第31話:『100%のマグマ』後編
あの薄暗いビルの隙間から向けられていた怨念のマグマ。それは一過性の幻ではなかった。
次の営業日。
店内の空気は、レン指名で通ってくれているあの”目が据わった姫”の来店によって、目に見えない歪みを帯びていた。
レンはいつも通り完璧な“優しいNo.1”の仮面を被り、その姫を甘やかすように接客している。だが、足元の伝票小人やグラスの小人たちは、芯から怯えきった声でガタガタと震えながらひそひそと会話を交わし始めた。
『あ、あのビルの隙間にいた視線だよ……!』
『あの夜の煮えたぎった視線、やっぱりこの姫の怨念だったんだ……!』
『見て、バッグの中でみんな泣いてる!』
近くを通りがかった忠敬がいつも以上にスン……とした無表情になり、嫌々ながら視線を姫のバッグへと向けた。すると、そのクロコダイルの革バッグの中で手鏡小人が、主人の狂気に当てられて、涙目でひそひそ話を他の小人たちと交わし合っていた。
『主人の手、ポケットの奥のナイフをずっと握りしめてるよ……!』
『「今からレンを刺す!」「私だけのものにする!」って、昨日ずっと言ってた』
『ずっと小声でカウントダウンしてる!』
姫の”ガチ”の殺意。勘違いかと疑う隙すら与えない、百パーセントのマグマがそこには重く淀んでいた。小人たちの怯えに満ちたひそひそ話が嫌でも忠敬の鼓膜を容赦なく震わせ、忠敬の脳内を様々なことが駆け巡った。
「クロノさん、少々いいですか」
ふいに聞こえた冷静な声が、忠敬のごちゃごちゃとした思考を止めた。
黒服――店長補佐の桐谷だった。
常に寝不足顔で店全体を裏で回している彼は、いつも以上に硬直してスン……としている忠敬の異変を見逃さなかった。忠敬は桐谷に促され、共に一度バックヤードへ下がることになった。
(……本当に刺されるかもしれない。今、この店内で。桐谷さんに言うべきか?だが――どう言えばいい?ここで「あの姫がバッグの中にナイフを隠し持ってカウントダウンしている」などと直接言えば、「なぜ分かった」と確実に怪しまれる。あの姫と共犯でも、何の関係もないのに)
バックヤードには田辺もいた。桐谷に促され、入ってきたクロノに驚きつつ仕事を続ける。だが気になるのかチラチラ視線を感じた。
緊張を誤魔化すように喉を潤した忠敬は、一度深く息を吐いた。
「……桐谷さん。レンさんの卓のあのお客様、今日はお酒のペースが異様に早いです。グラスを持つ指先も、さっきから不自然に強張っている」
それは、小人たちの口コミから逆算した、人間でも観察可能な「ギリギリの違和感」の提示だった。
「レンさんはいつも通り完璧に接客していますが、あのお客様の視線、レンさんが他の卓を振り返るたびに、恐ろしく冷めています。楽しんでいるというより、何かを……値踏みしているような目です。ヘルプに入っていて、少し空気が刺さるというか、嫌な予感がします。…ただの勘違いならいいのですが」
「……、」
桐谷の寝不足気味の目が、わずかに鋭さを増した。
歌舞伎町の修羅場を裏で回してきた黒服だ。これまであらゆるトラブルを回避してきたクロノの”嫌な予感”という一言だけで、そこに潜むナニカを敏感に察知したらしい。壁際で仕事をしていた田辺も、その言葉にピクリと手を止め、深刻な顔で桐谷と視線を交わした。
「分かりました。クロノさんはそのまま通常のヘルプに戻ってください。田辺、レンの卓のイン(入り)とアウト(下がり)のタイミングを少し変えます。それと、フロントと入り口の黒服にも、あの卓への目配りを増やせと伝えてください」
「了解です」
田辺がすぐに内線のインカムへと手を伸ばす。
忠敬の目論見通り、黒服たちのプロとしての警戒心に火がついた。
その後、営業中の店内は、目に見えて黒服たちの巡回密度が上がった。姫がバッグに手を伸ばそうとする絶妙なタイミングで、必ず別の黒服が「失礼します、おしぼりをお取替えします」と自然に割って入り、物理的に隙をなくしていく。
クロコダイルの革バッグの中で涙目だった小人たちも、お盆を持った黒服たちが周囲を固めるたびに、
『あ、また黒服の人が来た』
『手が出せない! 主人がイライラしてバッグから手を離したよ!』
と、安堵の声を漏らし始めた。
しかし、黒服たちが何度も姫のまわりをウロチョロと巡回し、細心の注意で手元をマークしていたその時だった。おしぼりを替えるために屈み込んだ黒服のプロの目が、わずかに開いたバッグの隙間から、ギラリと光るナイフの柄を直接視認した。
(――、刃物を持ってる!)
黒服は表情ひとつ変えずに卓を離れると、インカムでバックヤードの桐谷と田辺へ即座に報告を入れた。
「おい、本当に刃物だろうな?!もう一度確認!」
「確認、取れた!警察に連絡しろ!!」
バックヤードから緊張した怒号が飛び交い、田辺が猛烈な勢いで110番通報を入れる。店内の華やかなBGMの裏で、営業中のホストクラブから警察への緊急要請が極秘裏に完了した。
それから数分後、さすがにマークされていることに気づき、苛立ちを限界まで煮詰めた姫が、ついに諦めずバッグからナイフを引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。
ドンッ!!!と、店の重厚なガラス扉が激しく押し開けられた。
すでに通報を受け、店のすぐ近くまで急行していた警察官たちが、もの凄いスピードで店内に雪崩れ込んできたのだ。
「警察だ! 全員動くな!!」
先頭を切って飛び込んできたのは、大人の警察官――相沢だった。
「刃物を捨てなさい!」
相沢の鋭い怒号が響き渡り、ナイフを握りかけた姫の手首を容赦なく掴む。次の瞬間には、姫の身体は駆けつけた複数の警察官たちの手によって一瞬で床に取り押さえられた。
「あ……え……?」
状況が理解できず、完璧な笑顔の仮面を失って呆然と立ち尽くすレン。
アオやユウたちも「嘘だろ……刃物……?」と腰を抜かしている。
現行犯逮捕の迅速な対応。
だがその修羅場の最中、床に押さえつけられた姫のバッグの中身が散乱した。投げ出された口紅や手鏡の小人たちが、忠敬の足元でパニックになって悲鳴をあげた。
『痛い! 踏まれる、危ない!』
『この主人、レンの部屋の合鍵を勝手に作って持ってる!管理人さんから盗んだんだよ!』
『捨てられる!!!』
『手帳の裏にも、レンの部屋の間取り図と、隠し撮りした写真がびっしり貼ってある! 早くこれ剥ぎ取ってーーー!!』
あまりの至近距離で明かされる、一線を越えた狂気の証拠。
その内容に動揺した忠敬はつい視線をさまよわせて探してしまった。
騒動の端、ソファの陰にそれは”いた”。
『お兄ちゃん……。捨てられちゃう。置いていかれる……』
鍵の小人はしゃがみ込んで泣いていた。
自分が歪んだ狂気で作られているから。姫の手元から去っても、レンは”持ち主”になってくれないだろうことを悟って。
人間に都合よく作られ、狂わされ、用が済んだら廃棄される。
高校の頃、寿命を迎えて壊れていく消耗品たちを前に、何もできずにただ擦り切れていたあの無力感が、最悪な形で脳裏をよぎる。
(あぁ、まただ。……誰もこの子の声を聞けない。誰も、救おうとしないなら――)
忠敬は自分の足元で泣き続ける小人を拾い上げながら、つい、うっかり口に出して言ってしまった。
「……うるさい。レンがいらないならウチにこい」
そして小人と同時に目を見開いた。
(あ、やってしまった――)
忠敬が内心で冷や汗をかいて、辺りを伺った瞬間。
犯人を押さえ、息を荒くしていた相沢の視線と忠敬の目がまっすぐにぶち当たった。
距離があったはずなのに、なぜか相沢の耳には忠敬の呟きがはっきりと届いていた。
その目は、警察官としての、これ以上ないほどの深い”疑惑”と”疑問”を孕んだ、冷徹な眼光だった。
この大騒動の最中、この青年はなぜ誰も気づかなかった鍵に気づき、まるでそこに”誰かがいて、怯えているのを知っている”かのような言葉をかけたのか。これまでの事件の時もそうだ。いつもこの青年の周りだけ、不可解な違和感が付きまとっている。
(……潜木)
相沢の低く、鋭い声が忠敬の鼓膜を打った気がして。
ヒュッ。忠敬は勢いよく息を吸った。
そして跳ね回る心臓を抑え、相沢の視線を拒絶した。
背中越しに、尚も鋭い視線を感じながら忠敬は別の警察官へ鍵を渡した。
これでまた一つ、あの警察官に言い訳の立たない決定的な”疑惑”を上書きしてしまった。
最悪の気分だった。




