第34話:『お節介の伝染と、不本意な三連撃』
自販機の裏の事件から数日。
歌舞伎町のネオンはいつもと変わらず冷ややかに輝き、ホストクラブ『LUXE』も何事もなかったかのように営業を再開していた。
だが、忠敬――源氏名“クロノ”のコンディションは、いつもと少し違っていた。
スラックスのポケットの奥で、指先が冷たい金属の感触を確かめるように、そっと撫で続けている。処分箱から横流しされた、あの狂気の合鍵だ。家に置いて行こうとすると泣き続ける為、最近はいつも一緒にいる。鍵の小人は忠敬の指の温もりに安心したように、ポケットの底で小さく丸くなって眠っている。
規律の塊のような相沢が、自分のために手が震えるほど怯えながら一線を越えた。
その事実が、どうしても脳裏から離れない。その結果、忠敬はいつもより”周囲の人間を警戒・観察する癖”が無意識に跳ね上がってしまっていた。
そんなピリついた忠敬を出勤直後に待ち受けていたのは、No.1のレンだった。
「……クロノ。ちょっといいか。皆には内緒で」
不自然なほどクールな顔で呼び出されたのは、いつもの薄暗い非常階段。
あの日、相沢に呼び止められたのと全く同じシチュエーションに、忠敬は(また何か不穏な話か?)と余計な警戒を強めて左手首を握った。
だが営業前の為か、レンは”完璧な笑顔の仮面”を外していた。柔らかな表情でポケットから差し出してきたのは、高級栄養ドリンクと、手土産用の焼き菓子だった。
「あのさ、クロノ。この前は、その……ありがとう。お前がああやって警告してくれなかったら、俺、刺された場所がやばかったら、本当に今頃ニュースになってた。お前には、感謝、してる」
№1のプライドが邪魔をして妙にカッコつけているレン。だが、彼のジャケットのボタン小人が大声をあげた。
『この主人、クロノくんに何をお礼したら喜んでもらえるか分からなくて、昨日「男子大学生 実用的なプレゼント」「ホスト 後輩 懐かれる方法 お礼」で3時間もスマホ検索してたよーー!』
(……相沢さんの後だからか、人間の見栄がいつも以上に不格好に見える。凄い人だけど、本当に手がかかる人だな、この人)
忠敬は深く心の中でため息をつき、少し呆れてそれを受け取った。
「別に。店の売上が落ちたら迷惑なだけです」
「うん、お前そういうとこブレないよね!」
レンは複雑そうな顔をしつつも、心の中で(よし、懐かれた!)と盛大にガッツポーズをしていた。
しかし、問題はここからだった。
相沢の”本気の真心(お節介)”の熱量を叩きつけられ、さらに脳内が観察モードにバグったままの忠敬がヘルプの卓に入った瞬間、未曾有の災害が発生することになる。
「あー、もう最近マジで仕事忙しすぎて死ぬ。上司はアホだし、タスクは終わらないし、マジでやってらんないんだけどー」
最初に入ったのは、いつも仕事の愚痴をマシンガントークでぶちまけていく姫の卓だった。いつも通り、適当に「へえ、大変ですね」と相槌を打つ。それだけでいいはずだった。
だが、彼女のスマートフォンに付けられたストラップの小人が、忠敬に向かって必死に叫んだ。
『お兄ちゃん! この人、今週ずっと睡眠時間3時間なんだよ!』
『本当はもう限界なのに、寝れないし、愚痴でも喋ってないと涙が出ちゃうから、必死にテンション上げてるんだよー!』
(……3時間…)
こちらの胃が痛くなるような姫の近況。寝不足の辛さは大学生兼業の忠敬は分かりすぎてつらい。クロノは顔に出さず、無表情のまま彼女の手元へ視線を向けた。その目は、姫が隠そうとしている微細な変化を恐ろしい解像度でキャッチしていく。
「……、クロノ? なんか、私の手、どうかした?」
いつもと違うクロノの視線に、姫が少し恥ずかしそうに手を引っ込めようとする。しかし、クロノはいつも通りのぶっきらぼうな口調のまま、静かに告げた。
「……ネイル、剥げてますよ」
「え? あ、ネイル……。うん、まあ、ちょっと仕事が忙しくて、キーボード叩くのが強くなっちゃってて……」
「叩き方だけじゃないでしょう。イライラして指が突っ立ってるから、爪の先からぶつかってるんです。そんな状態でいくら上に塗り直したって、すぐまたボロボロになりますよ」
忠敬はさらに視線を下に落とした。テーブルの陰で、彼女の足が貧乏ゆすりでせわしなく揺れている。
「あと、さっきから足の揺れ、止まってないです。そこまで余裕なくなって焦るくらいなら、仕事なんか一回放り投げたらどうですか。会社で過労倒れでもしそうです。明日は有給でも取って、泥のように寝てください」
「――ッッ!!」
姫は息を呑み、ガタっと派手に椅子を鳴らしそうになるのを必死に堪えた。
その顔は真っ赤に染まり、瞳には今にも涙が溢れそうなほどの感動が浮かんでいる。
いつもホストたちは、ここで「お仕事頑張ってて偉いね」と甘やかす。お酒を煽る。売上を作る。
だが、クロノの言葉はどこまでもぶっきらぼうで、お世辞にも優しいとは言えない。けれど、職場の上司も同僚も、……友達だって。誰も気づいてくれなかった自分の”限界”を、この人は真っ先に、誰よりも正確に見抜いて、怒るように心配してくれていた。
ストラップの小人が、震える声で呟く。『……いつも「元気だね」「エネルギッシュだ」って言われるだけだったのに……』
忠敬は聞こえないフリをした。自分のせいでクビを覚悟したあの警察官(相沢)の残熱のせいで、いつも以上に相手の”無理”が気になって、つい余計な一言が口を突いて出ただけだったから。
「クロノくんっ……!! 私、明日絶対に有給取る!! 取って、明日も明後日もクロノくんに会いに店に来るからねっ!!」
「……え?」
(違う。有給を取れと言ったのは家で寝ろという意味で、店に来て俺の睡眠時間を削れという意味ではない。大人しく寝ろ)
忠敬の内心の切実なツッコミなど露知らず、姫のスマートフォンは、すでに明日支払うための軍資金を口座から確認する画面へと切り替わっていた。
一組目の卓をなんとか乗り切り、息を吐く暇もなく次のヘルプへと駆り出される。夜が更けるにつれて店内の喧騒は増し、小人たちの声もますます賑やかになっていく。
ただでさえ考えすぎて睡眠不足の脳みそに、他人の裏事情が容赦なく流れ込んできて、忠敬は自分の胃のあたりがじわじわと重くなっていくのを感じていた。
そんな中、送り込まれた別の卓では、ある姫が別のホストに向かって「今日すっごい楽しい〜!」と営業スマイルで大笑いしていた。グラスを掲げ、声を張り上げ、誰よりも盛り上がっているように見える。
だが、ヘルプに入った忠敬の耳に、姫のバッグの小人の声が、その大爆笑を突き破って届いてしまう。
『主人、本当は明日大事なプレゼンがあって、プレッシャーで吐きそうなんだよー!』
(……そこまでして、何と戦ってるんだ、この人は)
無理に笑顔の仮面を塗り重ねて、必死に限界を隠そうとする人間の不格好さ。いつもなら「無理して笑わなくていい」と言っていただろう。
口を開こうとしてふと、相沢が「お前は何か致命的なものを抱え込んでいる」と自分に踏み込んできた時の顔がよぎった。クロノは顔に出さず、無表情のまま彼女へ視線を向けた。脳内がバグを起こし、つい余計な一言が口を突いて出る。
「楽しいと言っている割に、香水がいつもと違いますね」
「えっ? あ、気づいた? これ、新しく買ったやつなんだ〜」
「それ、リラックス効果のある柑橘系のアロマですよね。そんなに無理してテンション上げて笑ってたら、余計に胃にきますよ。……お酒より、温かいお茶でも持ってきましょうか」
「――ッッ!!……クロノくんだけは、私の無理を見抜いてくれた……! もう他のホストじゃ満足できない!」
「……それはない」
(違う。ただでさえ体調不良の客が多いのに、バックヤードでグラスや薬の補充をするこちらの雑務が増えて面倒なだけだ。大人しくお茶を飲んで早く帰れ)
頭痛がしそうな姫だった。
ひと息つきたいクロノが次に送り込まれたのは、店の太客である姫の卓だった。
「ねえねえ見てよクロノくん!これ、こないだ彼氏にプレゼントしてもらったの!日本に数点しか入ってきてない新作のバッグなんだよ!」
姫がソファーの上で嬉しそうに掲げて見せびらかしているのは、一目で超高級ブランドと分かる、きらびやかなクロコダイルのバッグだった。周囲のホストたちも「うわ、すごーい!」「さすがミキちゃん、愛されてるね!」と、これみよがしな営業スマイルでヨイショしている。
いつも通りのクロノであれば「へえ、良かったですね」とバッグに1秒だけ視線を向け、あとは空気と化してやり過ごす場面だ。忠敬の人間関係の境界線はシビアだった。
だが、テーブルの上に置かれたその新作バッグの横でカバンに付けられたスカーフの小人が、涙目で忠敬を見上げて悲痛な叫びをあげた瞬間、状況は一変した。
『お兄ちゃん助けてーー!! このバッグ、偽物だよーー!!』
『本物の職人さんの匂いが全然しないの!主人を騙そうとしてる怪しい男が、海外の怪しいサイトで3万円で買ってきた超高精度のコピー品なんだよー!』
『主人、本物だと信じて毎日すっごい大事にお手入れしてくれてるのに……っ。このままだと騙されちゃうよーー!』
(……うわ、最悪な男を引いたんだな)
いつものクロノなら、迷った。それとなく彼氏とだけは別れたほうがいいとアドバイスするかどうか。
だが、脳裏をよぎったのは、あの自販機の裏の生真面目な警察官の顔だった。クビを覚悟で、手が震えるほど不安なのに自分(小人)のために一線を越えた相沢さんの、あのバカ正直な正義感。
(あの人のせいで、俺まで調子が狂ってるな……)
相沢さんの真面目な顔で見られているような気がして落ち着かない忠敬は、ついに諦めたように太客の姫に向かって、ぶっきらぼうな口調のまま静かに告げた。
「……そのバッグ、素敵なデザインですが。ジッパーの金具の形、本物にしてはちょっと不自然じゃないですか」
「え……?」
「彼氏の気が変わらないうちに、一回、購入時のレシートか保証書を見せてもらった方がいいですよ。このまま知らずに外へ持ち歩いて、詳しい人に裏で笑われてからじゃ遅いです。……嘘を掴まされてるの、嫌でしょう」
「――ッなッ!!」
卓全体の空気が、一瞬で凍りついた。
周囲のホストたちが「おいクロノ、何言ってんだ……!」と青ざめる。だが、その太客の姫は、ハッと目を見開いた。実は彼女自身、ここ最近の彼氏の挙動にいくつか不審な点を感じ取っていた。女の勘だ。気の所為だと思い込もうとしていたそれが、クロノの鋭い一言によって完全に納得してしまった。
(……クロノくん、私のために、わざわざ嫌われ役を買って出てまで、騙されそうになってる私を救おうとしてくれたんだ……! 周りの男たちはみんな私の機嫌を取る嘘しか言わないのに、この人だけは、本当に私を傷つけないために、真実を暴いてくれたんだ……っ!)
「クロノくん……っ。私、今すぐあの男に連絡して問い詰める! 本当の味方が誰だか、今やっと分かったわ……!!」
「……は?」
(違う。これ以上、詐欺男に貢いだ挙句に病んだら迷惑だから予防線を張っただけだ。なぜ彼氏を問い詰めた後に、キラキラした目で俺の指名を増やそうとする画面を開いているんだ。大人しく家に帰って弁護士を雇え)
気づけば、営業終了後のバックヤードは地獄絵図だった。
新規の指名や「クロノくんに裏事情を相談したい」という沼客の要望が、机の上の伝票マウンテンとなって殺到していたのだ。
黒服たちが頭を抱え、アオやカイ、ユウのホスト達が感動している。
「クロノ、お前また進化したのか!?」
「これ…どうすんだ。どう回すんだ」
「あのレンさんを救った『夜道の守護神』やっぱりすごい!」
「 相手の嘘をすべて暴くメンタリストホストの誕生かよ!?」
(違う。相沢さんのせいだ。あの目が頭から離れないせいで、俺まで調子が狂って余計なことを口走っただけだ……)
だが、心の中でそう毒づいた言葉の温度はもう、いつもの冷たい拒絶とは完全に違う、確かな熱を帯びていた。
忠敬は、増えすぎた伝票の重量感(物理)を前に、完全に現実逃避した。早く家に帰って、あの救った鍵の小人とコップの小人たちと静かに過ごしたい。
それなのに、現実では明日からのシフトが分刻みで絶望的なまでに埋まっていく。
そして、午前3時過ぎ。
ヘトヘトになりながら深夜の歌舞伎町の大通りを歩いていた忠敬は、交番の前に置かれた警察看板の小人たちが、ヒソヒソと恐ろしい噂話をしているのを、その耳に捉えてしまった。
『ねえ聞いた? あの本庁の監査の奴ら、証拠品が一つ消えたって大騒ぎしてるよ』
『相沢っていう生真面目な警察官が怪しいって、裏で目を付けられてるみたい……。このままだと、あの人、本当にクビになっちゃうよ……!』
忠敬の足が、ピタリと止まった。
無意識に伸びた手にあの鍵小人が縋り付いた。
ポケットの中で”あの合鍵”が、心なしか冷たく重くなった気がした。




