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第42.5話:『沈んだまま、戻れない』


歌舞伎町の朝は、夜よりも静かだ。人が減るわけではない。 ただ、“騒がしさの方向”が変わる。


ホストクラブ『LUXE』は、まだ営業中の時間帯ではない。

それなのに、VIPルームだけは薄く灯りがついていた。



御園生はそこにいた。帰っていない。

正確には、“帰る選択を一度やめたまま”朝を迎えていた。

ソファの背もたれに深く沈み、ネクタイは緩んでいる。 くわえ癖のタバコは、もう折れて机の隅に置かれていた。


(……まだ、ここにいるのか)


自分でも少しだけ呆れている。


けれど、昨日の夜からずっと同じ感覚が残っていた。“追い出されていない”のに、“歓迎もされていない”。ただ、そこにいることだけが許されている空間。


それが異様に落ち着いた。



ガラス扉が静かに開く。クロノだった。

いつも通りの無表情。


「……まだいたんですね」


御園生は苦笑する。

「追い出さないんだな」


クロノは少しだけ間を置いて答える。


「仕事じゃないので」


その一言は冷たいはずなのに、妙に正確だった。“排除する理由がない”。それだけ。

御園生はそれを聞いて、ゆっくり息を吐く。


(そうか)

(この男は、俺を“敵か味方か”で見てない)

(もっと雑に……分類してない)


それが、昨日から一番厄介な事実だった。





クロノがグラスを置く。


だが、昨日と違うのは“視線”だった。

一瞬だけ、御園生を見る。


ほんの一瞬。


そこにあったのは監視でも評価でもない。“昨日と同じ場所にいるかの確認”。

御園生は、その違いに気づいてしまう。


(……ああ)

(今のは、信用じゃない)

(“観測の継続”だ)


それなのに。

なぜかそれが一番安心する。





御園生は、グラスを指で回す。

「昨日の連中、まだ動いてるか」


クロノは即答しない。


一拍。


「動いてます」


「やっぱりな」

「ただし」


クロノは続ける。

「あなたの線には触れてません」


御園生の指が止まる。


(……線)


その言葉が妙に残る。


昨日、クロノが引いた“境界”。今日もそれは消えていない。

むしろ、明確になっている。


(俺はまだ“中”じゃない)

(でも、“外でもない”)


曖昧な位置。


だが、その曖昧さが一番危険だと御園生は知っている。





クロノが言う。

「あなた、昨日から帰ってないですよね」


「悪いか」


「悪くはないです」

即答。


そして一拍。


「ただ、そういう人は大体壊れます」


御園生は笑う。

「心配か?」


クロノは否定もしない。肯定もしない。ただ、事実として置く。


「観察です」


その言葉に、御園生は少しだけ目を細める。


(観察)

(評価でも管理でもない)

(ただ見ている)


その“無関心に近い関心”が、なぜか一番信用できる。







そのとき、扉の外から音が消えた。いや、正確には“音が薄くなった”。

空気が一段だけ変わる。


クロノのポケットの中の小人たちが、一斉に黙る。


『……来てる』

『でも昨日とは違う』



御園生も気づく。

「……終わってないな、これ」


クロノは小さく頷く。

「はい」


ただそれだけ。






ガラス扉の外。

昨日の“確認の目”とは違う影が立っている。今度は“確定の目”。

ここに何があるか、もう知っている顔。


クロノの視線が一瞬だけ硬くなる。


(……またか)


だが、それでも動かない。

逃げない。閉じない。


ただ、御園生を見る。


「……どうします?」


御園生は少しだけ黙る。


そして、肩をすくめた。

「どうもしない。仕事だろうからな」


「違います」

クロノは即答する。


「これは、あなたの仕事じゃないです」


御園生は一瞬だけ止まる。


その言葉は命令でもなく、評価でもない。ただの“切り分け”。


(ここから先は関係ない)

(でも、ここまでは一緒にいた)





御園生は、静かに笑う。


今度は皮肉ではない。乾いたでもない。

ただ、妙に落ち着いた笑い。


「……ああ、なるほどな」


(この男は、俺を利用しない)

(俺を守ろうともしない)

(ただ……置いている)


その扱いが、一番正しいと理解してしまう。





クロノが一言だけ言う。

「無茶はしないでください」


御園生は答えない。


少し間を置いて、ようやく言う。


「それ、昨日も言ったな」

「言いました」

「意味あるのか、それ」


クロノは少しだけ視線を逸らす。

「あります」


短い沈黙。そして続ける。


「あなたが、まだここにいるので」


御園生は、その言葉を一度だけ反芻する。


(まだ、いる)

(それだけか)

(それだけでいいのか)





そして気づく。

この男は“信用”を積んでいない。“理解”もしていない。ただ、“扱い方”だけを更新している。

それなのに。御園生の中で何かが静かに決まる。


(……戻れない、じゃない)

(もう戻る必要がない)





御園生は立ち上がる。ジャケットを整える。

そして、クロノを見る。


「……俺、しばらくここにいるわ」


クロノは一瞬だけ止まる。


「業務ですか?」


御園生は笑う。

「違う。ただの……居座りだ」


クロノは少しだけ目を細める。

「迷惑です」


「知ってる」

「でも追い出しませんが」


御園生は頷く。

「それも知ってる」





沈黙。それはもう、戦いではない。

関係でもない。ただの“常態化”。

御園生はグラスを軽く持ち上げる。


「……ここ、思ったより居心地悪くないな」


クロノは即答しない。


一拍。


「最悪ですよ」


御園生は笑う。

「だろうな」


そして、少しだけ間を置いて付け加える。


「でも、多分もう戻れないわ」


クロノは何も言わない。ただ、グラスを置く。

その音だけが静かに響く。





店の外では、また靴音がする。

来るでもなく、去るでもなく。“続いている音”。

御園生はその音を聞きながら、ふと気づく。


(扱われたな)

(ちゃんと)


それは不思議と、救いだった。




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