第42.5話:『沈んだまま、戻れない』
歌舞伎町の朝は、夜よりも静かだ。人が減るわけではない。 ただ、“騒がしさの方向”が変わる。
ホストクラブ『LUXE』は、まだ営業中の時間帯ではない。
それなのに、VIPルームだけは薄く灯りがついていた。
御園生はそこにいた。帰っていない。
正確には、“帰る選択を一度やめたまま”朝を迎えていた。
ソファの背もたれに深く沈み、ネクタイは緩んでいる。 くわえ癖のタバコは、もう折れて机の隅に置かれていた。
(……まだ、ここにいるのか)
自分でも少しだけ呆れている。
けれど、昨日の夜からずっと同じ感覚が残っていた。“追い出されていない”のに、“歓迎もされていない”。ただ、そこにいることだけが許されている空間。
それが異様に落ち着いた。
*
ガラス扉が静かに開く。クロノだった。
いつも通りの無表情。
「……まだいたんですね」
御園生は苦笑する。
「追い出さないんだな」
クロノは少しだけ間を置いて答える。
「仕事じゃないので」
その一言は冷たいはずなのに、妙に正確だった。“排除する理由がない”。それだけ。
御園生はそれを聞いて、ゆっくり息を吐く。
(そうか)
(この男は、俺を“敵か味方か”で見てない)
(もっと雑に……分類してない)
それが、昨日から一番厄介な事実だった。
*
クロノがグラスを置く。
だが、昨日と違うのは“視線”だった。
一瞬だけ、御園生を見る。
ほんの一瞬。
そこにあったのは監視でも評価でもない。“昨日と同じ場所にいるかの確認”。
御園生は、その違いに気づいてしまう。
(……ああ)
(今のは、信用じゃない)
(“観測の継続”だ)
それなのに。
なぜかそれが一番安心する。
*
御園生は、グラスを指で回す。
「昨日の連中、まだ動いてるか」
クロノは即答しない。
一拍。
「動いてます」
「やっぱりな」
「ただし」
クロノは続ける。
「あなたの線には触れてません」
御園生の指が止まる。
(……線)
その言葉が妙に残る。
昨日、クロノが引いた“境界”。今日もそれは消えていない。
むしろ、明確になっている。
(俺はまだ“中”じゃない)
(でも、“外でもない”)
曖昧な位置。
だが、その曖昧さが一番危険だと御園生は知っている。
*
クロノが言う。
「あなた、昨日から帰ってないですよね」
「悪いか」
「悪くはないです」
即答。
そして一拍。
「ただ、そういう人は大体壊れます」
御園生は笑う。
「心配か?」
クロノは否定もしない。肯定もしない。ただ、事実として置く。
「観察です」
その言葉に、御園生は少しだけ目を細める。
(観察)
(評価でも管理でもない)
(ただ見ている)
その“無関心に近い関心”が、なぜか一番信用できる。
*
そのとき、扉の外から音が消えた。いや、正確には“音が薄くなった”。
空気が一段だけ変わる。
クロノのポケットの中の小人たちが、一斉に黙る。
『……来てる』
『でも昨日とは違う』
御園生も気づく。
「……終わってないな、これ」
クロノは小さく頷く。
「はい」
ただそれだけ。
*
ガラス扉の外。
昨日の“確認の目”とは違う影が立っている。今度は“確定の目”。
ここに何があるか、もう知っている顔。
クロノの視線が一瞬だけ硬くなる。
(……またか)
だが、それでも動かない。
逃げない。閉じない。
ただ、御園生を見る。
「……どうします?」
御園生は少しだけ黙る。
そして、肩をすくめた。
「どうもしない。仕事だろうからな」
「違います」
クロノは即答する。
「これは、あなたの仕事じゃないです」
御園生は一瞬だけ止まる。
その言葉は命令でもなく、評価でもない。ただの“切り分け”。
(ここから先は関係ない)
(でも、ここまでは一緒にいた)
*
御園生は、静かに笑う。
今度は皮肉ではない。乾いたでもない。
ただ、妙に落ち着いた笑い。
「……ああ、なるほどな」
(この男は、俺を利用しない)
(俺を守ろうともしない)
(ただ……置いている)
その扱いが、一番正しいと理解してしまう。
*
クロノが一言だけ言う。
「無茶はしないでください」
御園生は答えない。
少し間を置いて、ようやく言う。
「それ、昨日も言ったな」
「言いました」
「意味あるのか、それ」
クロノは少しだけ視線を逸らす。
「あります」
短い沈黙。そして続ける。
「あなたが、まだここにいるので」
御園生は、その言葉を一度だけ反芻する。
(まだ、いる)
(それだけか)
(それだけでいいのか)
*
そして気づく。
この男は“信用”を積んでいない。“理解”もしていない。ただ、“扱い方”だけを更新している。
それなのに。御園生の中で何かが静かに決まる。
(……戻れない、じゃない)
(もう戻る必要がない)
*
御園生は立ち上がる。ジャケットを整える。
そして、クロノを見る。
「……俺、しばらくここにいるわ」
クロノは一瞬だけ止まる。
「業務ですか?」
御園生は笑う。
「違う。ただの……居座りだ」
クロノは少しだけ目を細める。
「迷惑です」
「知ってる」
「でも追い出しませんが」
御園生は頷く。
「それも知ってる」
*
沈黙。それはもう、戦いではない。
関係でもない。ただの“常態化”。
御園生はグラスを軽く持ち上げる。
「……ここ、思ったより居心地悪くないな」
クロノは即答しない。
一拍。
「最悪ですよ」
御園生は笑う。
「だろうな」
そして、少しだけ間を置いて付け加える。
「でも、多分もう戻れないわ」
クロノは何も言わない。ただ、グラスを置く。
その音だけが静かに響く。
*
店の外では、また靴音がする。
来るでもなく、去るでもなく。“続いている音”。
御園生はその音を聞きながら、ふと気づく。
(扱われたな)
(ちゃんと)
それは不思議と、救いだった。




