第40話:『太客の完全逃避と、底なしの沼』
歌舞伎町の夜は、いつも通り騒がしいはずだった。
だがホストクラブ『LUXE』の最奥、VIPボックス席だけは別の時間に沈んでいる。
そこにいる男は、御園生警部補だった。
仕立ての良いジャケットにはわずかな皺。くわえた火のないタバコは、もう癖のようなものになっている。
本庁の政治、根回し、書類の山。ここ数日は“捜査”ではなく“調整”だけで潰れた。限界はとっくに越えていた。だが彼はそれを「有給」という言葉で包み、この場所へ逃げてきた。
(頭を冷やすだけだ)
そう自分に言い訳して。
相沢には馬鹿正直に命じた。「赤坂周辺を洗っておけ」と。
その間、自分は――逃げた。
*
「お疲れ様です、御園生さん」
声が落ちる。
忠敬――源氏名“クロノ”は、いつも通り感情の薄い顔でブランデーを置いた。
その瞬間だった。
御園生の持ち物に宿る“小さな存在”たちが、一斉に息を吸う。
『ご主人ね』
『見える兄ちゃんだ!』
『逃げてるだけだよ!でも完全じゃない!』
『一割だけまだ仕事の顔してる!』
『赤坂の料亭裏帳簿771――』
いつものように、情報が流れ込む。
だがその途中で、ふっと途切れた。
クロノは御園生を見ていなかった。
正確には、“見ている状態をやめた”。
(今、この人は)
(見る側だ)
それだけで十分だった。
小人たちの声が、一拍遅れて止まる。
『……あ』
『切り替わった』
『仕事の人だ』
沈黙。
それは拒絶ではない。
もっと単純な、“対象の変更”だった。
御園生は、その変化にすぐ気づいた。
(……今、切られたな)
だが痛みではない。もっと厄介な種類の理解だった。
拒絶なら慣れている。
だがこれは違う。
“関係が終わった”のではなく、
“関係が最初から成立していなかった扱い”。
(……観測対象から外れた、か)
*
クロノは何も変えず、水を置いた。
グラスの位置は正確。動作は丁寧。だがそこに“意味”はない。
「……御園生さん」
声は同じトーン。
「そういう飲み方するなら、今日は休んだ方がいいです」
忠告ではない。業務連絡だった。
御園生は一瞬だけ笑おうとして、やめた。
(なるほどな)
(今の俺は“客”か)
*
御園生はグラスを持ち上げる。
「……悪かったな」
クロノは返さない。肯定もしない。否定もしない。
ただ“関係が存在していない”だけだった。
*
その静けさの中で、御園生の中の何かがほどけていく。
職場は嘘だらけだ。
誰かが誰かを利用している。
正義も建前も、その延長にある。
それに比べてこの空間は――
何も求めてこない。
何も奪おうとしない。
ただ、関係を持たないだけだ。
『ねえねえ』
ネクタイピンの小人が笑う。
『ご主人、今ちょっと楽そう』
『変だね』
『切られたのに、嫌じゃないんだ』
御園生は小さく息を吐く。
「……疲れた」
*
クロノはもう御園生を見ていない。
視線は店の奥の暗がり。
理由はない。
ただ“違和感”だけが残っている。
(……外が、少しズレてる?)
ポケットの小人たちが、一斉に黙る。
『……来る』
御園生も気づく。
「……巡回じゃないな」
*
カツ、カツ。
廊下の足音は軽い。だが揃いすぎている。普通の人間の歩き方ではない。
空気が一段だけ冷える。
クロノの視界の端で、“線が引かれる感覚”。
*
御園生は立ち上がらないまま言う。
「……来客じゃないな、これは」
クロノは短く答える。
「休憩、終わりですね」
*
ガラス扉の向こうに人影が止まる。一人ではない。
だが入ってくる気配ではない。
“確認している気配”。
御園生の目が完全に変わる。刑事の顔だ。
クロノは静かにグラスを置いた。
(まただ)
扉が押される。
――カツン。
乾いた音が、空気を裂く。
*
スーツの男が二人。営業客ではない立ち方。
「確認」だけをしに来た人間の姿勢。
御園生のネクタイピンが呟く。
『探してる顔だ』
『誰かを見に来てるやつだ』
御園生は息を吐く。
「……悪いな、クロノ。少し仕事だ」
*
クロノはすぐには動かない。
水面を見る。そこに映るのは自分だけだ。
(まただ)
こういう“目”は知っている。
何度も見てきた。人はこういう目で、物事を壊す。
クロノはグラスを置いた。
「……太客の休憩時間、延長ですね」
御園生は小さく笑う。
「すまん、今度は長居する」
「毎回そう言いますね」
その一瞬だけ、空気が“人間の側”に戻る。
*
スーツの男がクロノを見る。
視線が合う。
一瞬。
だが次の瞬間、それは“記録”に変わった。何かを確認し、何も言わず去る。
御園生が眉をひそめる。
「どうした」
クロノは首を振る。
「いえ」
(気のせいだ)
だが小人たちは違った。
『今の、見てた』
『クロノ見てた』
『でも知ってる人じゃない』
御園生は立ち上がる。
「クロノ。さっきの連中、覚えておけ」
「……何をですか」
「“見に来てる顔”だ」
クロノは頷く。
「慣れてます」
その言葉に、御園生は一瞬だけ沈黙する。
(……慣れてる、か)
それ以上は聞かなかった。
御園生はジャケットを整える。
「今日は帰れ。長引く」
「あなたが言います?」
「俺は残る」
クロノは少しだけ目を細める。
「……またですか」
「まただ」
*
クロノは背を向ける。
「御園生さん」
「なんだ」
「さっきの目は、嫌な感じじゃなかったです」
御園生が止まる。
クロノは続ける。
「でも、次は来ない方がいいと思います」
それだけ言って去る。
御園生はその背中を見る。
(来ない方がいい、か)
警告としては遅い。だが、忠告としては正しい。
そして同時に――もう遅いとも、分かっていた。
店の外で、また靴音がした。今度は去る音ではない。戻る音だ。
御園生は小さく舌打ちする。
「……やっぱり休ませる気ないじゃないか」
そして、火のつかないタバコを指で折るように握りしめた。




