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第46話:『ゆっくり、なおす日』

第46話:『ゆっくり、なおす日』


翌朝。忠敬が目を覚ました時には、もう縁側の向こうが明るかった。障子越しの光は柔らかく、鳥の声が遠くから聞こえてくる。


東京なら、目が覚めた瞬間に時計を見る。


何時だ。

講義は。

シフトは。

連絡は。


そういうものが頭の中を埋める。


だが今日は違った。

目が覚める。

それだけだった。


布団の上でぼんやり天井を見つめる。

古い木目。見慣れた染み。

小さな蜘蛛の巣。


その隅から小人が顔を出した。

『おはよー』

「……おはよう」

『寝た?』

「寝た」

『顔ちょっと生き返った』

「失礼だな」

『昨日より人間』

「もっと失礼だな」


小人は大笑いした。

忠敬も少しだけ笑った。



居間へ行くと、味噌汁の匂いがした。

ミツエが振り返る。


「あら、おはよう」

「おはよう」


宗次は新聞を広げながら頷いた。


「よく寝たか」

「たぶん」

「そうか」


それだけ。それだけなのに安心する。

何かを説明しなくていい。

元気なふりもしなくていい。


食卓の真ん中には焼き魚。漬物。卵焼き。白いご飯。

忠敬は黙々と食べる。


二杯目をよそう。


三杯目をよそう。


ミツエが嬉しそうに笑った。


「たくさん食べるのねぇ」

「腹減ってた」

「そう」


それだけで満足そうだった。



朝食が終わる頃には、家中の小人たちが待ちきれなくなっていた。


『修理だーー!!』

『雨漏りだーー!!』

『物置もーー!!』

『ポンプもーー!!』

『今日は忙しいぞーー!!』

「うるさい」

『楽しみーー!!』

「お前らが楽しむんか」

『楽しむ!!』


宗次が笑った。


「人気者だなぁ」

「違う」

「違うのか」

「苦情係です」

「ははは」


宗次は本当に楽しそうに笑った。



午前中は修理だった。

脚立を立てる。

工具箱を運ぶ。

釘を探す。

屋根裏へ潜る。


忠敬は祖父の横で動き回る。


『そこそこ!』

『もうちょっと右!』

『あー直るー!』

『生き返るー!』


「じいちゃん」

「ん?」

「右」

「またか」

「天井裏が」

「了解」


宗次は慣れた顔で釘を打った。


カン。


カン。


カン。


乾いた音が静かな空に響く。

汗が額を流れる。


忠敬も脚立を支えながら空を見上げた。


青かった。

びっくりするほど青い。


東京では見ない色だった。



昼前。

作業はひと段落した。


宗次が麦茶を飲みながら言う。


「休憩するか」

「うん」

「川行くか」


忠敬が顔を上げた。


「川?」

「昔よく行ったろ」


そういえばそうだった。


小学生の頃。


夏休み。

虫取り網。

サンダル。

冷たい水。


全部そこにあった。



二人で歩く。


田んぼ道。


風が吹く。稲が揺れる。


空が広い。広すぎる。


忠敬は何も考えないまま歩いた。


宗次も何も喋らない。


それなのに沈黙が苦しくない。それが不思議だった。



川へ着く。


浅い流れ。


透き通った水。


石が見える。


宗次は靴を脱いだ。


「冷たいぞ」

「そう」


忠敬も靴を脱ぐ。裾をまくる。足を入れる。


ひやり。


思わず肩が震えた。


「冷た」

「だろ」


宗次が笑う。忠敬も少し笑う。


川の小人たちが騒いだ。


『久しぶりーー!!』

『忠敬だーー!!』

『大きくなったなーー!!』

『前は落っこちたのに!!』

「落ちてない」

『落ちた!!』

「落ちてない」

『半分落ちた!!』

「覚えてない」

『覚えてるーー!!』


大騒ぎ。


宗次は聞こえない。

けれど忠敬の表情だけ見ている。


それで十分らしかった。



しばらく二人で川に足をつける。


何もしない。

本当に何もしない。


水が流れる。風が吹く。鳥が鳴く。

それだけ。


忠敬はぼんやり流れを眺めた。

頭の中が静かだった。


歌舞伎町もない。大学もない。事件もない。


御園生も。相沢も。

誰もいない。


あるのは川の音だけだった。



帰り道。宗次がぽつりと言った。


「顔色いいな」

「そう?」

「ああ」


忠敬は少し考える。それから正直に答えた。


「楽」


宗次は笑った。


「そうか」


それ以上聞かない。


理由も聞かない。


何があったかも聞かない。


ただ。

「楽」という言葉だけ受け取ってくれる。



家へ戻ると、小人たちが歓声を上げた。


『帰ってきたーー!!』

『続きだーー!!』

『今度は物置ーー!!』

『通訳ーー!!』

『働けーー!!』

「お前らな」

『働けーー!!』

「休憩終わりか」

『終わりーー!!』


忠敬は呆れながら笑った。本当に少しだけ。

けれど確かに笑った。


縁側ではミツエがお茶を用意している。


風鈴が鳴る。

庭木が揺れる。

遠くで蝉が鳴き始める。


急がなくていい。

誰も追い立てない。

誰も値踏みしない。誰も利用しない。


ただ。

帰ってきた孫がいて。


祖父母がいて。

小人たちがいて。


修理したい家がある。


そのことが、今日はとても心地よかった。





宗次が、川の方を見たまま言う。

「東京、戻るんだろ」


忠敬は一瞬だけ止まる。


川の音が、その隙間に入る。


それから、短く言う。

「うん」


宗次はそれ以上聞かない。


ただ、少しだけ頷いた。

「そうか」



おわり

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