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第29話②『相談が負けた日』


営業終了後。


恭子きょうこはクロノこと潜木忠敬と並んで歩いていた。


今日はアフターだった。


ただし遊びではない。

ちゃんと理由がある。


クロノに相談したかった。

息子のこと。

出張のこと。

今後のこと。


店では一切プライベートを見せなかった恭子にとって、そういう話は店ではしにくかった。


だから家でゆっくり話そうと思った。


根が真面目な恭子は、ちゃんと順番まで考えている。

まず息子と会わせる。

相性を見る。

それから相談する。

最後にクロノを帰す。


完璧だった。


少なくとも、この時までは。






自宅までの帰り道。


一人ではないことに少しだけ違和感を覚えながら、恭子は隣を歩くクロノを見る。


「ごめんね。本当は店で済ませたかったんだけど」

「別に」

「ちゃんと相談したくて」

「そうですか」


いつものクロノだった。


その反応に少し安心して、恭子はふと思い出す。

「あ、クロノくん」

「はい」

「家に着いたらなんだけど」

「はい」

「姫はやめてほしいの」


クロノが恭子を見る。


恭子は少しだけ苦笑した。

「その……恭子さんでお願いできる?」

「……」

「息子の前で姫はちょっと」


言葉を濁す。


クロノは小さく頷いた。

「わかりました。恭子さん」


その呼ばれ方は、なぜか少しだけ照れ臭かった。






やがてマンションへ着く。


玄関を開ける。

「ただいま」


リビングから息子が顔を出した。

「おかえり」


「紹介するね」

恭子は笑った。


「クロノくん」


「こんばんは」

クロノが頭を下げる。


息子も頭を下げた。

「こんばんは」


うん。


大丈夫そうだった。

恭子は少し安心する。


その時だった。

キャットタワーの上から視線を感じた。


猫だった。


長毛種。


恭子以外にはあまり懐かない。

息子にも気分次第。

初対面の人間など論外だった。


猫はクロノを見る。

クロノも猫を見る。


数秒。


「綺麗な猫ですね」


「ありがとう」

恭子は笑った。


猫は無反応だった。

いつも通りだった。


だから安心した。




数十分後に、その安心が粉々になるとも知らずに。





「あ、ごめん」

時計を見た恭子が立ち上がる。


「少しだけ出てくる」

「はい」

「すぐ戻るから」


息子が頷く。

「いってらっしゃい」


玄関が閉まる。


静かになる。


リビングにはクロノと息子。

そして猫。


息子は宿題を広げた。

クロノは何となく座る。

猫はキャットタワーの上から二人を見ていた。


数分。


また数分。


やがて。


猫が立ち上がった。

息子は何となく目で追う。


猫はゆっくり降りてくる。

とことこと歩く。


クロノの前で止まる。


見上げる。


クロノも見下ろす。


「どうした」

「にゃ」


一歩前。


「にゃ」


さらに一歩。


そして。


すり。


息子の思考が止まった。

猫がクロノの足へ身体を擦り付ける。


もう一度。

さらにもう一度。


ぐるぐる。

ぐるぐる。


喉を鳴らす。


息子は立ち上がった。

「え?」


猫は止まらない。

完全に懐いていた。


キャットタワー小人が固まる。

『え』


猫じゃらし小人も固まる。

『え』


ブラシ小人も固まる。

『え』


少し沈黙。


『落ちた』

『落ちたな』

『早い』

『早いな』

『過去最速』

『過去最速だ』

『三分』

『三分だな』


息子は猫を見る。

クロノを見る。

また猫を見る。


「なんで?」

「さあ」

「いや分かんないの?」

「分からない」


猫はもうクロノの膝の上だった。


丸くなる。

目を閉じる。

寝る気満々だった。


息子は頭を抱えた。

意味が分からなかった。


しばらくして。

恭子が帰ってくる。


「ただいまー」


そして固まった。

「……何これ」


「ずっと」

息子が即答する。


「ずっと?」

「ずっと」

「離れないの?」

「離れない」


恭子は猫を見る。

クロノを見る。

また猫を見る。


「嘘でしょ」


「そう思う」

息子も頷いた。


恭子は天井を見た。

何が起きているのか分からない。


だが。


今日は相談だ。

本題を忘れてはいけない。


恭子は座った。

クロノも座る。

猫もクロノの膝へ座る。


「実はね」

「はい」

「出張が決まって」

「はい」

「それで息子のことなんだけど――」


猫がクロノの腕へ頭を押し付けた。


ぐい。

ぐい。


恭子が止まる。

息子も見る。

クロノだけ恭子の話の続きを待っていた。


「……それで」


仕切り直す。


「その間どうしようかと思って」

「はい」

「実家に頼むか」

「はい」

「それとも――」


猫が膝へ飛び乗った。


ぐるぐる。

ぐるぐる。


恭子の視線が吸われる。

息子の視線も吸われる。


クロノの視線は吸われなかった。

真面目に恭子の話の続きを待っていた。


恭子は深呼吸した。


大丈夫。

まだいける。


「学校とか生活とか」

「はい」

「食事とか」

「はい」

「そういうことを――」


猫が今度はクロノの腕へ抱きついた。


恭子が黙る。

息子も黙る。


猫だけ幸せそうだった。


「……」

「……」

「?」


よく話が途中で途切れることにクロノだけ困惑した。


恭子は額を押さえた。


何で。

何でこうなる。


しかも相談相手は真面目に聞いている。


だから余計に困る。


息子は途中から笑い始めていた。


「ごめん」

「何で笑うの」


「だって」

息子は猫を指差した。


猫は完全にクロノへ貼り付いていた。


恭子は天井を見る。



計画が崩れていく音が聞こえた。




それでも相談を続けた。


たぶん。

半分くらいは。

いや三分の一くらいかもしれない。


気付けば帰る時間だった。


「じゃあ」

クロノが立ち上がる。


「帰ります」

「うん」


恭子も立ち上がる。


その瞬間だった。

猫が飛んだ。


「え」


クロノの足へ抱きつく。

離れない。


「え?」


恭子が固まる。

息子も固まる。


猫は必死だった。


抱き上げる。

離れない。


剥がす。

戻る。


運ぶ。

戻る。


閉じ込める。

戻る。


「何で!?」

恭子が叫んだ。


猫は答えない。


液体だった。

一度や二度閉じ込めた程度では止まらない。


恭子が猫を別室へ運んだ。

扉を閉めた。


完璧だった。


なのに。


数十秒後。

リビングの向こうから猫が走ってきた。


「えっ」


息子が固まる。

「どうやって出たの?」


「知らない」

恭子も知らない。


キャットタワー小人たちはざわついていた。


『抜けた』

『抜けたな』

『液体』

『液体だな』

『本気』

『本気だな』

『重い』

『重いな』


猫は本気だった。


息子は途中から笑っていた。

恭子は途中から頭を抱えていた。

クロノは困っていた。


猫だけが必死だった。


結局。

クロノが帰るまで三十分以上かかった。


ようやく玄関が閉まる。


静寂。


恭子と息子は顔を見合わせた。


少し沈黙。


「……」

「……」


先に口を開いたのは恭子だった。

「何の相談してたっけ」


息子は少し考えた。

真面目に考えた。


そして答えた。

「猫」


恭子も考えた。

真面目に考えた。


そして頷いた。

「猫だ」


キャットタワー小人たちが一斉に頷く。


『負けた』

『負けたな』

『相談』

『負けた』

『猫』

『勝った』

『勝ったな』


完全敗北だった。


ふと。


息子が窓際を見る。


「あ」


恭子も振り返る。


猫は窓辺に座っていた。

クロノが帰っていった方向を見ている。


呼んでも反応しない。

おもちゃにも反応しない。

しっぽも元気がない。


背中が妙に小さく見えた。



少し沈黙。




「……そんなに?」

恭子が呟く。


息子も頷いた。

「そんなにみたい」


猫は窓の外を見たまま、小さく鳴いた。

「にゃ……」


キャットタワー小人たちが頷く。


『重い』

『重いな』


恭子は猫を見た。


それから閉まった玄関を見る。


そしてぽつりと呟く。


「……クロノくん、猫に好かれるんだ」


その言葉に答える者はいなかった。


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