。達也は、由人と名乗る男の子と、どこかで会ったことがあるのかを、必死で思い出そうとした。
由人は、何かが気になったようにブランコから降りると、徐に言った。
「あっ、僕、そろそろ帰らなきゃ。たっちゃん、またね。」
由人はそう言うと、一直線に公園の出口に向けて走っていった。その後を、赤や黄に色づいた葉が、風に吹かれて舞っていた。
その翌日、達也は珍しくクラスの男子たちから遊びに誘われた。町の外れの裏山で、『秘密基地遊び』をするのだと言う。そこは鬱蒼とした森が広がり、昼間でも薄暗い場所だった。斜面にはところどころ空洞があって、先生から近づいてはいけない場所だと教えられていた。達也は面倒なことには関わりたくなかった。だから男子たちの誘いに、最初は断った。だけど、男子たちが執拗に誘ってきた。だから、最後は断り切れなかった。
達也は、誰もいないアパートの部屋に帰ってランドセルを置くと、重い足を引きずりながら約束の場所に歩いて向かった。森の入り口に立つと、奥の方から冷たい空気が流れてきた。木々の葉が風に吹かれて、不気味な音を立てていた。
「達也、こっち!」
聞き覚えのある声だった。達也は、声がした方を振り向いた。誰もいなかった。達也は、足元の石ころを軽く蹴った。
「達也、早く!」
また声がした。どうやら森の奥の方から聞こえたようだった。達也は一瞬迷ったが、声のした方に進んで行った。すでに日が傾きかけているのか、時折、木々の間から眩しい光が差し込んできた。
達也は寂しくなって、思わず声に出した。
「みんな、どこ、どこにいるの?」
耳を澄ましてみたが、返事はなかった。達也はさらに足を進めた。最初は平坦だった登山道が、いつの間にか登りに差しかかっていた。歩みを進めるたびに、達也は不安になってきた。このまま引き返すこともできたが、男子たちとの約束を守らなければ、また明日、何をされるかわからなかった。
登山道の脇の茂みが揺れた。人の気配を感じた。達也は、男子たちの名前を呼んだ。返事はなかったが、茂みの奥にきっといるはずだった。達也は手で掻き分けながら茂みの中に入った。着ていた服に、植物の種が纏わりついた。少し進むと、開けた場所に出た。落ち葉が何層にも重なってできた窪地のようだった。
達也はそろりと落ち葉の上を歩いた。途端、つま先が柔らかいものを捉えた。踏み出した方の足に、すでに体重がかかっていた。次の瞬間、達也の目の前から、景色が消えた。背中に、がさっと落ち葉が降り注いできた。達也は何が起きたのか、わからなかった。
「よっしゃ。」
「ざまあみろ。」
聞き覚えのある声が次々に被せられた。達也はなんとか仰向けの態勢になると、明かりが差す方を眺めた。ようやく自分が、穴に落ちたことに気づいた。何人かが上から覗いていた。クラスの男子たちだった。彼らはげらげらと笑うと、どこかに逃げていった。
達也は、しばらく木の枝越しに染まるオレンジ色を見つめていた。だいぶ時間が経って、自分がクラスの男子たちに、この穴に落とされたことに気づいた。その瞬間、無性に悔しくなった。達也は、両手を大の字に開いて、地面の落ち葉を何度も叩いた。涙で視界が滲んだ。
どれだけの間、そうしていただろうか。気がついたときには、穴の上に広がる空が青みを帯びていた。達也が起き上がろうとしたとき、どこかからか声がした。
「たっちゃん」
達也は腕で涙を拭った。
「たっちゃん、僕だよ。大丈夫?」
穴の上から人影が覗いていた。達也は、昨日公園で見かけた男の子のことを思い出した。
「由人くん?」
達也は小声で訊いた。
「そうだよ。今、助けてあげるからね。」
由人はそう言うと、穴の壁に足をかけて、ゆっくりと降りてきた。そして、達也に向かって手を差し伸べた。
達也は起き上がると、由人の手を掴んだ。由人に支えられて、足場の悪い中で何とか立ち上がることができた。暗くて初めのうちは気づかなかったが、達也は全身土と落ち葉まみれだった。すぐに美里の姿が浮かんだ。こんな様子を見せると、「あんた、またやられたの?」と、叱られるに決まっていた。
由人は、腕で達也の全身をはたいて、汚れを取り除いてくれた。
「たっちゃん、自分で上がれる?」
達也が壁に足をかけると、痛みが走った。穴に落ちた衝撃で、足首をくじいてしまったようだった。
「たっちゃん、僕が先に上がるから、上から引っ張ってあげるよ。」
由人はそう言うと、軽やかに穴の外に上がった。それから、腹ばいになって達也の両腕を掴むと、力いっぱい引っ張った。達也は、足の痛みに堪えて、なんとか穴の外に這い出ることができた。
達也は、全身をはたきながら、由人に「ありがとう。」と言った。
由人は、悲しそうな目を浮かべながら、
「ひどい目に遭ったね。たっちゃんは何も悪くないのに。」
と、言った。
達也の目から、涙がこぼれた。悲しくて立っていられなかった。達也はその場にうずくまると、堰を切らしたかのように涙を流した。そんな達也を、由人は背中をさすりながらやさしく見守ってくれた。
長い間泣いて、涙が枯れ果てた。それと同時に、ようやく達也が落ち着きを取り戻してきた。それを見ていた由人は、
「たっちゃんが学校で嫌な思いをしているの、僕は知っているよ。お母さんに怒られたくなくて、ずっと黙っているのもわかってる。僕はいつだって、たっちゃんの味方だよ。」
と、達也の耳元で囁いた。
達也は、不思議な感覚だった。どこの誰かはわからないが、由人と一緒にいると、気持ちがすっと落ち着いた。自分の味方だと言われて、純粋に嬉しくなった。
それから、達也は由人と並んでその場に座った。それまでは、惨めな自分のことを誰かに話せずに黙ってばかりいたが、由人にだけは話せると思った。だから、達也は、学校でいじめられていることを打ち明けた。そんな達也の話を、由人は口を挟まずに聞いてくれた。
気がつけば、濃いブルーの空に一番星が輝き出していた。ふと、美里のことが達也の脳裏を過った。もうしばらくすると、美里が仕事から帰ってくる時間だった。
「僕、もう帰らないと。」
達也が申し訳なさそうに言うと、由人は、
「わかっているよ。僕、近道を知ってるから、僕についてきて。」
と言って、達也の手を引っ張った。
さっき足首に感じた痛みは、消えていた。あたりはすっかり暗くなっていたが、月明かりが足元をほのかに照らしていた。達也は、由人に引っ張られるように、夢中で歩いた。どこをどう歩いたのかは覚えていなかったが、気がつけば達也のアパートの前にたどりついていた。
「ここが僕の家なんだ。」
達也が二階の扉を指さして言った。由人は、にっこり笑って、
「うん、知ってるよ。今からならお母さんに叱られずに済むね。」
と答えた。
達也は、由人がなぜ、自分の家を知っているのかが気になったが、訊き返すのを止めた。代わりに、訊いた。
「これから、よっちゃんと呼んでもいい?」
由人は、「うん」と、にこやかに頷いた。それから、由人は駆け出した。達也がその姿を目で追おうとしたときには、由人の後ろ姿は闇の中に消えていた。




