第45話:『通訳、帰省中』
数日前。ふと、「帰るか」と思い立って、無理やりもぎ取った連休だった。えげつないタイムスケジュールのバイト(ホスト業)も、大学も、最近続いていた警察関係の心労も、忠敬はすべて東京に置き去りにして、カバン一つで飛び乗った。
電車を降り、改札を抜ける。
そこはもう、見慣れた田舎の無人駅だった。
周りには誰もいない。
高い建物もない。 急かすような人混みもない。
六月の終わりの風が、ゆっくりと田んぼを撫でていた。
忠敬は小さく息を吐く。
重かった肩が少しだけ軽くなる。
スマートウォッチの黒いベルト――クロノの名前が刻まれたそれを、無意識に指先で撫でた。
返事はない。もうずっと返事はない。それでも癖だった。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟く。その瞬間、駅のベンチから小人が飛び上がった。
『おお!?』
『見える兄ちゃんだ!!』
『久しぶり!!』
忠敬は無表情で通り過ぎる。
「久しぶり」
『久しぶりー!!』
『元気!?』
「疲れてる」
『知ってる!!』
「知ってるのかよ」
『顔が死んでる!!』
「うるさい」
小人たちはケラケラ笑った。
少しだけ。ほんの少しだけ。忠敬の口元も緩んだ。
気を張って頑なに作っていたあの無表情は、この田舎の静けさのなかに、ゆっくりとほどけ始めていた。
*
祖父母の家は変わっていなかった。
古い木造家屋。広い庭。縁側。風鈴。畑。
幼い頃から何も変わらない。
ガラガラと懐かしい音を立てる引き戸を開ける。
その敷居を跨いだ、まさにその瞬間だった。家の中に入った瞬間、家中の小人が騒ぎ出した。
本当の『大爆発』が起きた。
『おかえりーーーーー!!!』
『忠敬がきたぞ!!』
『帰ってきたぞーーーー!!!』
『通訳だ!! 通訳だーーー!!!』
『忠敬だーーー!!』
『帰ってきたーー!!』
『通訳だーーー!!』
『みんな呼べーーー!!』
一斉蜂起。
玄関の三和土、廊下の古い柱時計、居間の座布団、台所のやかん、果ては廊下の突き当たりにある大きな箪笥まで。家中のありとあらゆるモノたちの小人たちが一斉に姿を現し、待ってましたとばかりに大はしゃぎで、家が揺れそうほどのボリュームで一斉に喋り、叫び、訴えかけてくる。
この家の小人たちにとっても、忠敬は目に入れても痛くない大切な、”孫”の帰省なのだ。
『おい忠敬! 宗次に早く言ってくれ! 』
『居間の右奥の天井、雨漏りのシミが広がってて痛いんだよー!』
『こっちも! 箪笥の引き出しの建付けが悪くて、宗次がいつも力任せに閉めるから腰が痛いって伝えてーー!!』
『お腹空いてない!? 早くミツエにスイカ切らせて!!』
『大学がんばってるー!? ちゃんと寝てるーー!?』
まるで親戚の兄ちゃん、姉ちゃんのような声かけ。
「……ただいま。おじいちゃん、おばあちゃん。……あと、みんなもうるさい。一斉に喋るな」
『帰省だー!!』
『三年ぶりだぞ!!』
『違う二年!!』
『細かい!!』
『もっと帰ってこい!』
『そうだそうだ!!』
カバンを下ろしながら、忠敬はどこか呆れたような、けれど心底居心地の良そうな柔らかい笑みを浮かべて、小さく首をすくめた。
奥からミツエが顔を出した。
「あらあら」
記憶と変わらず、柔らかく笑う。
「賑やかなのかしらねぇ」
「うるさいです」
祖母は変わらない。昔からそうだった。見えない。聞こえない。それでも否定しない。
「おかえりなさい、忠敬ちゃん」
その一言だけで良かった。
「みんな喜んでるの?」
「苦情です」
なんだかどっと疲れた忠敬が上がり框に腰を下ろした。
奥から祖父も出てくる。
「おぉ」
穏やかに笑う。
「帰ったか」
「ただいま」
その声だけ少し幼くなる。本人は気付いていない。
祖父母はそれに気づいてそっと目を細めた。
祖母が笑う。
「ご飯できてるわよ」
「うん」
大学生でもない。ホストでもない。事件の中心でもない。
ただの孫だった。
*
ご飯までのわずかな隙間、忠敬は居間の畳にごろりと横になった。開け放たれた縁側から入る風が、火照った肌を優しく撫でていく。カバンから取り出して畳に置いた写真のふちから、軍服姿の正一がひょっこりと顔を出した。
『おうボウズ、相変わらず歓迎されてんなぁ! どれ、ここでどれだけこき使われるのかじっくり拝んでやるぜ』
「正一さん、うるさいです。今からちょっと寝るので静かにしてください」
『ハッ、言うようになったじゃねえか。よし、宗次に伝える前の小休止だ。今のうちにたっぷり寝とけ。この家のガラクタども、飯時になったらもっとうるさくなるぞ』
正一は悪戯っぽくニカッと笑うと、わざわざ忠敬の腹によじ登りそのまま腰掛けて腕を組んだ。枕代わりにした座布団の小人が『ゆっくり休んでねー』と耳元でそっと囁く。東京ではベッドに入っても消えなかった脳の芯の焦燥が、この部屋の嘘のない静けさのなかに、サラサラと融けていくようだった。
やがて台所からトントンと小気味よい包丁の音が響き始め、その時間は、いつも通り静かで、けれど温かく始まった。
煮物。焼き魚。味噌汁。漬物。白米。
白米はつやつや光って単体でも美味しい。忠敬は二杯目をよそう。
「たくさん食べるのねぇ」
ミツエは嬉しそうに麦茶を注ぎ足した。
「店の飯あんまり好きじゃない」
「そうか」
忠敬の茶碗には、何も言わずにいつもより多めのご飯がそっと盛られた。
ごはん中に柱の小人が駆け込んできた。
『忠敬!!』
「なに」
『宗次に言え!!』
「じいちゃん」
「ん?」
「北側の柱、雨漏りしてるらしいよ」
宗次は箸を止めて天井をみた。
『やっと言えたーー!!』
「三年前から言ってるそうです」
その言葉に、宗次は頭を抱える。
「もっと早く言ってくれよぉ……」
ミツエは、そんな宗次を見ておおらかに笑った。
「柱さんも大変だったのねぇ」
『大変だった!!』
「大変だったそうです」
祖父母には何も聞こえていない。それでも、忠敬がここにいるだけで、小人たちとの会話は当たり前のように食卓に混ざり合っていく。そこへ、今度は宗次が愛用している古い湯呑みの小人が、ここぞとばかりに小さな胸を張って言い足した。
『そうだぞ忠敬、聞いてくれ! 宗次のやつ、今朝もミツエに隠れてこっそりお煎餅の袋を開けようとして、思いきり中身を畳にぶちまけやがったんだ! 「兄さんにバレたらまた馬鹿にされる」って、大慌てで証拠隠滅してたんだからなー!』
「じいちゃん」
「ん?」
「今朝、おばあちゃんに内緒でお煎餅ぶちまけたの、湯呑みさんが全部見てたって。正一さんにバレるの、相当焦ってたらしいね」
「っゲホッ、げほっ……!!」
宗次は盛大にお茶を喉に詰まらせて真っ赤になり、ミツエは「あらあら、おじいさんったら」と、全てをお見通しのような目元でクスリと笑った。
*
昼頃、忠敬は物置に来ていた。
東京の喧騒から逃れてきたはずなのに、ここにはここの騒がしさがある。庭の物置の重い引き戸を開けると、錆びついた蝶番の隙間から、蝶番の小人が顔を真っ赤にして必死に手を振っていた。
『痛い』
『ここ! 忠敬ここ!!』
『じいさんに油差すように言ってーー!!』
「じいちゃん」
「今度は何だ」
麦わら帽子を被った宗次が、庭木を剪定する鋏の手を止めて振り返る。
「物置の蝶番」
「うん」
「痛いらしい」
「油差すか」
『やったー!!』
『さすが通訳!! 気が利くーー!!』
『早く油ーー!!』
カンカンと照りつける六月の太陽の下、宗次が持ってきた古い油缶の先から、黒い油がポタポタと染み込んでいく。
『あーー……生き返るわぁ……』
さっきまで泣きそうだった蝶番の小人が、とろけたような顔で引き戸の裏に寝そべった。
それを見て、近くの古びた如雨露じょうろの小人も『こっちも! こっちも穴が詰まってて苦しい!』と騒ぎ出し、庭の手押しポンプの小人まで『最近水が上がりにくいって宗次に伝えて!』と大合唱を始める。
「……じいちゃん、如雨露とポンプも。あとで見てあげて」
「お、おいおい、一気に言われても私の体が足りんよ」
困り果てたように笑う宗次の横で、忠敬は手押しポンプの冷たい水を両手に受け、そのまま顔を洗った。井戸水の冷たさが、頭の芯を優しく冷ましていくようだった。
午後を過ぎる頃には、さらに風が抜けて居心地が良くなる。
縁側の日陰に座り、ミツエが剥いてくれた冷たいスイカを口に運ぶ。種を庭に飛ばす忠敬の足元で、畳の隙間から這い出てきた古い団扇うちわの小人が、一生懸命にパタパタと自分の体を仰いで、忠敬の脛に風を送ってくれていた。
『どうだー? 涼しいかー?』
「うん、涼しい。ありがと」
『へへ、東京にはこんな良い風ないだろー!』
嘘も、計算も、値踏みする目もない、ただただ平和な時間。
東京では一秒ごとに進むタイムスケジュールに追われていた脳みそが、今は風鈴の音に合わせて、ゆっくりと呼吸を取り戻していくのを感じていた。
*
夕方。
ミツエがお茶を淹れる。
急須の小人。
『忠敬』
「なに」
『ミツエさん』
「うん」
『最近ちょっと無理してる』
忠敬はそれを聞いて、静かに言葉を止めた。
急須小人は嘘をつかない。
「ばあちゃん」
「なぁに」
「最近、手首痛い?」
ミツエは一瞬だけ目を丸くする。
「……あら」
それから、お茶を注ぐ手をそっと止めて宗次を見る。
「少しだけねぇ」
宗次はあからさまに眉をひそめた。
「言えよ」
「大丈夫だったから」
ミツエは困ったように微笑む。本人は本当に、加齢による少しの強張り程度にしか思っていなかったのだ。けれど、急須の小人が注ぎ口をぷるぷると震わせながら、忠敬に向かって怒鳴り声を上げた。
『大丈夫じゃない!』
『ミツエさん、昨日重いお鍋を片付けるとき、すっごく顔をしかめてたんだから!』
『いつも自分で何でもやっちゃうんだから、宗次にもっと手伝わせなきゃ駄目だよ!』
忠敬はミツエの細くなった右手首を見つめたまま、言葉を紡ぐ。
「急須が大丈夫じゃないって」
『そうだよ! 嘘じゃないもん!』
「昨日重い鍋片付けたとき、すっごい顔しかめてたってさ。じいちゃんにやらせなよ」
ミツエは一瞬きょとんとした後、口元を押さえて楽しそうに吹き出した。
「ふふ、あはは。急須さんに怒られちゃった」
穏やかな笑い声が、西日の差し込む居間に柔らかく響く。
宗次はしばらくバツが悪そうに髭の生えた顎を撫でていたが、やがてふいと顔を背け、ボソボソと不器用な声を出した。
「……言われんでも、鍋くらい私がいつでも運ぶが」
『よし! 宗次よく言った! 早く持ってってやれー!』
急須の小人が嬉しそうに取っ手を揺らし、お茶の湯気の向こうで正一が「相変わらずだな」とでも言うようにニカッと笑う。
忠敬はただそれを見ていた。
歌舞伎町ではない。
警察でもない。
事件でもない。
ここは誰も騙さないし、傷つけない。
誰も利用しない。
誰も心の奥を値踏みしない。
ただ。
ただ、夕暮れ時の優しい静けさの中で、ミツエがいつも通りに炊飯器の蓋を開ける。
「おかわりあるわよ」
「いる」
「そうかい」
それだけ。
それだけで、何よりも十分だった。
夜。
賑やかな食卓のあと、田舎の夜は驚くほど静かに、そしてゆったりと更けていった。開け放たれた縁側の向こうからは、心地よい虫の声だけが響いている。時が止まったような錯覚を覚えるほどの、穏やかな時間が流れていた。
落ち着いた縁側で、宗次と忠敬はお茶を飲む。
そこへ、今度は庭石の小人が、ひどく深刻そうな顔で忠敬に向かって声を潜めた。
『忠敬ー。じつは、実はな……』
そのただならぬ様子に、忠敬も思わず眉を寄せた。
『松』
「うん」
『実は根っこが塀押してる』
「ん、なんだい」
「庭の松の根っこ、塀を押してるらしいよ」
宗次は一瞬で真顔になった。
「……それ、本当に困るやつだ」
写真立ての上から笑い声。正一だった。古い軍服姿の小人。
身を乗り出し、腕を組んでにやりと笑いながら見下ろしている。
『ははっ! 宗次は相変わらずだなぁ、そんなことでいちいち大真面目になりやがって!』
「兄さんが笑ってるな!」
なにか察知したらしい。宗次は唇をへの字にした後、笑う。
「兄さんならそう」
『バレたな』
「バレバレです」
ここでは誰も驚かない。
正一が喋る。
忠敬が通訳する。
祖父母が返事する。
それが普通。
*
電話が鳴って、じいちゃんは家の中へ入った。
忠敬一人。
腕には黒いベルト。
クロノ。
返事のない場所。
静かだった。
昔なら。
小人が座っていた。
笑っていた。
うるさかった。
かなり口が回った。
今は違う。
何もいない。
ただ黒いベルトだけ。
忠敬はそっと撫でる。
「……ただいま」
返事はない。
けれど。
隣に座ったままの正一も。居間の柱も。さっきまで大騒ぎしていた庭石の小人も。
誰も何も言わない。
小人たちは知っている。
この場所だけは。この一瞬だけは。
絶対に、誰も邪魔をしてはいけないのだと。
しばらくして。
軽い足音が近づき、祖父が隣へ座った。
何も聞かない。
ただ、大きな体を少しだけ忠敬に寄せるようにして、一緒に田舎の深い夜を見つめる。
十分ほど経ってから、祖父がぽつりと言った。
「兄さんな」
忠敬はゆっくりと顔を上げる。
じいちゃんの横顔は、暗がりの中でも優しく、どこか遠い記憶をなぞるように穏やかだった。
「うん」
「戦争へ行く前の日も」
宗次は、懐かしそうに小さく笑った。
「縁側で同じ顔してた」
宗次には、今の忠敬の背中が、あの日の正一の姿と完全に重なって見えていた。
忠敬は黙る。
祖父は続けない。
それだけだった。
けれど。
忠敬は少しだけ笑った。
「そう」
「そう」
祖父も、嬉しそうに目を細めて笑う。
夜の闇の向こうから、冷たい風がそっと縁側を通り抜けた。
ちりん、と、軒下の古い風鈴が、世界で一番静かな音を立てて鳴り響いた。
*
夜も更けて、いよいよ寝る間際になっても、家中の小人たちはまだ遠くでわいわいと騒いでいた。明日も、宗次と一緒に家のあちこちを修理する予定なのを、彼らは全員知っているからだ。
『通訳寝るなー!!』
『まだ言いたいことあるー!!』
『屋根裏もだー!!』
『明日直してって言ってーー!!』
暗い居間の天井や、廊下の奥から、待ってましたとばかりに次々と新しい『御用聞き』の声が押し寄せてくる。布団の上に座った忠敬は、少しだけ考えて、いつもの歌舞伎町の夜なら絶対に口にしないような、優しくてちょっと幼いトーンで、暗闇に向かってぽつりと言った。
「……明日でもいい?」
その一言に、家中の小人たちが一斉に飛び跳ねた。
『やったーーー!!!』
『明日だって!』
『忠敬優しいーー!!』
『さすが!!孫!!!』
『じゃあ明日ね!! おやすみーーー!!!』
大歓声。
部屋中から、弾けるように響き渡る。祖父母には何も聞こえていない。それでも、この優しくて温かい家の中には、確かに嘘のない「家族」の時間が満ちていた。
カバンから取り出して枕元に置いた写真のふちで、正一がそんな様子を眺めながら、ふっと柔らかく目を細めて障子に寄りかかる。忠敬はゆっくりと布団に横たわり、目を閉じた。
潜木忠敬は、何ヶ月ぶりか分からないくらい久しぶりに。
夢も見ずに眠った。




