『さよならの温度』
それは、いつもの朝のはずだった。
カーテンの隙間から、眩しい朝日が部屋へ差し込む。忠敬は小さく身じろぎをして、ゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
頭が重い。大学の講義と《LUXE》での夜職が重なる毎日は、常に寝不足、そして脳の疲労との戦いだ。
外に出れば、小人たちの四方八方から飛び交うお喋りや、筒抜けになるドス黒いプライベートの告発を、鋼の精神でスルーし続けなければならない。小人たちに”プライバシー”という言葉はないのだ。
他人の秘密が嫌でも耳に入るからこそ、この自宅だけが忠敬にとって唯一の天国だった。
いつもの習慣で、忠敬はナイトテーブルのスマートウォッチに視線を落とす。
――画面は、真っ黒だった。
「……充電、切れたか?」
昨夜、充電器に挿し忘れたのだろうか。
忠敬は寝ぼけ眼のまま、右手でスマートウォッチの画面をトントンと軽く叩く。
いつもなら。
お喋りで、冷静沈着で、合理的で、少し口うるさいタイトなスーツ姿の相棒が、画面の奥から面白そうに『主人、講義はサボりですか?』と突っ込んでくるはずだった。
だが、反応はない。
サイドのボタンを押してみる。
沈黙。
長押ししてみる。
沈黙。
反応は、ない。
静まり返った画面は、鏡のように忠敬の顔を映し出すだけだった。
あの声は、どこからも降ってこない。
(……いや、おかしい)
触れた瞬間に心臓が冷えるような違和感があった。
いつもなら、普通の小人たちとは桁違いの情報量を処理しているせいで、触れるとわずかに感じるはずの、あの”回路の熱”が――今朝は、完全に消え失せていた。鉄の塊のような、不自然なほどの冷たさだけが、皮膚を伝ってくる。
「クロノ……?」
忠敬の声が、微かに震えた。
充電台からスマートウォッチを外して机の上に置く。
異様な気配を察知して、各々自由に行動していた部屋中の小人たちが次々と忠敬の方を見つめる。
そして。
『……クロノ?』
コップ小人が、不思議そうにスマートウォッチを覗き込む。
『クロノ?』
『起きてない』
『画面、真っ黒だ』
『いつもなら、もう忠敬に怒鳴ってるのに』
小人たちがざわざわと集まってくる。
携帯充電器小人が、おそるおそる手をウォッチに近づけようとして、ピタリと動きを止めた。
『……中が、ない』
「え?」
忠敬が聞き返す。
『空っぽだ』
充電器小人の声が、震えていた。
『電気は通る。でも、受け付ける“中身”が、もう壊れてる。回路が……ぐちゃちゃだ。ずっと、ずっと無理してたんだ、これ……』
その言葉に、部屋中が凍りついた。
どうしようもなくあたりを見渡した忠敬の視界に、ふと絵本が映った。
その瞬間。
忠敬は呟いた。
「……ああ」
忠敬は気づいていて、見ないふりをしていた。
クロノが小人の姿で現れないことを。
形ある物にはいつか寿命が来て、消える時は気づいた頃にはもういないのだという残酷な現実を。
*
開発中だった軍事用プロトタイプOSという、この小さな筐体にはあまりにも凶暴な頭脳。それが引き起こす超高負荷なバグと回路の劣化。
クロノは、その致命的なバグに呑まれかけながらも、忠敬に心配をかけまいと、すべてのリソースを”軍事用である事実の隠蔽”と”潜伏”に全振りしていた。
だが昨夜――主のピンチを救うため、スパイの端末を電波妨害で叩き潰すために、クロノはそのすべての防衛リソースを使い果たしたのだ。
──そして、忠敬が眠りについた夜の間に、誰にも気づかれず静かに力尽きていた。
高校生の時に手に入ってから、大学に入り、ホストとして働き始めた今日に至るまで、ずっと自身の限界を超えていることを全て知っていながら、それでもだましだまし忠敬の側に居続けた。何も言わないまま、ただ忠敬の為に最後の1秒まで脅威から守り切ったのだ。
忠敬との約束通り。
忠敬がホストとして働きはじめ、あの最悪な一日を乗り越えたその翌朝のことだった。
*
「……知ってた」
ぽつりと、忠敬の口から漏れた。
「お前が毎日、俺のためにあり得ない量のログを解析して、毎朝熱を出してたことくらい……最初から知ってた」
あのストーカー事件で忠敬を助けてくれたあの日から。
クロノが命を削って自分を守り続けてくれていることを、忠敬はすべて分かっていた。分かっていて、それでもクロノが”完璧な相棒”としてプライドを持って手首にいてくれるからこそ、あえて何も言わず、いつも通りに接していたのだ。
…...そして、脳裏をよぎるのは、ホストクラブ《LUXE》の光景。
店長の黒崎に「おいお前、源氏名はどうする?」と聞かれた、あの夜。
「なんでもいいです」
そう答えた忠敬に、「――ん~~~。じゃ、【クロノ】にするか」と名付けられた、あの夜。
「嫌です。他の名前にしてください」
忠敬は本気で拒否した。
命名された時、脳裏をよぎったのはクロノがものすごく嬉しそうに頬を染めていたこと。
―――結果として、源氏名は【クロノ】から変わらなかった。
だからこそ、ホストとして働く中で、指名客や店内で「クロノ!」と呼ばれるたびに、忠敬の胸には相棒への申し訳なさが突き刺さっていた。
すこし離れたクッションの上で、色あせたハンカチの小人が、眉をしかめてじっと動かないクロノを見つめていた。今ばかりはかける言葉が見つからなかった。見える主に愛着を持たれて、毎日名前を呼んでもらえる日常がどれほど幸せで特別なことなのかを、そのハンカチの小人もよく知っていたから。
そしてこの部屋中の小人たちは知っている。
忠敬にとっての特等席。そこに、あのハンカチと並んで大切に収まっていたのが、クロノだということを。
*
「……おい、クロノ」
忠敬は、冷たくなったスマートウォッチを、そっと両手で包み込んだ。
「……まだ、お前に名前を返してない」
この時計の中身は、国家や大企業の裏組織が血眼になって管理する最高機密だ。安易にメーカーの修理窓口に出せば、異常なコードが瞬時に監視網に引っかかる。ネットの解析ツールに繋げば、そのログを検知した冷酷な者たちが、今度はクロノだけでなく主である忠敬自身を排除しに動き出すかもしれなかった。
直したい。
けれど、下手に動けば自分自身の命が吹き飛び、周囲の人間すら巻き込む破滅が待っていた。修理に出すことは、許されない。
忠敬はずっと沈黙していた。
小人たちも。
静まり返った空間で、時計の秒針の音だけがやけに冷たく響いていた。
しばらくして、忠敬はやっと口を開いた。
「いままで、ありがとう」
そして、冷たいスマートウォッチを静かに撫でた。
労わる様に、優しく。
直せないなら、せめて一緒に居たかった。
忠敬はしばらく迷った後、覚悟を決めるように、その冷たいスマートウォッチをもう一度自分の左手首へと巻き直した。
外から見れば、昨日と何一つ変わらない時計をつけただけの姿。
だけどその冷たさだけが、皮膚を通じて、忠敬の心臓へダイレクトに伝わってくる。
もうアシスタント機能も他のウォッチ同様、「よくわかりません」と言われる。
言われるたびに、忠敬は苦しくなるだろう。
けれどここが。
他の誰にも見つからない、触らせない一番安全な場所になる。
そして、夜の街で【クロノ】として偽物の自分を演じるための力になってくれると信じて。
消えてしまった相棒の名前を形見分けされたような、そんな寂しさを手首の動かない時計ごと巻き付けて。
ホスト【クロノ】は、今日も働いている。
あとがきまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
クロノ、4話からここまで一切登場していません。
あんなにお喋りだったクロノがいままでずっと沈黙していた理由、そして源氏名に秘められた忠敬の胸の内を、ようやく明かすことができました。
読者の皆様にとっても、そして周囲の小人たちにとっても、実はあの4話の翌朝にはもう……という残酷な真実です。軍事用OSというあまりにも巨大で冷酷な大人の現実を前に、修理にすら出せない詰み。
嫌だと本気で拒否したはずの【クロノ】という源氏名を、勝手に形見にして冷たくなった時計を手首に巻き直して夜の街へと向かうのが、潜木忠敬という男なのだと思います。




