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板前の居る急行  作者: ウチダ勝晃


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7/9

「ちどり」車中の出来事

「おや……?」

 いままで体を預けていた座席と、明らかに違うその感覚に目を覚ますと、真樹啓介はやっぱり……と辺りを見回した。「はくせつ」に使われている平成初期の車両とは明らかに違う、数十年は年季がかさんでいるような国鉄型の車両の内装が目の前に広がっている。あんなに赤かった夕焼け空はどこかへ消え、ガラス一枚隔てた窓の向こうは、ただただ真っ白く輝いているばかりであった。これが現実でないのは、火を見るよりも明らかである。

「――おいっ、起きろ。起きろ新司!」

「ふええ?」

 ありがたいことに、同行していた甥の新司、坂東医師は眠る前と同じ位置に収まっている。熟睡している二人の肩をさすって起こすと、真樹は坂東医師へ、どうやら成功したようです、と呟いた。

「――驚いた、全然『はくせつ』と違う車内だ」

 辺りを見回し、内装のあきらかな違いに坂東医師は目を丸くしている。

「しかもこれは二人掛けのシートだから、急行『ちどり』でまず間違いないでしょう。たしか例の食堂車は、金沢方向の五両目だったはずです。かなり長い列車だったそうですからね、『ちどり』は」

 遠目に見える車内番号は「八」、進行方向から行けば食堂車は二両隔てた先ということになる。まだ眠い目をこすっている新司の手を引き、真樹啓介と坂東医師はゆっくりと、貫通扉を開けて、お客のいない車両のど真ん中を一歩ずつ慎重に歩んでいった。

「いよいよ、お待ちかねの五号車か……」

 丸みを帯びた「食堂車」という文字の躍るすりガラスをにらむと、真樹啓介は勢いよく、扉を開け放った。

「――おや、ずいぶんと多いお越しですね」

 つんと鼻をくすぐる、甘い酢飯の香りと、若々しい声が真樹たちの耳へ飛び込んでくる。見れば視線のはるか奥には、小さなカウンターのついた厨房と、そこで割烹帽子をはすに被った、温和な顔立ちの板前が控えている。

「……さっそく、ご本尊様のお出ましか」

 おそるおそると近づくと、真樹はカウンターひとつ隔てて立っている板前の顔をじっと見つめた。新司が言っていたような老人ではない、どこからどう見ても、二十代そこそこという顔立ちのはつらつたる青年の姿がそこにはあった。

「おや、そちらにいる丸眼鏡のお方は……」

 自分へ視線を向ける真樹のことをよそに、板前は肩越しに坂東医師の顔をしげしげと見つめていた。が、やがて何を思ったのか、

「そうか、あれからもうそんなに……。じゃあ、三人前、折箱で支度することにしましょう」

 そばに置かれた、酢飯の桶へそっと手を入れると、板前は小さいながらも具材の揃ったガラス箱を一瞥し、慣れた調子でどんどん寿司を握っていった。そのあまりにも鮮やかな手つきを前にして、三人はただただ、黙ってそれを見ている他にすべがなかった。

「おまちどおさま。――お代は結構です、お席でゆっくり、お食べになってください」

 ヒノキの甘い匂いがつんと香る経木の箱へ、板前は慣れた調子で掛け紙をのせて輪ゴムで留める。邪気など微塵もない、屈託のない笑みを前に、真樹はすっかり呆気に取られている。と、

「――そうか、じゃ、あなたは……!」

 それまで無言を貫いていた坂東医師が、何かに気付いて板前の顔を指さした。

「やっとお気づきになりましたか。まあ、仕方ありませんね、ずいぶん月日が経ちましたから……」

「申し訳ないご主人、なぜ僕はこの話を聞いて、すぐにあなたのことに気づかなかったんでしょう……」

 どうやら坂東医師には、この若い板前に心当たりがあったらしく、それに気づかなかったことをしきりに詫びだした。しかし、板前はカラリと笑って、

「そう嘆きなさんな坂東先生、お連れさんがびっくりしますよ。――あいにく、今日はもうネタが切れちまいましてね。そろそろこの列車も、終点に近づいてますから、お早く席へ戻った方がいいですよ。うっかりすると、それより先についてしまいまさぁ――」

 板前の言葉に、真樹はハタとあることに気が付いた。そして、カウンターに置かれた折箱を三つ抱えると、

「それじゃあ板前(いた)さん、こいつはもらっていきますよっ」

「まいどありっ、気を付けて……」

 新司と坂東医師の背中を、ラグビー選手のタックルの要領で押しながら、真樹は元居た八号車の座席へと大急ぎでかけていった。そして、元の通りに座りなおし、緑色をした掛け紙つきの折箱を膝の上へ置いたところで、真樹の意識はぷっつりと途切れてしまったのであった。



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