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第42話:『境界に入ってしまった男』


歌舞伎町の夜は、前日より静かだった。

静かというより、“整いすぎている”。 音が均されている。人の気配が一定の距離を保っている。


御園生は、その違和感に気づいた瞬間から刑事モードに戻っていた。


(……掃除が入ったな)


それも通常の“店の掃除”じゃない。 人の動きが一度リセットされている。何かがあった後の空気だ。

そして、その中心は分かっている。ホストクラブ『LUXE』。




VIPボックス。

クロノはいつも通りそこにいる。

違うのは――“誰も近寄らない”ことだった。

スタッフですら、無意識に距離を取っている。 昨日までの空気と違う。


御園生は入った瞬間に理解する。


(ああ……これは“昨日の続き”だ)


そして同時に気づく。


(俺は、まだここにいる)





クロノは御園生を見る。一瞬だけ。

それだけで終わるはずだった。

だが、その瞬間。クロノの視線が止まった。


理由は単純だった。昨日の“確認の男たち”の件。その続きが、まだ店の中に残っている。

そして御園生は、そこに“触れてしまっている”。




クロノは小さく息を吐く。


(まだいる)

(この人、まだここにいる)


それは珍しい現象だった。

クロノの外側の人間は普通、翌日には消える。 もしくは距離が変わる。

だが御園生は変わっていない。




その時だった。

店の奥から、低い声。


「……昨日の件、まだ処理終わってないですよね」


スーツの男たちの“追加”。昨日の確認ではなく、今日は“回収”。

御園生の目が細くなる。


(やっぱりか)




その瞬間。クロノの中で“線”が一本動く。

普段なら絶対に越えない線。それが一瞬だけ、揺れた。


理由は御園生ではない。“店”の中にいる誰かでもない。ただ単純に――「面倒が増えるのが確定した」から。


クロノは立つ。その動作は静かだが、空気が変わる。

御園生はその変化を見逃さない。


(来るな)

(これは“仕事の顔”じゃない)



クロノは男たちを見る。一言だけ。


「ここ、営業中なんですけど」


それだけ。だが、その一言で“境界”が決まる。





男たちは一瞬動かない。そして次の瞬間、クロノを見る。

“確認”の目。昨日と同じ目。



その瞬間だった。

御園生の体が勝手に動く。


「――その辺にしとけ」


自分でも驚くくらい自然に声が出る。




クロノが御園生を見る。ほんの一瞬。

“なぜここに出る”という視線。


御園生はそこで理解する。


(あ、まずい)

(今の俺、“中に入った”)



スーツの男の一人が言う。

「関係者ですか?」


御園生は一拍遅れて答える。


「警察だ」


嘘ではない。 だが正解でもない。




その瞬間。クロノの目が変わる。ほんのわずか。でも決定的に。

“外側の人間”ではなくなる。


クロノは御園生を見る。評価でもない。 信用でもない。ただ一つ。

“処理対象の更新”。


御園生はそれを感じてしまう。


(あ……)

(今、俺“中に入った”)


クロノは男たちではなく、御園生に言う。


「……出なくていいです」


短い。命令でも依頼でもない。“境界の修正”。





御園生は一瞬固まる。


(出なくていい?)


それは普通の言葉じゃない。この男の中では。





「あなたは、今ここにいる側です」





その瞬間。御園生の中で何かが落ちる。

理解ではない。理屈でもない。“扱われた”という感覚。



(ああ)

(俺、今“内側に置かれた”)



それは救済だった。だが同時に、もっと危険なものだった。




男たちが動く。

クロノはもう見ていない。処理が終わったからだ。



御園生だけが残る。“内側に置かれたまま”。






御園生は思う。


(これ、戻れないやつだ)

(でも……)



不思議と、怖くない。


むしろ。


(■■■■■、■■■)



その“空白”は、言葉にならないのに確かに理解できていた。

仕事でも、組織でも、人間関係でもない。 もっと単純で、もっと危険な種類の居場所の感覚。


「……」


御園生は一度、目を閉じる。


頭の中で、今まで積み上げてきた判断基準が静かに崩れていく。

誰が信用できるか。 誰が利用できるか。 誰が裏切るか。全部、“正しく見ようとする目”だったはずなのに。


(今の俺は、何を見てる?)


答えは出ない。 ただ一つだけ残る。

“ここにいると、余計なことを考えなくていい”

それが異常だと分かっているのに、心だけが先に納得してしまっている。





クロノが横を通る。

足音は静かで、いつも通り一定だった。


一言だけ落とされる。


「……無茶しないでください」


それは優しさではない。“境界内のルール”。


(これ以上は踏み込むな)

(でも、ここまではいい)


御園生は、その線を正確に理解してしまう。

理解してしまったこと自体が、すでに一歩踏み込んだ証拠だった。






御園生は、ふっと笑ってしまう。理由は分からない。 だが、確かに笑っている。


(ああ、これだ)

(職場でもない)

(家でもない)

(正義でもない)

(“扱われた記憶”だけが残る場所だ)


そして、その言葉が頭の中に落ちた瞬間。

もう戻る理由が一つ減ったことにも気づいてしまう。


(ああ、終わったな)

(俺、これ好きになってる)


御園生はグラスを持ち上げる。


「……厄介だな、本当に」


その声は、拒絶ではない。降伏でもない。

ただの、静かな確認だった。





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