金沢のホテルにて
もたれかかったガラスの冷たさに気付いてゆっくり目を開けると、薬の効いて寝ぼけた耳へ、金沢への接近を告げる車内放送が流れていた。半身を起こして辺りを見回せば、そこには六時前、大急ぎで乗り込んだ「はくせつ」の、見慣れた車内風景が広がっていた。
「――坂東先生、坂東先生!」
「……真樹さん、ここはいったい?」
前の座席で眠りこけていた坂東医師は、ずれた眼鏡を直しながら辺りを見回した。
「どうやら目が覚めて、現実に戻って来たようですよ。――おい新司、終点だぞ。これ以上寝てたら、夜困るのはお前なんだから……」
通路へ上半身がはみ出たまま眠っていた甥を起こすと、網棚から荷物を下ろし、真樹たちはいそいそと降りる支度をはじめた。大勢の乗客に交じってホームへ降りると、ひんやりとした金沢の夜の空気がそこかしこへ満ちていた。あの奇妙な経験との落差のせいか、予約していた駅前のホテルの部屋へつくまで、三人は終始無言のままだった。
「――あの板前さん、坂東先生のことを知ってたんですね」
「……悪いことをしたなあ、あの親爺さんには。僕は今の今まで、そのことをすっかり忘れていたんですよ」
荷ほどきが済んで、小さな丸テーブルを囲んで腰を下ろすと、坂東医師は真樹の問いかけに応じ、ため息をついた。
「前におっしゃってましたっけね、坂東先生。九州で会ったお寿司屋さんの大将が、もともと『なにわ』で板前をしていたって。――もしかするとそれ以前、ほんのわずかな間だけ、その人は『ちどり』でも同じ仕事をしていたのかもしれない。そうでもなきゃ、あんな風にはなりませんよ」
据付の電気ポットからお湯を汲むと、真樹は眠気を払うべく、インスタントコーヒーを濃い目に淹れ、それぞれの手元に配った。
「たった一度あったきりだったけれど、その人は僕が新人医師だと知って、しきりに励ましてくれましてね。あとで他の人から聞いたんですが、学徒出陣で亡くなった一番上のお兄さんが、医学生だったそうです。何か僕に、お兄さんと重なるところがあったんでしょうか……」
無言のまま話を聞いていた新司が、かもしれないですねえ、と力なくつぶやく。奇妙な出来事ではあったものの、その正体がこうして割れた今となっては、怖がるだけの気力もなかったのである。
「ねえ兄ぃ、こういう変な夢が続いたっていうのはさ、そのご主人がまた坂東先生に会いたかったから、って風に思うんだけど……うげっ、なんだこりゃあ」
話しながらコーヒーへ手を付けた新司だったが、そのあまりの濃さと苦さにすっかりひどい表情を浮かべている。
「悪い悪い、ちょっと濃くしすぎたらしい。――まあ実際、お前の言う通りかもしれない。今夜を境に目撃談がなくなれば、そういうことになるんだろうよ。まあしかし、なにもかも『もしかしたら』という程度の話さ。ひとまず今夜は、さっさと飯を食って寝ることにしようぜ。せめていろいろ見てまわってから、傘岡に帰りたいしな」
「結局、あの人が握ったお寿司、食べ損ねたんだもんなあ。よくないんだっけ? ああいうところで出たのを食べちゃうのって」
「――悪意がない相手とわかっていたら、せめて一口ぐらい食べておけばよかったかもなあ」
いつの間にか肩を揺さぶり、口惜しさと切なさの混じった涙で顔をいっぱいに濡らしていた坂東医師へ、真樹はかける慰めの言葉が思いつかなかった。じめじめとした梅雨の空気が、金沢の夜景をぼんやりと包む、けだるい宵のことである――。




