第46話:『ゆっくり、なおす日』
第46話:『ゆっくり、なおす日』
翌朝。忠敬が目を覚ました時には、もう縁側の向こうが明るかった。障子越しの光は柔らかく、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
東京なら、目が覚めた瞬間に時計を見る。
何時だ。
講義は。
シフトは。
連絡は。
そういうものが頭の中を埋める。
だが今日は違った。
目が覚める。
それだけだった。
布団の上でぼんやり天井を見つめる。
古い木目。見慣れた染み。
小さな蜘蛛の巣。
その隅から小人が顔を出した。
『おはよー』
「……おはよう」
『寝た?』
「寝た」
『顔ちょっと生き返った』
「失礼だな」
『昨日より人間』
「もっと失礼だな」
小人は大笑いした。
忠敬も少しだけ笑った。
*
居間へ行くと、味噌汁の匂いがした。
ミツエが振り返る。
「あら、おはよう」
「おはよう」
宗次は新聞を広げながら頷いた。
「よく寝たか」
「たぶん」
「そうか」
それだけ。それだけなのに安心する。
何かを説明しなくていい。
元気なふりもしなくていい。
食卓の真ん中には焼き魚。漬物。卵焼き。白いご飯。
忠敬は黙々と食べる。
二杯目をよそう。
三杯目をよそう。
ミツエが嬉しそうに笑った。
「たくさん食べるのねぇ」
「腹減ってた」
「そう」
それだけで満足そうだった。
*
朝食が終わる頃には、家中の小人たちが待ちきれなくなっていた。
『修理だーー!!』
『雨漏りだーー!!』
『物置もーー!!』
『ポンプもーー!!』
『今日は忙しいぞーー!!』
「うるさい」
『楽しみーー!!』
「お前らが楽しむんか」
『楽しむ!!』
宗次が笑った。
「人気者だなぁ」
「違う」
「違うのか」
「苦情係です」
「ははは」
宗次は本当に楽しそうに笑った。
*
午前中は修理だった。
脚立を立てる。
工具箱を運ぶ。
釘を探す。
屋根裏へ潜る。
忠敬は祖父の横で動き回る。
『そこそこ!』
『もうちょっと右!』
『あー直るー!』
『生き返るー!』
「じいちゃん」
「ん?」
「右」
「またか」
「天井裏が」
「了解」
宗次は慣れた顔で釘を打った。
カン。
カン。
カン。
乾いた音が静かな空に響く。
汗が額を流れる。
忠敬も脚立を支えながら空を見上げた。
青かった。
びっくりするほど青い。
東京では見ない色だった。
*
昼前。
作業はひと段落した。
宗次が麦茶を飲みながら言う。
「休憩するか」
「うん」
「川行くか」
忠敬が顔を上げた。
「川?」
「昔よく行ったろ」
そういえばそうだった。
小学生の頃。
夏休み。
虫取り網。
サンダル。
冷たい水。
全部そこにあった。
*
二人で歩く。
田んぼ道。
風が吹く。稲が揺れる。
空が広い。広すぎる。
忠敬は何も考えないまま歩いた。
宗次も何も喋らない。
それなのに沈黙が苦しくない。それが不思議だった。
*
川へ着く。
浅い流れ。
透き通った水。
石が見える。
宗次は靴を脱いだ。
「冷たいぞ」
「そう」
忠敬も靴を脱ぐ。裾をまくる。足を入れる。
ひやり。
思わず肩が震えた。
「冷た」
「だろ」
宗次が笑う。忠敬も少し笑う。
川の小人たちが騒いだ。
『久しぶりーー!!』
『忠敬だーー!!』
『大きくなったなーー!!』
『前は落っこちたのに!!』
「落ちてない」
『落ちた!!』
「落ちてない」
『半分落ちた!!』
「覚えてない」
『覚えてるーー!!』
大騒ぎ。
宗次は聞こえない。
けれど忠敬の表情だけ見ている。
それで十分らしかった。
*
しばらく二人で川に足をつける。
何もしない。
本当に何もしない。
水が流れる。風が吹く。鳥が鳴く。
それだけ。
忠敬はぼんやり流れを眺めた。
頭の中が静かだった。
歌舞伎町もない。大学もない。事件もない。
御園生も。相沢も。
誰もいない。
あるのは川の音だけだった。
*
帰り道。宗次がぽつりと言った。
「顔色いいな」
「そう?」
「ああ」
忠敬は少し考える。それから正直に答えた。
「楽」
宗次は笑った。
「そうか」
それ以上聞かない。
理由も聞かない。
何があったかも聞かない。
ただ。
「楽」という言葉だけ受け取ってくれる。
*
家へ戻ると、小人たちが歓声を上げた。
『帰ってきたーー!!』
『続きだーー!!』
『今度は物置ーー!!』
『通訳ーー!!』
『働けーー!!』
「お前らな」
『働けーー!!』
「休憩終わりか」
『終わりーー!!』
忠敬は呆れながら笑った。本当に少しだけ。
けれど確かに笑った。
縁側ではミツエがお茶を用意している。
風鈴が鳴る。
庭木が揺れる。
遠くで蝉が鳴き始める。
急がなくていい。
誰も追い立てない。
誰も値踏みしない。誰も利用しない。
ただ。
帰ってきた孫がいて。
祖父母がいて。
小人たちがいて。
修理したい家がある。
そのことが、今日はとても心地よかった。
宗次が、川の方を見たまま言う。
「東京、戻るんだろ」
忠敬は一瞬だけ止まる。
川の音が、その隙間に入る。
それから、短く言う。
「うん」
宗次はそれ以上聞かない。
ただ、少しだけ頷いた。
「そうか」
おわり




