第32話:『確率の裏側』
「――現行犯、凶器の押収、被害届の受理。事件としてはこれで検察に送れる。実に見事なスピード解決だな、相沢」
警察署内。
直属の上司である警部補―――御園生は、提出されたホストクラブ襲撃事件の最終報告書に目を通し終わり、静かに目線を上げた。
だが、デスクの前に直立する相沢は、渋い顔のまま微動だにしない。
「……御園生さん。書類上はこれで終わりですが、現場に立ち会った者として、どうしても割り切れない疑問が残ります」
「潜木忠敬のことか」
名前が出た瞬間、警部補のペンを持つ手がわずかに止まった。
相沢は一歩踏み出し、声を低くして訴えかける。
「そうです。あのパニックの最中、彼は他の誰も気づかなかったソファの陰の鍵を、数回辺りを見渡してコンマ数秒の迷いもなくピンポイントで見つけ出しました。まるで、最初からそこに鍵が転がっているのを、すべて"知っていた"かのように」
相沢はさらに言葉を重ねた。
「……御園生さん、組織として現行犯逮捕で幕を引くのが正しいのは分かっています。ですが、あの青年の周りでは、いつも起きるはずのない不自然な偶然が重なりすぎる。これまで俺たちが関わってきたヤマでもそうです。偶然が三度続けば、それはもう偶然じゃない」
御園生は深く椅子にもたれかかり、天井を仰いで息を吐いた。
その目は、組織を裏で回す冷徹な警部補のそれでありながら、同時に、相沢がどれほどあの青年に個人的な感情を擦り減らし、すがるような目で危惧しているかを見抜いている大人の目でもあった。
「相沢。お前の"刑事としての嗅覚"は否定せん。だがな、組織ってのは証拠で動く生き物だ。新米ホストの"勘が鋭かった"というだけの理由で、令状もなしに身辺を洗えるほど、警察のルールは甘くない。これ以上突っ込めば、お前自身のキャリアに傷がつくぞ」
組織人としての、重く冷たい釘の刺し方だった。
相沢は悔しげに奥歯を噛み締める。
しかし、御園生はデスクに置かれた報告書をそっと引き出しへと仕舞いながら、ふっと声音のトーンを落とした。
「……だが。一人の大人として言わせてもらうなら、あの青年が放つ歪な違和感は、確かに看過できん。お前がそこまで言うなら、何か見落としてるな。致命的な"何か"をあの兄ちゃん自身が抱え込んでいるんだろう」
御園生は立ち上がり、相沢の肩をポンと叩いた。
「これより先は、警察官としての仕事じゃない。お前自身の"個人的なお節介"だ。非公式で構わん、一度その青年とサシで腹を割って話してこい。ただし、取調室は使うなよ。……取調室の冷たい机越しじゃ、お前のその張り裂けそうな心臓の音は、あの頑ななガキには届かんからな」
「……、感謝します」
相沢は深く頭を下げ、御園生の部屋を後にした。
*
後日。簡単な追加書類の確認という名目で警察署に呼ばれた忠敬は、全ての手続きが終わった後、勤務時間外の私服姿の相沢に呼び止められた。
「潜木、ちょっと付き合え」
促されたのは、誰も来ない警察署の薄暗い非常階段の踊り場だった。
鉄の扉が閉まり、ひんやりとした静寂が二人を包む。
忠敬はいつも通り、いや、どこか違った。
いつも以上に感情を完全に排した無表情のまま、左手首を強く握った。
そこには、スマートウォッチが巻かれていた。画面は動き、通電はしている。
だが、かつて自分を命懸けで守ってくれた小人としての『クロノ』はもうそこにはいない。今のそれは、話しかけても「よくわかりません」と無機質な定型文を返すだけの、普通の時計以下の”ただの抜け殻”だ。だからこそ、忠敬は『クロノ』としての冷徹な仮面を強く意識させ、相沢への防壁を張る。
それを目にして、相沢は一瞬足を止め掛け、だが強く忠敬を見返した。
相沢はポケットに手を突っ込んだまま、警察官としての威圧感を少しだけ和らげて、静かに切り出してきた。
「ここは取調室じゃない。ただの、お節介な大人としての質問だ」
「……あの夜、お前は誰も気づかなかったソファの陰の鍵をすぐに見つけた。そして、拾い上げながら『ウチにこい』と呟いた。……潜木、お前には一体、何が見えてるんだ?」
忠敬はさらに左手首を強く握る。
鬱血しそうなほどに握りしめられた手とは裏腹に、普通を演じるために必死に積み上げてきたものは裏切らなかった。
忠敬は相沢を見返し、一切の揺らぎのない冷徹な嘘を吐いた。
「……偶然です。バッグの中身が散乱した際、鍵が落ちた音が聞こえた気がしたから、”つい”探しただけです。鍵は…。いえ、そんな独り言、言っていません。相沢さんの聞き間違いですよ」
嘘に本当のことを混ぜることで忠敬は必死に誤魔化す。
だが。忠敬が死に物狂いで防衛線を張っているまさにその瞬間。相沢の身につけている持ち物たちの小人たちが、目の前の『見える兄ちゃん』へいつも通りオープンに何ひとつ隠すことなく話し始めた。
『あ、ご主人…。君のついた嘘にすっごく傷ついて、悲しそうな顔をしてるよ!』
相沢の手首で時を刻む古い私物の腕時計の小人が、忠敬に向かって大声で告げる。
さらに、相沢のポケットにある警察手帳の小人も続く。
『手帳の裏のポケット、君のこれまでの事件の記録と一緒に、ボロボロになった形見のペンが入ってるの!「あんな後悔はもう二度としない、潜木だけは絶対に自分の命に代えても守る」って、毎朝手帳を開くたびにそのペンに触って、心の中で誓ってるんだよ!』
『嘘じゃない! ご主人の心臓、君がまた何かヤバいことに巻き込まれて消えちゃうんじゃないかって、怖くて苦しくて、さっきからバクバク響いてるんだから!!』
衣服のボタン、靴、時計、すべての小人たちが、主人の心を分かってもらいたくて、相沢の”剥き出しの真心と深い心配”を忠敬へ届けようと必死に叫ぶ。
目の前の相沢は、自分の嘘を暴ようと鋭い目を向けている。
なのに、世界で一番嘘をつかないモノたちは、この人間の心配がどれほど本物かを容赦なく告発し続けていた。あまりの情報量と感情の重さが、忠敬の頑なな心の壁を激しく叩いてくる。忠敬の胸で激しい嵐が吹き荒れた。
「……相沢さん、お節介が過ぎます」
忠敬の喉の奥から、絞り出すように漏れたのは、いつも通りのぶっきらぼうな拒絶。だが、その唇はわずかに震えていた。感情を排していたはずの瞳の奥で、激しいジレンマが拉げているのを、相沢は見逃さなかった。
「……そうか」
相沢はそれ以上追及せず、ただ、忠敬の背中を静かに見送った。
核心は何も話さなかった。だが、警察署を出て歌舞伎町の喧騒に紛れても、忠敬の胸には、小人たちが残した”相沢の真心”が、トゲのように深く刺さって抜けない。
色あせたハンカチの小人が、静かにポケットから這い出て、忠敬を見上げた。
『忠敬』
無口な小人は、それ以外なにも言わずに忠敬に寄り添った。
そして相沢もまた、忠敬のあの”一瞬見せた、激しい動揺”の瞳によって、確信を深めていた。
潜木忠敬は、確実に何かを隠している。
正式な証拠としては掴めない。だが、彼は確実に、自ら傷を負いながら何かを抱え込んでいる――。
2人の間に、前とは全く違う質の”深い疑惑”と”心の揺らぎ”が重く上書きされた。




