第35話:『恩返しの解像度』
深夜の歌舞伎町で耳にした、交番の看板小人たちの不穏な噂。
あの生真面目な警察官が、自分のためにクビの危機に瀕している。その事実を知ってから、忠敬の胸は、ずっと焦燥に駆られていた。
他人は嘘ばかりで、なるべく関わりたくない。
そうやって頑なに境界線を引いていたはずなのに、ポケットの奥では、相沢がクビを覚悟して救い出してくれた合鍵の小人が、忠敬の指の温もりに甘えるように小さく震えている。
翌日。
大学の講義を終えた忠敬が向かったのは、いつもの歌舞伎町の路地裏ではなく、所轄の警察署だった。手続きの用事など何もない。ただ、自らその境界線を踏み越えて、焦燥のままに相沢のいる場所へと足を運んだのだ。
案内係の目を適当にかいくぐり、廊下を進む。
御園生警部補の執務室のドアが、微かに開いていた。
中を覗き込むと、部屋には誰もいなかった。相沢も御園生も、今は取り調べか会議に出払っているらしい。
だが、静まり返った部屋のデスクの上から、御園生警部補の私物である書類を綴じるホッチキスの小人とルーペの小人が、こちらの姿に気づいて一斉に騒ぎ立てた。
『あ、見える兄ちゃんだ!』
『ねえ聞いて! 御園生さんがさっきまで、このルーペで本庁の溶解処分書類(受領番号6890)をすっごい睨みつけてたんだよ!』
『そうなの! 榊監査官は相沢が合鍵を盗んだって騒いでるけど、実は本庁の管理ミスで、別の事件のアルミサッシの重さと合鍵のデータが最初から混ざっちゃってるの!』
『御園生さんは「何かおかしい」ってホッチキスをパチンと叩きながら気づきかけてるけど、本庁の受領番号と重量の内訳の矛盾の、決定的な証拠にはまだあと一歩届いてないんだよー!』
(……管理ミスの、矛盾)
書類の致命的な矛盾の在処を、忠敬は小人たちに助けてもらいながら正確に脳内に叩き込んだ。
その矛盾を警察側に伝えれば、相沢は確実に救われる。だが、一般人の大学生がなぜ本庁の極秘データの穴を知っているのかと、今度こそ言い訳の立たない決定的な疑惑を向けられるだろう。
わかっている。それでも、書類を探る忠敬の手は止まらなかった。
警察署のロビーへ戻り、しばらく待っていると、本庁の監査官たちに詰め寄られてすっかり疲れ果てた顔をした相沢が、廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。
忠敬はちらりと周りに視線をやり、相沢のほかに誰もいないことを確認した。
それでも、念のために空室であることを確認していた小部屋へ、相沢を躊躇うことなく引っ張り込んだ。
そして、忠敬は戸惑う相沢の、その正面へと真っ直ぐに歩み寄った。
「潜木……? お前、なんでここに……」
相沢が驚きに目を見開く。
忠敬はいつものぶっきらぼうな口調のまま、だが相沢の目を正面からしっかりと見据えて、一気に告げた。
「相沢さん。御園生警部補に伝えてください。本庁の溶解処分記録、受領番号6890の重量の内訳を洗え、と」
「――ッ!? お前、何を言って……、なぜ本庁の管理番号を……!」
「本庁の管理ミスです。あなたが箱から抜くより前に、別の事件のアルミサッシのゴミが混ざって重量が適当に合わされている。合鍵は最初から別の廃棄金属と一緒に、すでに本庁の炉で処分が完了している……書類上は、そう言い切れるだけの致命的な矛盾がそこにはあります」
相沢は激しい衝撃を受け、警察官としての鋭い目で忠敬の肩をガシッと掴んだ。
「潜木、お前……! なんでそれを知っている。一般人のお前が、本庁の内部事情の、そんな深いところまで……お前は一体、何者なんだ……!?」
向けられる、これまでにないほど鋭い警察官の“疑惑”の眼光。
だが、忠敬の目はもう、前のように揺れてはいなかった。
「……さあ。ただの、お節介な大学生の勘ですよ。あなたがクビになったら、さすがに申し訳がなさすぎます。……御園生さんに、早く伝えてください」
そう言って、忠敬は相沢の手をすり抜けるように振り払い、警察署の自動ドアを出て、雑多な街の中へと足早に消えていった。
*
忠敬が去った小部屋で、相沢はしばらく立ち尽くしていた。
もたらされた、本庁の溶解処分記録”受領番号6890”という具体的な数字。それは蜘蛛の糸と成りうるのか。潜木の言葉を鵜呑みにしたわけではない。だが、その言葉の重みに急かされるように、相沢はすぐに自分の端末を開き、極秘のデータベースへとアクセスした。
画面に表示された受領した総重量のデータ数値と、別の明細書類に書かれた数値を目にした瞬間、相沢は息を呑んだ。
(……本当、かよ……!)
総重量の記載に対し、内訳の金属ゴミの量が最初からズレている。忠敬の言った通りの致命的な管理ミス。警察のシステムエラーが、そこには確かに存在していた。これがあれば、榊を追い払える。
だが、データを見つめる相沢の背中に、冷たい汗が伝った。
これを発見した経緯をそのまま報告すれば、御園生警部補だって「なぜ一般人が本庁の管理番号を知っている」と、潜木の身辺を洗わざるを得なくなる。あいつは「申し訳がなさすぎる」と、自分のために身の危険を冒してここへ来たのだ。
(……俺が、自力で見つけたことにする。あいつをこれ以上、巻き込めない)
相沢は覚悟を決め、書類を印刷して御園生警部補の執務室へと走った。
「御園生さん! 本庁の処分記録に、決定的な矛盾を見つけました!」
勢いよく書類を差し出す相沢。だが、デスクの椅子に深くもたれかかった御園生は、鋭い目で書類を一瞥すると、ふっと呆れたように息を吐いた。
「相沢。お前の『刑事としての嗅覚』は優秀だが、本庁のシステムエラーの受領番号を、ピンポイントで引き当てるほどの超能力者だったか?」
「それは……地道に洗った結果です!」
「嘘をつくな」
御園生の低く重い声が、室内の空気をピリつかせる。
「そんな大博打のような嘘で、あの潜木という兄ちゃんを庇いきれると思っているのか。お前がクビを覚悟で合鍵を持ち出し、その兄ちゃんがリスクを冒してこの数字を置いていった。……違うか?」
すべてをお見通しだった。組織を裏で回してきたベテランの眼光に射抜かれ、相沢はぐっと奥歯を噛み締めた。これ以上、この人に嘘を通すのは不可能だと悟り、ついに諦めたように肩の力を落とした。
「……すみません。全部、あいつに言われました。……でもちゃんと裏は取りました。御園生さん、潜木はただ、俺のクビを繋ぐために……!」
「分かっている。これ以上あいつの身辺を洗う気はないし、組織にも報告せん」
御園生は引き出しから、使いやすくて気に入っているホッチキスを取り出すと、相沢が持ってきた書類をパチン、と力強く綴じた。
「だが、あの兄ちゃんが放つ歪な違和感の正体が、これで一つハッキリしたな。……あいつは『すべてを知っている』。そして、さらに怪しまれると分かっていながらも、お前を救うためにここに命綱を届けてくれた。……行くぞ、相沢。あの兄ちゃんの心意気を、ここで無駄にするな」
「……っ、はい!」
2人の胸に、潜木忠敬という青年への、これ以上ない深い理解と確かな情が刻まれた瞬間だった。
*
2人がたどり着いた会議室で、榊監査官はふんぞり返ったまま冷酷な笑みを浮かべていた。
「なんだ相沢。言い訳の時間は終わりだ。大人しく組織の処分を――」
「処分なら、本庁の書類管理官に下すべきですね、榊監査官」
素早く歩み寄った御園生が、先ほどの書類を榊の目の前へ容赦なく叩きつけた。
「本庁の溶解処分記録、受領番号6890の内訳を見てください。受領されたアルミサッシのゴミの中に、あなたが探している『合鍵』の重量が最初から混ざって処理されている。相沢が盗んだのではなく、最初から本庁の不手際で、すでに溶解処分が完了しているんですよ」
「な、に……っ!?」
榊の完璧なエリートの表情が、一瞬で凍りついた。
彼が焦って手元の資料をめくり、必死に防衛線を張ろうとしたその瞬間。御園生と相沢の耳には聞こえないが、榊の衣服や持ち物たちの小人たちが、四方八方から大合唱を始めた。
『うわあああ! 主人の体がさっきから激しく震えて、ポケットの中の胃薬がシャカシャカ踊ってるよーー!!』
『わ~。楽しー!!』
『相沢の眼力が怖くて、心臓がパニックで破裂しそうなんだって!!』
榊は「バ、馬鹿な……! そんな書類上の手違い、認められるか……!」と声を荒らげるが、小人たちの容赦ない暴露は止まらない。
『「もしここで自分が引き下がったら、本庁での点数稼ぎに失敗して出世コースから外れる!」って、脳内で必死に言い訳を探してるよ!!』
『偉そうにしてるけど、今朝、生ゴミの分別を間違えて奥さんに靴ベラで頭叩かれて泣きながら出勤してきた時と同じ顔になってるよーー!!』
『「相沢のクビを飛ばすって、裏社会の闇カジノのオーナーと約束したのに……! 失敗したらあの金ピカの時計を返さなきゃいけなくなる!」って、めちゃくちゃ焦って冷や汗ダラダラ流してるよ! 時計の裏が汗でベタベタだよー!』
榊の表面上のプライドとエリートの仮面が、小人たちの悲鳴によって内側からボロボロに剥ぎ取られていく。
御園生は榊の”焦りと後ろ暗さ”をベテランの直感で敏感に察知し、容赦なくトドメの釘を刺した。
「これ以上、うちの若いのに根拠のない疑いをかけるなら、本庁の『杜撰な管理体制』と、榊監査官の『強引な監査の正当性』について、こちらから上に正式に報告書を上げますが……どうされますか?」
「くっ……、う,うう……」
榊は相沢の真っ直ぐな眼光と、御園生の圧倒的な凄みに完全に気圧された。ポケットの中で震える手を必死に隠しながら、ガタガタと情けなく椅子を鳴らしして立ち上がる。
「……ち、調査に、手違いがあったようだ。今回の監査は、一度本庁に持ち帰る……!」
家で奥さんに靴ベラで泣かされた時さながらの、酷く引きつった情けない顔のまま、榊は部下を引き連れて逃げるように会議室を飛び出していった。
静まり返った会議室で、相沢は深く息を吐き、胸のポケットに入った警察手帳の奥、あのボロボロになった形見のペンにそっと触れた。
『潜木だけは絶対に自分の命に代えても守る』と、毎朝誓っていたそのペン。今回は守るどころか、あいつの命綱に自分が救われる形になってしまった。
御園生はそんな相沢の背中をポンと叩き、ニヤリと渋く笑った。
「相沢、今回の手柄はお前のものだ。……ただ、その『勘』の出所には、ちゃんとお礼を言っておけよ」
「……はい。必ず」
相沢は、自分を救うために警察署に来た忠敬のあの真っ直ぐな瞳を思い出し、きつく目をつぶった。
忠敬が放つ歪な違和感、そして”勘”という名の情報。それが彼の核心であり、他人に知られてはならない致命的な秘密だということは、もう痛いほど分かっていた。
だが暴いて、どうするのかーーー。
真実を白日の下に晒すことだけが、俺の正義なのか。
相沢の中で、忠敬に対して抱き続けていた”深い疑惑”の輪郭が、静かに、だが劇的に形を変えていく。
これまでは、あいつの正体を知るために”暴く”ための疑惑だった。
だが今は違う。あいつが命がけで俺に命綱を投げてくれたように、今度は俺が、あいつのその歪な秘密を誰にも暴かせないための「盾」にならなくてはならない。
暴くための警察官ではなく、守るための最強の理解者に。
相沢の胸の奥で、かつてない強固な覚悟が静かに産声を上げていた。




