第36話:『非番の突入と、想定外の太客』
歌舞伎町の夜は、相変わらず人間の嘘と見栄を呑み込んでぎらぎらと輝いていた。
前回の営業で不本意な大活躍(三連撃)をしてしまった結果、絶望的なまでにシフトが埋まり、深刻な寝不足に直面している忠敬――源氏名“クロノ”のコンディションは最悪だった。
(……早く家に帰って、とにかく寝たい)
そんな限界大学生の切実な願いも虚しく、営業中のホストクラブ『LUXE』の重厚なガラス扉が、ふいに場違いなほど厳格な音を立てて押し開けられた。
「いらっしゃいませ――っ、え?」
出迎えた黒服の東が、途中で思いきり声を裏返した。
現れたのは、あろうことか私服姿の相沢と、その直属の上司である御園生警部補だった。
相沢はやましいことなどないのにキャップをギリギリまで深く被り、まるで敵地のど真ん中にカチコミにでも来たかのように、全身をガッチガチに強張らせてフリーズしている。
「あ、相沢さん……? 御園生さんまで、なんで……」
ヘルプの合間に気づいた忠敬が歩み寄ると、相沢は周囲のきらびやかな内装から必死に目を背けながら、蚊の鳴くような小声でボソッと呟いた。
「……非番だ。民間人としての、私的な利用だ。……お前を指名しに来た。皆には内緒だぞ」
「キャバクラの姉ちゃんたちの店とは、また随分と空気の密度が違うな。男の職場というのも、なかなか興味深い。……案内してくれ、クロノくん」
御園生は仕立ての良いジャケットの襟を軽く正しながら、完全に観光地に来たかのような余裕の笑みを浮かべている。意味が分からない。なぜ警察の偉い人たちが、非番の日にわざわざホストクラブに突入し、自分を指名しているんだ。
「潜木、悪い。御園生さんが『一度、あの兄ちゃんのバイト先とやらを拝んでおきたい』って聞かなくて……」
すっかり胃を押さえている相沢と、優雅に歩く御園生に連れられ、忠敬は自身のメイン卓となる奥のボックス席へと着いた。
忠敬が腰を下ろした瞬間、相沢のポケットの警察手帳の小人と、御園生の上着のボタンの小人が、待ってましたとばかりに忠敬に向かって大はしゃぎで話を始めた。
『あー! 見える兄ちゃんだ! 聞いて聞いて!』
『あのあと、御園生さんが榊の前に受領番号6890の書類をバチンって叩きつけてさぁ! 部屋にあったあのルーペで、書類の矛盾を完璧に論破して追い返したんだよ!』
『そうそう! 榊の奴、ポケットの胃薬をシャカシャカ踊らせながら、今朝奥さんに生ゴミの分別で靴ベラで叩かれた時と同じ、すっごい情けない顔して泣きながら本庁に逃げ帰っていったんだから!』
『揺れて楽しかったよ!』
『ご主人(相沢)のクビ、繋がったよー!』
(…生ゴミ?……なるほど。本当にあの男を退却させたのか。……やるな、あの人たち)
小人たちの誇らしげな話を聞いて忠敬は顔には出さず、心の中で静かに納得した。
相沢は、自分が置いていった命綱を完璧に使いこなし、そして御園生警部補と共に、本当に自分のクビを繋ぎ止めてみせたのだ。
「クロノとしては初めまして。お二人とも……お疲れ様でした」
忠敬はいつも通りのぶっきらぼうな口調のまま、だが2人の目を正面から見据えて、静かにグラスを置いた。
相沢はキャップの庇を指で少し上げ、照れくさそうに視線を彷徨わせる。
「……ああ。お前もな。……ありがとな」
ボソッと返ってきた、ぶっきらぼうな感謝。
それにクロノはふっと笑って会話を繋げようとして、ふいに黙る。
『お兄ちゃん! ご主人本当は榊に監査されてる間ずっと、自分がクビになることより、「潜木を犯罪者にして巻き込んだらどうしよう」って、そればっかり考えて怖くて胃がキリキリ痛んでたんだよ……!』
『御園生さんだってそうだよ! 表向きは飄々としてるけど、本庁の理不尽な圧力から相沢と君を守るために、ここ数日ずっと寝ないで裏の書類仕事と根回しに奔走して、本当は肩も腰もバキバキなんだから!』
(……本当に、どいつもこいつも変な大人たちだな)
小人がいなければ知りえない、2人の不器用な真実。
胸の奥にあの夜と同じ、不思議な熱がじんわりと広がる。忠敬はそれを振り払うように忠敬は顔に出さず、相沢のグラスに視線を落とした。
「相沢さん。お酒はもういいですから、水飲んでください。……それと御園生さん、お酒より、先に温かいお茶でも持ってきましょうか。そんなに無理して肩を張ってたら、余計に胃にきますよ」
2人が同時に息を呑み、固まった。
普通のホストなら、ここで「お疲れ様です! どんどん飲みましょう!」と高いお酒を煽るだろう。
警察官なんだから、強くて当たり前。
周囲からそう思われ、自分たちでもそう思い込もうとしていた防衛線を、この青年は初対面の挨拶ついでにあっさりと踏み抜いてみせた。お世辞にも優しくはない。だが、誰にも言えなかった内側の”限界”を、自分自身よりも解像度高く見抜いて案じてくるその実直な眼差しに、二人は胸の奥の強張りが、ストンとほどけていくのを感じていた。
相沢の警察手帳の小人が、震える声で呟く。
『……なんで気づいたんだろう。警察官なんだから、強くて当たり前だって思われてるのに……』
そして、御園生の上着のボタン小人も、いつも通りの飄々とした主人の顔を見上げ、
『わー! この人、実家の権力や本庁のドロドロした政治に囲まれて、ずっと"大人たちの建前と嘘"しか聞いてこなかったから、クロノくんのこの一切お世辞のない本気の心配に、内心ものすご―――く面食らって感動してるよ!!』
『そうだよ! 「部下のクビを救うためにここまでの命綱を引っ張ってきた男がどんな奴か見にきたが……まさか、自分の疲れまでこんな真っ直ぐに当てられるなんてな」って、心臓の奥がちょっと熱くなって、一瞬でクロノくんのこと大・大・大のお気に入りになっちゃってるもん!!』
御園生が受けたその衝撃を隠すことなく話し始めた。
御園生は驚きに目を見開いた後、心底おかしそうに、優雅に小さく笑った。
そしてこの空気はメニューを開いた御園生の一言によって一瞬で粉砕される。
「ほう。この年代のブランデーがこの価格か。歌舞伎町にしては随分と良心的だな。相沢、せっかくだ、一番いいやつを一本貰おうか」
「み、御園生さん!? 何を言ってるんですか! メニューの桁を見てください、公務員の給料が消し飛びます!!」
ガタガタと震えながら冷や汗を流す相沢を横目に、御園生はスマートに注文を済ませていく。
実は御園生警部補は、実家がかなり太い、生粋の”いいところの坊ちゃん”だった。普段は警察組織の泥臭いドロドロを冷徹に回しているが、金銭感覚のバグり方が一般の警察官のそれではないのだ。
「気にするな、相沢。実家のセラーで眠っている年代物よりは少し若いが、十分に美味い。……それにしても潜木、お前の前の空気は、そこらの高級マッサージより遥かに胃に優しいな。警察組織の泥臭い疲れが、綺麗に洗い流されていくようだ」
御園生は、クロノが多くの沼客を意図せず作り出した”安心して黙れる空気”に、無自覚に深く深く癒やされていた。
すると、御園生のネクタイピンの小人がなにを察知したのか、満足げに胸を張ってチクり始める。
『お兄ちゃん!このお坊ちゃん警部補、さっきから脳内で「来週のシフト表(非番の日)」と”LUXE”の営業時間を照らし合わせて、早くも次回の来店予約のシミュレーションを完了させてるよーー!!』
忠敬は、深く、深く心の中でため息をついた。
「……御園生さん。警察の偉い人が、無自覚に沼に落ちてホストクラブの太客になろうとしないでください。……迷惑です」
「ははは、手厳しいな。だが相沢、俺はこれから非番の日をここにするぞ」
「御園生さん!? 職務怠慢、職権乱用です!! 公務員の品位を考えてください!!」
小声で怒鳴るという器用なワザを使い、ガタガタと椅子を鳴らして上司を止めようとする相沢と、楽しそうな御園生。騒がしい大人たちを前に、クロノは乾いた笑い声をこぼす。
警察の中に、忠敬の全ては知らずとも自分の”おかしさ”を知った上で守ってくれる”最強の理解者(盾)”ができた。それは間違いない。だが、その最強の盾は、どうやら明日からの自分のシフトと睡眠時間を、別のベクトルでゴリゴリと削りにやってくる気満々らしい。
――だが、最強の盾(太客)を得たことによる「本当の迷惑」は、まさに今、この瞬間に幕を開けようとしていた。
御園生がスマートに注文した最高級のブランデーが卓に運ばれ、相沢がまだ「公務員の品位が……!」と小声で頭を抱えていた、その時だった。
「あ、あの! すみません、ここに『クロノさん』ってホストの方はいますか……!?」
『LUXE』のきらびやかなフロアの喧騒を突き破って、フロントの方からひどく焦ったような女性の声が響いた。
見れば、地味なリクルートスーツに身を包んだ、まだ二十代前半とおぼしき若い女性が、黒服の東にすがるようにしてフロアの入り口に立っている。その場に似合わない必死な様子に、フロア中のホストや客の視線が一瞬でそちらへと集まった。
(……なんだ? 新規の指名客か?)
クロノがグラスを持ったまま目を向けた、まさにその刹那。
女性が肩にかけた、使い古されたナイロン製のビジネスバッグのジッパー小人が、忠敬に向かってちぎれんばかりに手を振りながら、フロア中に響き渡るような大声で叫び始めたのだ。
『お兄ちゃん助けてーー!! この主人、今まさに犯罪に巻き込まれてるよーー!!』
『そうなの! 昨日ネットの掲示板で知り合った自称・投資家の悪い男に「指定の口座に今すぐ三千万円振り込まないと、あんたの家族全員の個人情報をネットに晒して破滅させてやる」って脅されて、パニックになってるんだよー!』
『「そのクロノってホストを頼れば、歌舞伎町のどんな裏のトラブルも解決してくれるってネットに書いてあった」って信じて、泣きながら走ってきたんだよーーっ!!』
(……は??)
忠敬の脳内に、突如として激しい衝撃が走り抜けた。
一介の大学生やホストには確実に荷が重い、激ヤバな、ガチの恐喝詐欺事件らしい小人の話。
(ーーー…誰だ、ネットにそんなデタラメな書き込みをした奴)
急な頭痛に手を頭にやり、全力で他人のフリをしようとしたその時だった。
「……潜木」
対面に座っていた相沢の、あのキャップの庇の奥の”警察官の目”が、一瞬で鋭さを増した。
小人の声は相沢には聞こえない。だが、駆け込んできた女性の異常な怯え方と、それを見た瞬間にクロノの無表情が一瞬だけみしりと強張ったのを、隣にいる御園生警部補ともども、一瞬で見逃さなかったのだ。潜木の秘密を誰にも暴かせない。そう決めた相沢だからこそ、彼のわずかな動揺に、誰よりも早く反応したのだ。
御園生はグラスを傾けたまま、楽しそうな笑みを完全に消して「お前が動くなら、俺たちが裏でどうとでも処理してやる」と言わんばかりの、心強い大人の目配せをクロノに向けてくる。
相沢さんもそれに横で頷いて同意していた。
(…どうする。―――――でも、いまさらか)
今までの忠敬なら、事件の全貌を一人で暴いてから通報するか、その場でことが起きるのを待つしか選択肢はなかった。人間なんて信じない。関わりたくない。そうやって頑なに境界線を引いていたはずなのに。
だが、今の自分の目の前には、自分の”おかしさ”をすべて知らずとも、その危うさを丸ごと守るためにここに座っている、最強の警察官(盾)が2人もいるのだ。
ダメ押しのように小人たちが必死に”この大人たちは本気でお前を心配して協力しようとしている”と訴えかけてくる。なによりその声が、ここ数日で柔らかくなっていた境界線をじわりと溶かしていく。
忠敬はついに諦めたように深くため息をつくと、相沢と御園生に向かって、誰にも気づかれないほどの極小の動作で、小さく、コクリと頷いてみせた。
「……東さん、そのお客様、俺の卓へ案内してください。――相沢さん、御園生さん。少し、手狭になりますよ」
「……ああ。構わん」
相沢が小声で応じ、テーブルの下で拳を握る。
高級ホストクラブ『LUXE』のボックス席。民間人を装った二人の警察官と、クロノによる、前代未聞の”裏捜査”が、不本意ながらも今ここに幕を開けようとしていた。




