第33話:『お節介の温度』
事件からさらに数日後の、営業前。
忠敬がいつも通り店へ向かって歌舞伎町を歩いていると、路地の影から、勤務時間外の私服姿の相沢がふらりと姿を現した。相沢は警察官としての鋭い目を隠すようにキャップを深く被り、周囲を気にするようにしながら忠敬の前に立った。
「潜木、ちょっといいか。……皆には内緒だ」
促されたのは、自動販売機の裏の薄暗い隙間だった。忠敬は警戒しながら、左手首を無意識に強く握った。相沢はポケットから、小さな、汚れないように丁寧にティッシュに包まれたあの事件の”合鍵”を取り出した。
相沢の手のひらの上で涙をこぼしていた鍵の小人が忠敬を見た瞬間、破顔した。
「、……」
呼吸が揺らぎ、忠敬の感情を排した瞳がわずかに揺れる。
(なにかわかるのか…)
相沢の視線にも気づかないほど、忠敬の視線はズレない。
「…被害者はそんな薄気味悪い鍵はいらないと所有権を放棄した。防犯上の証拠品としての処理もすべて終わり、明日、本庁の廃棄処分(溶解)に回される手筈だった」
相沢は、一歩間違えれば警察官としてのキャリアが完全に終わる”ゴミの無断持ち出し”という大罪を犯しながら、ぼそっと呟いた。
「あの面談の時、お前は『鍵は……』と言いかけて言葉を呑み込んだ。明らかに、あの鍵を気にしていた。……お前が気にかけていたから、手続きの書類の隙を突いて、処分用の箱から抜いてきた」
相沢が不器用に差し出したその瞬間。
彼の身につけている持ち物たちの小人たちがいつも通り何ひとつ隠すことなく話し始めた。
『兄ちゃん。ご主人、口では冷静に言ってるけど、さっき本庁の証拠品保管室で、他の署員の目を盗んで処分箱からこの鍵をポケットに入れた時、手がめちゃくちゃ震えてたんだから!』
警察手帳の小人がポケットから相沢を心配そうに見上げた。
『そうだよ! 警察官として絶対にやっちゃいけないことだって分かってるのに、あの日、鍵を見つめて泣きそうになってた君の顔が忘れられなくて、「あいつが欲しがってたなら、クビになってでも届けてやる」って、本気で覚悟を決めて持ってきたんだよ!』
『規律の塊みたいなこの人が、自分の人生を棒に振るかもしれないのに、法律を破って泥棒みたいな真似をしたんだよ! 君があの夜、今にも泣きそうな顔をしてたからって……ただそれだけの理由で、本気で覚悟を決めて持ってきたんだよ!』
次々に告げられる相沢の”本心”。相沢の持ち物すべての小人たちが忠敬へ届けようと必死に叫ぶ。
人間の心配なんて、どうせ上辺だけだろ。そう冷めきったはずの忠敬の胸に、嘘をつけないモノたちの叫びが、また圧倒的な熱量で畳みかけてくる。
(……クビを覚悟で、手が震えるほど不安なのに、俺のために……?)
ここ数日の出来事にヒビが入っていた忠敬の人間不信の壁が、みしりと激しい音を立てて、根底から大きく拉げた。
「……相沢さん。あなた……ほんとうに、…おせっかいな、人ですね」
忠敬の喉の奥から漏れたのは、いつものぶっきらぼうな拒絶。だが、その手は相沢の差し出したティッシュの包みを、壊れ物を扱うようにそっと、確かに受け取っていた。
相沢はキャップの庇を指で上げ、少しだけ安心したように息を吐く。
「……ああ。お前が持っててくれ」そう言って、相沢は足早に雑踏の中へと消えていった。
閉店後のバックヤード。
クロノは”らしくない””調子悪いのか”という先輩たちの声に適当に返事をしながら考え込んでいた。
自分のために一線を越えてくれたあの不器用な警察官の顔。相沢さんの”持ち物”からの必死の訴え。
(相沢さん……本当にお節介が過ぎる)
心の中でそう毒づいた言葉の温度は、もう、いつもの冷たい拒絶とは完全に違う、確かな熱を帯びていた。
忠敬の頑なな心の壁は、媒介となった小人たちの声によって、少しずつ、だが確実にヒビが広がり始めていた。




