第29話②『相談が負けた日』
営業終了後。
恭子はクロノこと潜木忠敬と並んで歩いていた。
今日はアフターだった。
ただし遊びではない。
ちゃんと理由がある。
クロノに相談したかった。
息子のこと。
出張のこと。
今後のこと。
店では一切プライベートを見せなかった恭子にとって、そういう話は店ではしにくかった。
だから家でゆっくり話そうと思った。
根が真面目な恭子は、ちゃんと順番まで考えている。
まず息子と会わせる。
相性を見る。
それから相談する。
最後にクロノを帰す。
完璧だった。
少なくとも、この時までは。
*
自宅までの帰り道。
一人ではないことに少しだけ違和感を覚えながら、恭子は隣を歩くクロノを見る。
「ごめんね。本当は店で済ませたかったんだけど」
「別に」
「ちゃんと相談したくて」
「そうですか」
いつものクロノだった。
その反応に少し安心して、恭子はふと思い出す。
「あ、クロノくん」
「はい」
「家に着いたらなんだけど」
「はい」
「姫はやめてほしいの」
クロノが恭子を見る。
恭子は少しだけ苦笑した。
「その……恭子さんでお願いできる?」
「……」
「息子の前で姫はちょっと」
言葉を濁す。
クロノは小さく頷いた。
「わかりました。恭子さん」
その呼ばれ方は、なぜか少しだけ照れ臭かった。
やがてマンションへ着く。
玄関を開ける。
「ただいま」
リビングから息子が顔を出した。
「おかえり」
「紹介するね」
恭子は笑った。
「クロノくん」
「こんばんは」
クロノが頭を下げる。
息子も頭を下げた。
「こんばんは」
うん。
大丈夫そうだった。
恭子は少し安心する。
その時だった。
キャットタワーの上から視線を感じた。
猫だった。
長毛種。
恭子以外にはあまり懐かない。
息子にも気分次第。
初対面の人間など論外だった。
猫はクロノを見る。
クロノも猫を見る。
数秒。
「綺麗な猫ですね」
「ありがとう」
恭子は笑った。
猫は無反応だった。
いつも通りだった。
だから安心した。
数十分後に、その安心が粉々になるとも知らずに。
「あ、ごめん」
時計を見た恭子が立ち上がる。
「少しだけ出てくる」
「はい」
「すぐ戻るから」
息子が頷く。
「いってらっしゃい」
玄関が閉まる。
静かになる。
リビングにはクロノと息子。
そして猫。
息子は宿題を広げた。
クロノは何となく座る。
猫はキャットタワーの上から二人を見ていた。
数分。
また数分。
やがて。
猫が立ち上がった。
息子は何となく目で追う。
猫はゆっくり降りてくる。
とことこと歩く。
クロノの前で止まる。
見上げる。
クロノも見下ろす。
「どうした」
「にゃ」
一歩前。
「にゃ」
さらに一歩。
そして。
すり。
息子の思考が止まった。
猫がクロノの足へ身体を擦り付ける。
もう一度。
さらにもう一度。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
喉を鳴らす。
息子は立ち上がった。
「え?」
猫は止まらない。
完全に懐いていた。
キャットタワー小人が固まる。
『え』
猫じゃらし小人も固まる。
『え』
ブラシ小人も固まる。
『え』
少し沈黙。
『落ちた』
『落ちたな』
『早い』
『早いな』
『過去最速』
『過去最速だ』
『三分』
『三分だな』
息子は猫を見る。
クロノを見る。
また猫を見る。
「なんで?」
「さあ」
「いや分かんないの?」
「分からない」
猫はもうクロノの膝の上だった。
丸くなる。
目を閉じる。
寝る気満々だった。
息子は頭を抱えた。
意味が分からなかった。
しばらくして。
恭子が帰ってくる。
「ただいまー」
そして固まった。
「……何これ」
「ずっと」
息子が即答する。
「ずっと?」
「ずっと」
「離れないの?」
「離れない」
恭子は猫を見る。
クロノを見る。
また猫を見る。
「嘘でしょ」
「そう思う」
息子も頷いた。
恭子は天井を見た。
何が起きているのか分からない。
だが。
今日は相談だ。
本題を忘れてはいけない。
恭子は座った。
クロノも座る。
猫もクロノの膝へ座る。
「実はね」
「はい」
「出張が決まって」
「はい」
「それで息子のことなんだけど――」
猫がクロノの腕へ頭を押し付けた。
ぐい。
ぐい。
恭子が止まる。
息子も見る。
クロノだけ恭子の話の続きを待っていた。
「……それで」
仕切り直す。
「その間どうしようかと思って」
「はい」
「実家に頼むか」
「はい」
「それとも――」
猫が膝へ飛び乗った。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
恭子の視線が吸われる。
息子の視線も吸われる。
クロノの視線は吸われなかった。
真面目に恭子の話の続きを待っていた。
恭子は深呼吸した。
大丈夫。
まだいける。
「学校とか生活とか」
「はい」
「食事とか」
「はい」
「そういうことを――」
猫が今度はクロノの腕へ抱きついた。
恭子が黙る。
息子も黙る。
猫だけ幸せそうだった。
「……」
「……」
「?」
よく話が途中で途切れることにクロノだけ困惑した。
恭子は額を押さえた。
何で。
何でこうなる。
しかも相談相手は真面目に聞いている。
だから余計に困る。
息子は途中から笑い始めていた。
「ごめん」
「何で笑うの」
「だって」
息子は猫を指差した。
猫は完全にクロノへ貼り付いていた。
恭子は天井を見る。
計画が崩れていく音が聞こえた。
それでも相談を続けた。
たぶん。
半分くらいは。
いや三分の一くらいかもしれない。
気付けば帰る時間だった。
「じゃあ」
クロノが立ち上がる。
「帰ります」
「うん」
恭子も立ち上がる。
その瞬間だった。
猫が飛んだ。
「え」
クロノの足へ抱きつく。
離れない。
「え?」
恭子が固まる。
息子も固まる。
猫は必死だった。
抱き上げる。
離れない。
剥がす。
戻る。
運ぶ。
戻る。
閉じ込める。
戻る。
「何で!?」
恭子が叫んだ。
猫は答えない。
液体だった。
一度や二度閉じ込めた程度では止まらない。
恭子が猫を別室へ運んだ。
扉を閉めた。
完璧だった。
なのに。
数十秒後。
リビングの向こうから猫が走ってきた。
「えっ」
息子が固まる。
「どうやって出たの?」
「知らない」
恭子も知らない。
キャットタワー小人たちはざわついていた。
『抜けた』
『抜けたな』
『液体』
『液体だな』
『本気』
『本気だな』
『重い』
『重いな』
猫は本気だった。
息子は途中から笑っていた。
恭子は途中から頭を抱えていた。
クロノは困っていた。
猫だけが必死だった。
結局。
クロノが帰るまで三十分以上かかった。
ようやく玄関が閉まる。
静寂。
恭子と息子は顔を見合わせた。
少し沈黙。
「……」
「……」
先に口を開いたのは恭子だった。
「何の相談してたっけ」
息子は少し考えた。
真面目に考えた。
そして答えた。
「猫」
恭子も考えた。
真面目に考えた。
そして頷いた。
「猫だ」
キャットタワー小人たちが一斉に頷く。
『負けた』
『負けたな』
『相談』
『負けた』
『猫』
『勝った』
『勝ったな』
完全敗北だった。
ふと。
息子が窓際を見る。
「あ」
恭子も振り返る。
猫は窓辺に座っていた。
クロノが帰っていった方向を見ている。
呼んでも反応しない。
おもちゃにも反応しない。
しっぽも元気がない。
背中が妙に小さく見えた。
少し沈黙。
「……そんなに?」
恭子が呟く。
息子も頷いた。
「そんなにみたい」
猫は窓の外を見たまま、小さく鳴いた。
「にゃ……」
キャットタワー小人たちが頷く。
『重い』
『重いな』
恭子は猫を見た。
それから閉まった玄関を見る。
そしてぽつりと呟く。
「……クロノくん、猫に好かれるんだ」
その言葉に答える者はいなかった。




