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第40話:『太客の完全逃避と、底なしの沼』



歌舞伎町の夜は、いつも通り騒がしいはずだった。

だがホストクラブ『LUXE』の最奥、VIPボックス席だけは別の時間に沈んでいる。


そこにいる男は、御園生警部補だった。

仕立ての良いジャケットにはわずかな皺。くわえた火のないタバコは、もう癖のようなものになっている。


本庁の政治、根回し、書類の山。ここ数日は“捜査”ではなく“調整”だけで潰れた。限界はとっくに越えていた。だが彼はそれを「有給」という言葉で包み、この場所へ逃げてきた。


(頭を冷やすだけだ)


そう自分に言い訳して。

相沢には馬鹿正直に命じた。「赤坂周辺を洗っておけ」と。

その間、自分は――逃げた。




「お疲れ様です、御園生さん」


声が落ちる。

忠敬――源氏名“クロノ”は、いつも通り感情の薄い顔でブランデーを置いた。


その瞬間だった。

御園生の持ち物に宿る“小さな存在”たちが、一斉に息を吸う。


『ご主人ね』

『見える兄ちゃんだ!』

『逃げてるだけだよ!でも完全じゃない!』

『一割だけまだ仕事の顔してる!』

『赤坂の料亭裏帳簿771――』


いつものように、情報が流れ込む。

だがその途中で、ふっと途切れた。




クロノは御園生を見ていなかった。

正確には、“見ている状態をやめた”。


(今、この人は)

(見る側だ)


それだけで十分だった。

小人たちの声が、一拍遅れて止まる。


『……あ』

『切り替わった』

『仕事の人だ』



沈黙。

それは拒絶ではない。

もっと単純な、“対象の変更”だった。


御園生は、その変化にすぐ気づいた。


(……今、切られたな)


だが痛みではない。もっと厄介な種類の理解だった。

拒絶なら慣れている。

だがこれは違う。


“関係が終わった”のではなく、

“関係が最初から成立していなかった扱い”。


(……観測対象から外れた、か)



クロノは何も変えず、水を置いた。

グラスの位置は正確。動作は丁寧。だがそこに“意味”はない。


「……御園生さん」


声は同じトーン。


「そういう飲み方するなら、今日は休んだ方がいいです」


忠告ではない。業務連絡だった。

御園生は一瞬だけ笑おうとして、やめた。


(なるほどな)

(今の俺は“客”か)



御園生はグラスを持ち上げる。


「……悪かったな」


クロノは返さない。肯定もしない。否定もしない。

ただ“関係が存在していない”だけだった。



その静けさの中で、御園生の中の何かがほどけていく。


職場は嘘だらけだ。

誰かが誰かを利用している。


正義も建前も、その延長にある。


それに比べてこの空間は――

何も求めてこない。

何も奪おうとしない。


ただ、関係を持たないだけだ。


『ねえねえ』


ネクタイピンの小人が笑う。


『ご主人、今ちょっと楽そう』

『変だね』

『切られたのに、嫌じゃないんだ』


御園生は小さく息を吐く。


「……疲れた」



クロノはもう御園生を見ていない。

視線は店の奥の暗がり。


理由はない。

ただ“違和感”だけが残っている。


(……外が、少しズレてる?)


ポケットの小人たちが、一斉に黙る。


『……来る』


御園生も気づく。


「……巡回じゃないな」



カツ、カツ。


廊下の足音は軽い。だが揃いすぎている。普通の人間の歩き方ではない。

空気が一段だけ冷える。

クロノの視界の端で、“線が引かれる感覚”。



御園生は立ち上がらないまま言う。

「……来客じゃないな、これは」


クロノは短く答える。

「休憩、終わりですね」



ガラス扉の向こうに人影が止まる。一人ではない。

だが入ってくる気配ではない。

“確認している気配”。



御園生の目が完全に変わる。刑事の顔だ。



クロノは静かにグラスを置いた。


(まただ)


扉が押される。


――カツン。


乾いた音が、空気を裂く。




スーツの男が二人。営業客ではない立ち方。

「確認」だけをしに来た人間の姿勢。



御園生のネクタイピンが呟く。

『探してる顔だ』

『誰かを見に来てるやつだ』



御園生は息を吐く。

「……悪いな、クロノ。少し仕事だ」




クロノはすぐには動かない。

水面を見る。そこに映るのは自分だけだ。


(まただ)


こういう“目”は知っている。

何度も見てきた。人はこういう目で、物事を壊す。


クロノはグラスを置いた。

「……太客の休憩時間、延長ですね」


御園生は小さく笑う。

「すまん、今度は長居する」


「毎回そう言いますね」


その一瞬だけ、空気が“人間の側”に戻る。



スーツの男がクロノを見る。

視線が合う。


一瞬。


だが次の瞬間、それは“記録”に変わった。何かを確認し、何も言わず去る。


御園生が眉をひそめる。

「どうした」


クロノは首を振る。

「いえ」


(気のせいだ)


だが小人たちは違った。


『今の、見てた』

『クロノ見てた』

『でも知ってる人じゃない』


御園生は立ち上がる。


「クロノ。さっきの連中、覚えておけ」

「……何をですか」

「“見に来てる顔”だ」


クロノは頷く。

「慣れてます」


その言葉に、御園生は一瞬だけ沈黙する。


(……慣れてる、か)


それ以上は聞かなかった。


御園生はジャケットを整える。


「今日は帰れ。長引く」

「あなたが言います?」

「俺は残る」


クロノは少しだけ目を細める。


「……またですか」

「まただ」



クロノは背を向ける。


「御園生さん」

「なんだ」


「さっきの目は、嫌な感じじゃなかったです」


御園生が止まる。


クロノは続ける。

「でも、次は来ない方がいいと思います」


それだけ言って去る。

御園生はその背中を見る。


(来ない方がいい、か)



警告としては遅い。だが、忠告としては正しい。 

そして同時に――もう遅いとも、分かっていた。



店の外で、また靴音がした。今度は去る音ではない。戻る音だ。

御園生は小さく舌打ちする。


「……やっぱり休ませる気ないじゃないか」


そして、火のつかないタバコを指で折るように握りしめた。



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