いざ、九州へ
真樹の言葉通り、その日を境に人々を困惑させた奇妙な夢――あの板前の居る急行の話はぷっつりと止んでしまった。まるで最初からそんな噂などなかったかのように、跡形もなく、である。
「――人の噂も七十五日、と思ったが、案外短い命だったなあ」
その日の午後、客の入りの悪いのを幸いとばかり、真樹は遊びに来た新司と茶の間でアイスキャンディーをなめていた。梅雨はとっくに明けて、セミの陽気な鳴き声がそこかしこの木から流れてくる。夏休みは、もうすぐそこまで迫っていた。
「ほんとだねえ。でもよかったじゃん、結局オレたち、金沢観光して帰って来ただけで済んでさ。相手が面倒なお化けとかだったら、きっと今頃……」
体の前へ手を出し、うらめしや……と声色をつくる新司の額へ、真樹は容赦なくデコピンを食らわせる。
「いてえなあ、もうちょい手加減してくれよ兄ぃ」
「やなこった、何が悲しくてお前なんかに……おや?」
表の引き戸が開いたのに真樹が顔を上げると、すりガラスの向こうから坂東医師のこんにちは、という声が聞こえてきた。
「やあ、ちょうどいいところへ。暑さに負けて、ついどっさりと買い込んだのがあるんです。よかったらアイス、食べていきませんか」
「それはありがたい。冷房も効いているようだし、ちょっと涼ませてもらいましょう」
一番強い設定にしたクーラーのおかげで、ガラス障子はすっかり冷え切っている。ややかじかみながらそれを滑らせて入ると、坂東医師は襟元へハンカチを突っ込み、汗をしきりに拭った。
「そういえば真樹さん、いい知らせがありますよ」
三本目のアイスへ歯を立てかけたところで声をかけられて、真樹はそっと、坂東医師の方へ顔を向けた。
「――Sのやつ、無事復帰することが出来ましてね。夢のほうもぱったり、僕らがあのご主人に遭遇した日から見なくなったそうです」
「ほほう、そいつァよかった――。で? おありなんでしょう、なんとなく気の進まない、悪い知らせというのも……」
コロコロと変わる真樹の表情に戸惑いつつも、坂東医師はおもむろに言葉を続ける。
「――やっぱり、あの奇怪な食堂車の板前は、九州のお寿司屋さんの大将で間違いありませんでした。ほうぼう伝手を頼って消息を確かめたら、お亡くなりになっていました。ちょうど命日は、僕らが金沢行きに乗っていた日の夜遅くだったそうで……」
冷房のものではない、あきらかに湿度の違う寒気が、真樹と新司の背筋を襲った。やや年季の入ったクーラー特有の、カタカタというメカの音だけが数分ばかり部屋の中を支配した。
「――しょうがない、こいつァまた、切符の取り直しですね」
「兄ぃ、もしかして……」
新司の顔を覗き込む坂東医師に、真樹は笑って続ける。
「行きましょうよ、九州へ。あんな乙なことをしてくれる人だ、お焼香に行けばその晩に、大きな寿司桶をもって現れるかもしれない。いろいろ聞いてみましょうよ、僕らの知らない、大将のことを」
早くも潤みだした片目を抑えながら、坂東医師は黙って頷く。新盆の旅路の支度が、小さな街の片隅の、小さな店の中で今、幕を開けようとしていた――。




