第31話:『80%の足音』前編
営業前。狭いバックヤードの隅で、レンがいつもの穏やかで隙のない笑顔の裏で、人知れず胃を押さえて薬を飲んでいた。
あの日、クロノに冷たく言い放たれた言葉が、どうしても脳裏から離れない。
――レンさん。その自分を削って相手を狂わせるやり方、本当にいつか夜道で刺されますよ。やめてください。店のNo.1が刺されて死亡とか、ニュースになったら目覚めが悪いんで。大迷惑です。
現実味を帯びたあの死んだ魚の目の警告。
単なる生意気な新人の口答え、そう思って笑い飛ばしたかった。
だが、笑えなかった。
脳裏に浮かぶのは、ここ最近、指名で通ってくれているある特定の姫の顔。表向きは他の姫と同じように、レンの言葉に頬を染めて微笑んでいる。だが、ふとした瞬間――レンが別のテーブルの接客に回った時や、シャンパンコールで店全体が盛り上がっている喧騒の最中、その姫の"目"だけが完全に据わっているとクロノの言葉を気にしているうちに気づいてしまった。
(あの時、クロノは……もしかして、あの姫のことを言って……?)
楽しんでいるのではない。ただただ異様な執念を孕んだ双眸で、レンの挙動を、一挙手一投足を、じっと監視するように凝視している姫。これまでは"よくある可愛い執着"として処理してきた。
自分を削り、完璧なホストという理想の仮面を被って、女の子を安心させるのが自分の仕事だと信じて無自覚に沼を作ってきた。だが、クロノにああも明確に「刺される」と予言された瞬間、レンの中で全ての点と線が繋がってしまった。レンの胸の中にじわじわと本物の不安が広がり始める。
喉の奥がカラカラに乾くような、嫌な予知が頭をよぎる。完璧な笑顔を作ろうとしても、口元がわずかに強張る。No.1としてのプライドが”気にするな”と叫ぶ一方で、生存本能が”危ない”と警鐘を鳴らしていた。
そんな主人の足元で、ジャケットのポケットに突っ込まれたレンのジッポライターの小人が、すぐ近くにいたレンの腕時計の小人に向かって、ひそひそと会話を交わす。
『この主人、いつもは姫の表情気にしてるのに、なんか今日は店内の"逃げ道"とか"非常口"の位置をチラチラ確認してる!』
『そうそう! 営業中のタイムスケジュールを確認するフリして、本当は『もしあの子が暴れたら、どのルートで逃げれば一番安全か』って、脳内で必死に避難シミュレーションを繰り返してるよね! 心臓の音がさっきからバクバク響いてきて、時計の針が狂いそうだよー!』
完璧な“優しいNo.1”の仮面の下で、レンがどれほど必死に平静を装い、どれほどパニック寸前の恐怖と戦っているか。小人たちは容赦なくその防衛線を剥ぎ取っていく。
すべてを聞かされている忠敬は、ヘルプに入った卓の不穏な小人たちの会話に内心眉根を寄せた。
*
営業終了後。深夜の大通りから一つ外れた道。アオやカイたちホスト数人と、レン、ユウ、そして忠敬――源氏名“クロノ”は、並んで家路についていた。
いつもより落ち着きのないレンを気にしながら忠敬は歩いていたが、道端にある看板小人や植木鉢小人たちが、怯えた声で騒ぎ始めたのをその耳が捉えた。
『待って、あそこの電柱の影に誰かいる!』
『黒い服の人が、手に何か”金属の尖ったもの”を隠し持ってるよ!』
『ギラギラしてる! 危ない! レンが狙われてる?!』
小人たちの生々しいリアルな悲鳴が忠敬の耳に飛び込んでくる。その瞬間、忠敬の無表情にみしりとヒビが入った。ほんの一瞬、忠敬の身体が強張り、視線が電柱の影へと鋭く向く。さらに、無意識にレンの少し後ろを歩き、背後を警戒するような不自然な位置どりをとってしまった。
「……? おい、クロノ。どうした?」
アオがその様子を見逃さず、怪訝そうに眉をひそめた。
いつもなら周囲に一切の興味を示さず、誰よりも早く帰宅することしか考えていないクロノが、明らかに何かに警戒してピリついている。カイも「あれ……?」と首を傾げ、クロノの視線の先へと目を向けた。
(しまった、動揺が表に出た……。犯人に気づかれるか?だが、本当にここで刺されたらどうする。シフトに穴が空くし、目の前で事件なんて寝覚めが悪い)
心の中で必死に自己防衛の言い訳を並べ立て、なんとか無表情を取り繕おうとする。
その時、電柱の影から黒い服の人物が”すっ……”と飛び出し、レンの前に立ちはだかった。
小人たちが『来る! 尖ったものを持ってる!』と叫び、忠敬の足が反射的に一歩前に出そうになった、その刹那。
「――レンくん、お疲れ様。これ、前に欲しいなって言ってたよね」
差し出されたのは、丁寧にラッピングされた箱だった。その上に飾られた、きらびやかで鋭く尖った金属製の特製リボンチャームが、街灯の光を反射してギラリと怪しく光っていただけだった。
「あ……ありがとう。わざわざ待っててくれたんだね」
レンは一瞬の硬直の後、すぐにいつもの完璧な“優しいNo.1”の笑顔を浮かべてプレゼントを受け取った。張り詰めていた空気が一気に弛緩する。アオやカイたちも、ホッと肩の力を抜いて笑いあった。
「な、なんだよ、ただの熱心な出待ちの姫かよ。クロノが妙に殺気立ってるから、こっちまでビビっちまったじゃねえか」
「だな。驚かせやがって。さあ、今度こそ帰るぞ」
ユウも「びっくりしましたね」と笑い、全員が完全に油断して歩き出そうとした。
――だが、忠敬だけは動けなかった。
その道端にある、錆びついた古いガードレールや自動販売機の小人たちが、先ほどとは明らかに質の違う、芯から凍りつくような怯えきった声で、ボソボソと呟くのが耳に届いたからだ。
『……違う。あの人じゃない』
『さっきからずっと、もっと奥の、あのビルの隙間の暗がりから……』
『息を殺して、誰かがレンを見てる』
『なんかすごいドロドロした怨念のマグマが、すぐそこまで来てるよ……』
小人たちはこわごわと真っ暗な暗闇を見つめて離さない。
その言葉の重みに、姿に、忠敬の背筋に嫌な汗が伝う。
見たくない。けど、確認しなければ。
ゆっくりと、誰も見ていない、さらに奥まった視線の先の”暗がり”へ、忠敬は静かに目を向けた。
街灯の光が一切届かない、深いビルとビルの隙間の闇。
そこから、じっと息を殺し、異様なまでの執念を孕んだ双眸で、レンの後ろ姿をじっと凝視し続けている”誰か”の煮詰まった視線が、確かにあった――。
「どうした?」
姫はいつの間にか居なくなっていて、レンが心底ほっとした顔でクロノをみた。その顔を見て、忠敬は自然なそぶりで目をそらす。
「いえ。猫かと思ったらビニール袋でした」
ホスト達に頭をド突かれながら、忠敬はその日家路についた。
次の角を曲がるその瞬間まで、ねっとりとした視線がレンを追いかけ続けていることを確認しながら。




