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第45話:『通訳、帰省中』


数日前。ふと、「帰るか」と思い立って、無理やりもぎ取った連休だった。えげつないタイムスケジュールのバイト(ホスト業)も、大学も、最近続いていた警察関係の心労も、忠敬はすべて東京に置き去りにして、カバン一つで飛び乗った。



電車を降り、改札を抜ける。

そこはもう、見慣れた田舎の無人駅だった。


周りには誰もいない。


高い建物もない。 急かすような人混みもない。

六月の終わりの風が、ゆっくりと田んぼを撫でていた。



忠敬は小さく息を吐く。

重かった肩が少しだけ軽くなる。



スマートウォッチの黒いベルト――クロノの名前が刻まれたそれを、無意識に指先で撫でた。

返事はない。もうずっと返事はない。それでも癖だった。



「……帰るか」


誰に言うでもなく呟く。その瞬間、駅のベンチから小人が飛び上がった。


『おお!?』

『見える兄ちゃんだ!!』

『久しぶり!!』


忠敬は無表情で通り過ぎる。


「久しぶり」


『久しぶりー!!』

『元気!?』


「疲れてる」


『知ってる!!』


「知ってるのかよ」


『顔が死んでる!!』


「うるさい」


小人たちはケラケラ笑った。

少しだけ。ほんの少しだけ。忠敬の口元も緩んだ。


気を張って頑なに作っていたあの無表情は、この田舎の静けさのなかに、ゆっくりとほどけ始めていた。







祖父母の家は変わっていなかった。

古い木造家屋。広い庭。縁側。風鈴。畑。


幼い頃から何も変わらない。



ガラガラと懐かしい音を立てる引き戸を開ける。

その敷居を跨いだ、まさにその瞬間だった。家の中に入った瞬間、家中の小人が騒ぎ出した。

本当の『大爆発』が起きた。


『おかえりーーーーー!!!』

『忠敬がきたぞ!!』

『帰ってきたぞーーーー!!!』

『通訳だ!! 通訳だーーー!!!』

『忠敬だーーー!!』

『帰ってきたーー!!』

『通訳だーーー!!』

『みんな呼べーーー!!』



一斉蜂起。


玄関の三和土、廊下の古い柱時計、居間の座布団、台所のやかん、果ては廊下の突き当たりにある大きな箪笥まで。家中のありとあらゆるモノたちの小人たちが一斉に姿を現し、待ってましたとばかりに大はしゃぎで、家が揺れそうほどのボリュームで一斉に喋り、叫び、訴えかけてくる。


この家の小人たちにとっても、忠敬は目に入れても痛くない大切な、”孫”の帰省なのだ。


『おい忠敬! 宗次に早く言ってくれ! 』

『居間の右奥の天井、雨漏りのシミが広がってて痛いんだよー!』

『こっちも! 箪笥の引き出しの建付けが悪くて、宗次がいつも力任せに閉めるから腰が痛いって伝えてーー!!』

『お腹空いてない!? 早くミツエにスイカ切らせて!!』

『大学がんばってるー!? ちゃんと寝てるーー!?』


まるで親戚の兄ちゃん、姉ちゃんのような声かけ。


「……ただいま。おじいちゃん、おばあちゃん。……あと、みんなもうるさい。一斉に喋るな」


『帰省だー!!』

『三年ぶりだぞ!!』

『違う二年!!』

『細かい!!』

『もっと帰ってこい!』

『そうだそうだ!!』


カバンを下ろしながら、忠敬はどこか呆れたような、けれど心底居心地の良そうな柔らかい笑みを浮かべて、小さく首をすくめた。


奥からミツエが顔を出した。

「あらあら」


記憶と変わらず、柔らかく笑う。

「賑やかなのかしらねぇ」

「うるさいです」

 

祖母は変わらない。昔からそうだった。見えない。聞こえない。それでも否定しない。


「おかえりなさい、忠敬ちゃん」 



その一言だけで良かった。




「みんな喜んでるの?」

「苦情です」


なんだかどっと疲れた忠敬が上がりあがりかまちに腰を下ろした。

奥から祖父も出てくる。


「おぉ」


穏やかに笑う。


「帰ったか」



「ただいま」


その声だけ少し幼くなる。本人は気付いていない。

祖父母はそれに気づいてそっと目を細めた。



祖母が笑う。

「ご飯できてるわよ」


「うん」



大学生でもない。ホストでもない。事件の中心でもない。

ただの孫だった。



ご飯までのわずかな隙間、忠敬は居間の畳にごろりと横になった。開け放たれた縁側から入る風が、火照った肌を優しく撫でていく。カバンから取り出して畳に置いた写真のふちから、軍服姿の正一がひょっこりと顔を出した。


『おうボウズ、相変わらず歓迎されてんなぁ! どれ、ここでどれだけこき使われるのかじっくり拝んでやるぜ』

「正一さん、うるさいです。今からちょっと寝るので静かにしてください」

『ハッ、言うようになったじゃねえか。よし、宗次に伝える前の小休止だ。今のうちにたっぷり寝とけ。この家のガラクタども、飯時になったらもっとうるさくなるぞ』


正一は悪戯っぽくニカッと笑うと、わざわざ忠敬の腹によじ登りそのまま腰掛けて腕を組んだ。枕代わりにした座布団の小人が『ゆっくり休んでねー』と耳元でそっと囁く。東京ではベッドに入っても消えなかった脳の芯の焦燥が、この部屋の嘘のない静けさのなかに、サラサラと融けていくようだった。



やがて台所からトントンと小気味よい包丁の音が響き始め、その時間は、いつも通り静かで、けれど温かく始まった。


煮物。焼き魚。味噌汁。漬物。白米。

白米はつやつや光って単体でも美味しい。忠敬は二杯目をよそう。


「たくさん食べるのねぇ」

ミツエは嬉しそうに麦茶を注ぎ足した。


「店の飯あんまり好きじゃない」


「そうか」


忠敬の茶碗には、何も言わずにいつもより多めのご飯がそっと盛られた。

ごはん中に柱の小人が駆け込んできた。


『忠敬!!』

「なに」

『宗次に言え!!』

「じいちゃん」

「ん?」

「北側の柱、雨漏りしてるらしいよ」 


宗次は箸を止めて天井をみた。



『やっと言えたーー!!』

「三年前から言ってるそうです」


その言葉に、宗次は頭を抱える。

「もっと早く言ってくれよぉ……」


ミツエは、そんな宗次を見ておおらかに笑った。

「柱さんも大変だったのねぇ」

『大変だった!!』

「大変だったそうです」


祖父母には何も聞こえていない。それでも、忠敬がここにいるだけで、小人たちとの会話は当たり前のように食卓に混ざり合っていく。そこへ、今度は宗次が愛用している古い湯呑みの小人が、ここぞとばかりに小さな胸を張って言い足した。


『そうだぞ忠敬、聞いてくれ! 宗次のやつ、今朝もミツエに隠れてこっそりお煎餅の袋を開けようとして、思いきり中身を畳にぶちまけやがったんだ! 「兄さんにバレたらまた馬鹿にされる」って、大慌てで証拠隠滅してたんだからなー!』


「じいちゃん」

「ん?」

「今朝、おばあちゃんに内緒でお煎餅ぶちまけたの、湯呑みさんが全部見てたって。正一さんにバレるの、相当焦ってたらしいね」


「っゲホッ、げほっ……!!」


宗次は盛大にお茶を喉に詰まらせて真っ赤になり、ミツエは「あらあら、おじいさんったら」と、全てをお見通しのような目元でクスリと笑った。




昼頃、忠敬は物置に来ていた。


東京の喧騒から逃れてきたはずなのに、ここにはここの騒がしさがある。庭の物置の重い引き戸を開けると、錆びついた蝶番の隙間から、蝶番の小人が顔を真っ赤にして必死に手を振っていた。


『痛い』

『ここ! 忠敬ここ!!』

『じいさんに油差すように言ってーー!!』


「じいちゃん」


「今度は何だ」

麦わら帽子を被った宗次が、庭木を剪定する鋏の手を止めて振り返る。


「物置の蝶番」

「うん」

「痛いらしい」

「油差すか」


『やったー!!』

『さすが通訳!! 気が利くーー!!』

『早く油ーー!!』


カンカンと照りつける六月の太陽の下、宗次が持ってきた古い油缶の先から、黒い油がポタポタと染み込んでいく。


『あーー……生き返るわぁ……』 

さっきまで泣きそうだった蝶番の小人が、とろけたような顔で引き戸の裏に寝そべった。


それを見て、近くの古びた如雨露じょうろの小人も『こっちも! こっちも穴が詰まってて苦しい!』と騒ぎ出し、庭の手押しポンプの小人まで『最近水が上がりにくいって宗次に伝えて!』と大合唱を始める。


「……じいちゃん、如雨露とポンプも。あとで見てあげて」

「お、おいおい、一気に言われても私の体が足りんよ」 


困り果てたように笑う宗次の横で、忠敬は手押しポンプの冷たい水を両手に受け、そのまま顔を洗った。井戸水の冷たさが、頭の芯を優しく冷ましていくようだった。


午後を過ぎる頃には、さらに風が抜けて居心地が良くなる。 

縁側の日陰に座り、ミツエが剥いてくれた冷たいスイカを口に運ぶ。種を庭に飛ばす忠敬の足元で、畳の隙間から這い出てきた古い団扇うちわの小人が、一生懸命にパタパタと自分の体を仰いで、忠敬の脛に風を送ってくれていた。


『どうだー? 涼しいかー?』

「うん、涼しい。ありがと」

『へへ、東京にはこんな良い風ないだろー!』


嘘も、計算も、値踏みする目もない、ただただ平和な時間。

東京では一秒ごとに進むタイムスケジュールに追われていた脳みそが、今は風鈴の音に合わせて、ゆっくりと呼吸を取り戻していくのを感じていた。





夕方。

ミツエがお茶を淹れる。

急須の小人。

『忠敬』

「なに」

『ミツエさん』

「うん」

『最近ちょっと無理してる』


忠敬はそれを聞いて、静かに言葉を止めた。

急須小人は嘘をつかない。


「ばあちゃん」

「なぁに」

「最近、手首痛い?」


ミツエは一瞬だけ目を丸くする。


「……あら」


それから、お茶を注ぐ手をそっと止めて宗次を見る。

「少しだけねぇ」


宗次はあからさまに眉をひそめた。

「言えよ」


「大丈夫だったから」


ミツエは困ったように微笑む。本人は本当に、加齢による少しの強張り程度にしか思っていなかったのだ。けれど、急須の小人が注ぎ口をぷるぷると震わせながら、忠敬に向かって怒鳴り声を上げた。


『大丈夫じゃない!』

『ミツエさん、昨日重いお鍋を片付けるとき、すっごく顔をしかめてたんだから!』

『いつも自分で何でもやっちゃうんだから、宗次にもっと手伝わせなきゃ駄目だよ!』


忠敬はミツエの細くなった右手首を見つめたまま、言葉を紡ぐ。


「急須が大丈夫じゃないって」

『そうだよ! 嘘じゃないもん!』


「昨日重い鍋片付けたとき、すっごい顔しかめてたってさ。じいちゃんにやらせなよ」


ミツエは一瞬きょとんとした後、口元を押さえて楽しそうに吹き出した。

「ふふ、あはは。急須さんに怒られちゃった」


穏やかな笑い声が、西日の差し込む居間に柔らかく響く。


宗次はしばらくバツが悪そうに髭の生えた顎を撫でていたが、やがてふいと顔を背け、ボソボソと不器用な声を出した。


「……言われんでも、鍋くらい私がいつでも運ぶが」

『よし! 宗次よく言った! 早く持ってってやれー!』


急須の小人が嬉しそうに取っ手を揺らし、お茶の湯気の向こうで正一が「相変わらずだな」とでも言うようにニカッと笑う。



忠敬はただそれを見ていた。


歌舞伎町ではない。

警察でもない。

事件でもない。


ここは誰も騙さないし、傷つけない。

誰も利用しない。

誰も心の奥を値踏みしない。



ただ。

ただ、夕暮れ時の優しい静けさの中で、ミツエがいつも通りに炊飯器の蓋を開ける。


「おかわりあるわよ」


「いる」

「そうかい」


それだけ。

それだけで、何よりも十分だった。




夜。

賑やかな食卓のあと、田舎の夜は驚くほど静かに、そしてゆったりと更けていった。開け放たれた縁側の向こうからは、心地よい虫の声だけが響いている。時が止まったような錯覚を覚えるほどの、穏やかな時間が流れていた。


落ち着いた縁側で、宗次と忠敬はお茶を飲む。

そこへ、今度は庭石の小人が、ひどく深刻そうな顔で忠敬に向かって声を潜めた。


『忠敬ー。じつは、実はな……』 


そのただならぬ様子に、忠敬も思わず眉を寄せた。


『松』

「うん」

『実は根っこが塀押してる』

「ん、なんだい」

「庭の松の根っこ、塀を押してるらしいよ」 


宗次は一瞬で真顔になった。


「……それ、本当に困るやつだ」 



写真立ての上から笑い声。正一だった。古い軍服姿の小人。

身を乗り出し、腕を組んでにやりと笑いながら見下ろしている。



『ははっ! 宗次は相変わらずだなぁ、そんなことでいちいち大真面目になりやがって!』

「兄さんが笑ってるな!」


なにか察知したらしい。宗次は唇をへの字にした後、笑う。


「兄さんならそう」

『バレたな』

「バレバレです」


ここでは誰も驚かない。


正一が喋る。

忠敬が通訳する。

祖父母が返事する。


それが普通。





電話が鳴って、じいちゃんは家の中へ入った。

忠敬一人。


腕には黒いベルト。

クロノ。

返事のない場所。

静かだった。


昔なら。

小人が座っていた。

笑っていた。

うるさかった。

かなり口が回った。


今は違う。

何もいない。

ただ黒いベルトだけ。


忠敬はそっと撫でる。


「……ただいま」


返事はない。


けれど。 

隣に座ったままの正一も。居間の柱も。さっきまで大騒ぎしていた庭石の小人も。 

誰も何も言わない。


小人たちは知っている。

この場所だけは。この一瞬だけは。

絶対に、誰も邪魔をしてはいけないのだと。







しばらくして。

軽い足音が近づき、祖父が隣へ座った。



何も聞かない。

ただ、大きな体を少しだけ忠敬に寄せるようにして、一緒に田舎の深い夜を見つめる。


十分ほど経ってから、祖父がぽつりと言った。


「兄さんな」


忠敬はゆっくりと顔を上げる。

じいちゃんの横顔は、暗がりの中でも優しく、どこか遠い記憶をなぞるように穏やかだった。


「うん」


「戦争へ行く前の日も」


宗次は、懐かしそうに小さく笑った。


「縁側で同じ顔してた」


宗次には、今の忠敬の背中が、あの日の正一の姿と完全に重なって見えていた。

忠敬は黙る。


祖父は続けない。

それだけだった。


けれど。

忠敬は少しだけ笑った。


「そう」

「そう」


祖父も、嬉しそうに目を細めて笑う。 

夜の闇の向こうから、冷たい風がそっと縁側を通り抜けた。 

ちりん、と、軒下の古い風鈴が、世界で一番静かな音を立てて鳴り響いた。





夜も更けて、いよいよ寝る間際になっても、家中の小人たちはまだ遠くでわいわいと騒いでいた。明日も、宗次と一緒に家のあちこちを修理する予定なのを、彼らは全員知っているからだ。


『通訳寝るなー!!』

『まだ言いたいことあるー!!』

『屋根裏もだー!!』

『明日直してって言ってーー!!』


暗い居間の天井や、廊下の奥から、待ってましたとばかりに次々と新しい『御用聞き』の声が押し寄せてくる。布団の上に座った忠敬は、少しだけ考えて、いつもの歌舞伎町の夜なら絶対に口にしないような、優しくてちょっと幼いトーンで、暗闇に向かってぽつりと言った。


「……明日でもいい?」


その一言に、家中の小人たちが一斉に飛び跳ねた。



『やったーーー!!!』

『明日だって!』

『忠敬優しいーー!!』

『さすが!!孫!!!』

『じゃあ明日ね!! おやすみーーー!!!』


大歓声。

部屋中から、弾けるように響き渡る。祖父母には何も聞こえていない。それでも、この優しくて温かい家の中には、確かに嘘のない「家族」の時間が満ちていた。


カバンから取り出して枕元に置いた写真のふちで、正一がそんな様子を眺めながら、ふっと柔らかく目を細めて障子に寄りかかる。忠敬はゆっくりと布団に横たわり、目を閉じた。


潜木忠敬は、何ヶ月ぶりか分からないくらい久しぶりに。

夢も見ずに眠った。



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