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第29話①:『初アフターと、ざわつく店』


「営業終わったあと、少し付き合ってくれない?」


ヘルプで入っていた卓から立ち上がろうとしたクロノこと潜木忠敬は、姫の言葉に足を止めた。


「嫌です」

即答だった。


姫が吹き出す。

「即答?」


「帰りたいので」

「三十分」

「嫌です」

「一時間」

「嫌です」

「お願い」

「嫌です」


「だから即答やめて」


忠敬は首を傾げた。

なぜ即答してはいけないのか分からない。


帰りたい。

理由は十分だった。


姫は困ったように笑う。


「クロノくんさぁ……」

「はい」

「本当に困ってるんだけど」


その言葉で忠敬は黙った。






相手を見る。

営業中の軽いノリではなく、冗談でもない。

本当に困っている顔だった。




数秒。


やがて忠敬は観念したようにため息を吐く。

「……三十分だけですよ」


姫の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとう!」


「三十分です」

「分かってる」

「本当に」

「分かってるって」





そのやり取りを見ていた姫が、隣の卓で思わず顔を上げた。

「あれ?」


さらに別の卓。

「今の……」


少し離れた場所でも視線が集まる。



クロノがアフターを受けた。

たったそれだけ。


だが、その事実は思いのほか破壊力があった。





伝票小人が顔を上げる。

『見た?』

『見た』


卓番号札小人が固まる。

『クロノ』

『クロノが』

『アフター?』




沈黙。


『アフターだ』


また沈黙。


『初?』

『初だな』



一秒後。


『事件だ』

『事件だな』

『祭りだ』

『祭りだな』

『行くな』

『行くだろ』

『行くな』


『クロノだぞ』


『あ』


『行くだろ』

『行くだろうな』

『それはそう』

『それはそうだ』


当のクロノは何も知らない。

次の卓へ向かう背中を見送りながら、伝票小人がぽつりと呟く。


『本人だけ平和』

『平和だな』







だが店内は静かにざわつき始めていた。



すぐ真横の卓だった。


「今の見た?」

アオの卓の姫が身を乗り出す。


アオは嫌な予感しかしなかった。


「見ました」

「またクロノ刺したのかなぁ……」

「どうでしょう」


姫はふふっと笑った。

そして自然な動作でアオの手を取る。


「あのブランケット、すごかったもんね♡」


アオは無意識に唾を飲み込んだ。

「は、い……」



伝票小人たちが頷く。

『強火担』

『強火担だな』

『ブランケット組』

『刺された組』

『まだ抜けてない』

『抜けてないな』


少し沈黙。


『まあ』

『まあ?』

『うん』

『気持ちは分かる』

『分かるな』

『だってブランケットだぞ』

『ブランケットだからな』


また沈黙。


『あれはぶっすりいった』

『いったな』

『人間だけじゃない』

『違うな』

『みんな刺された』

『刺されたな』

『忘れてない』

『忘れてないな』

『抜けてない』

『抜けてないな』

沈黙。

『人のこと言えない』

『言えないな』

『まだ覚えてる』

『抜けてないか』

『抜けてないな』


完全に同類だった。





少し離れた卓では。


「カイ!」

「はい」

「見た!?」

「何をですか」

「見たよね!?」

「だから何をですか」


姫はカイの腕を掴んだ。


ぶんぶん振る。

「クロノくん!!」


「ああ」

「絶対面白いことになる!!」

「何がですか」

「分からないけど!!」

「分からないんかい」

「探って!!」

「嫌です」

「探って!!」

「嫌です」

「気になる!!」


「圧が強い」



見ていた伝票小人たちは一斉に頷いた。

『面白がり』

『面白がりだな』

『祭り好き』

『祭り好きだ』

『クロノ好き』

『みんな好き』

『それはそう』

『事件好き』

『本人も分かってない』

『分かってないな』

『楽しそうなら何でもいい』

『それもそう』



もう少し離れた卓では。


姫はしばらくクロノの背中を見ていた。

店内を歩く姿。

ヘルプへ向かう姿。

何気ない横顔。


その目は、湿度が高かった。

「……」


リクが嫌な予感を覚える。

「…どうしました」

無理やり声を捻り出した。


姫はホラー映画のように、ゆっくり振り返った。


「リク」

「はい」


少し間。


「ねぇ、今の……だれ?」


リクは天を仰ぎたくなった。



見ていた伝票小人たちは一斉にひとかたまりになった。

『怖い』

『怖いな』

『誰って聞いた』

『誰って聞いたな』

『圧』

『圧だ』


少し沈黙。


『でも』

『でも?』

『分かる』

『ちょっと』

『分かるな』

『気になる』

『気になるな』

『見ちゃうよね』

『クロノだから』


『クロノだからな』


『結局みんな同じ』


『それはそう』




さらに別の卓。


こちらの姫は特別騒いでいなかった。

グラスを揺らしながら何気なく言う。

「そういえばさ」


「はい」

シュウが顔を上げる。


「今のアフター?」


「たぶん」

「へぇ」


姫はそれだけ言った。


少し考える。


そして。

「聞いてきて」

「分かりました」


即答。


姫は少し意外そうな顔をした。

「シュウくん、珍しいね」

「何がですか」

「いつもより嫌そうじゃない」


シュウは少しだけ考えた。

「まあ」

「まあ?」

「クロノなんで」


姫は意味が分からなかった。

とりあえず次の酒をオーダーした。



見ていた伝票小人たちは、無機質なカメラのようにじっと見つめていた。

『あっちは逆』

『逆だな』

『姫普通?』

『普通』

『ホスト変』


『変だ』


『本人知らない』


『知らないな』

『無意識?』

『うん』


『クロノ気になってる』


『気になってるな』

『絶対聞く』

『聞くな』


『姫関係ない』


『関係ないな』


そこにロッカー小人が参戦してきた。

ぼそりと言う。

『これ』

『これだな』

『危ない』

『イエローカード』

『危ないな』


『ストーカー予備軍』

『予備軍だな』

『見張っとく?』


沈黙。


『それは大事』


『大事だな』

『芽は摘む』

『芽は摘むな』


『クロノ守る』


『守るな』

『見とこ』

『そだな』


小人たちの声はいつもより小さくて、店中の誰も聞こえなかった。





営業終了。



バックヤードは狭かった。


普段なら皆、帰宅準備している時間だった。

なのに今日は妙に人口密度が高い。


アオがいる。

カイがいる。

リクがいる。

シュウがいる。

ユウもいる。


ユウは普段以上の密度に戸惑った。

失敗ばかりだった新人から、若手ホストへなったユウは、いつも営業後に黒服達へ勉強会を開いてもらっていた。


ユウの片手にはノートがあった。

とりあえず、ユウは壁へ寄った。


そこでちょうどアオと目があった。


「お前んとこも?」

アオが聞く。


「聞かれた」


「俺も」

「俺も」

「俺も」


綺麗に揃った。


ユウだけ首を傾げた。

話が分からないので、とりあえず黙って様子を見た。



「何なんだよ今日」


「姫だろ」

「姫だな」


「クロノだからだろ」


誰も否定しない。



「で」


カイが半目でシュウを見る。

「お前何でいるの」


「姫に聞いてこいって言われた」

即答。





沈黙。


カイがアオを見る。

アオがリクを見る。

リクがカイを見る。


三人とも同じことを思った。

(気付いてねぇ)

(気づいてないな)

(全く気づいてねぇ)


「何だよ」

「いや別に」

返事はやけに早かった。


シュウは首を傾げる。

本当に分かっていない。


『嘘だ』

『嘘だな』

『百パー嘘』

『百パーだな』

『姫三割』

『いや一割』

『残り』


『クロノ』


『クロノだな』




ユウだけが首を傾げた。

「何なんですか?」


「そのうち分かる」

アオが答える。


「勉強ですか」

「違う」

「違うんですか」

「違う」


ユウはますます分からなくなった。



その時。

「お疲れ様です」


全員が振り返る。


クロノだった。




一瞬で空気が変わる。



田辺が先に口を開く。

「クロノ」


「はい」

「アフターか」

「はい」


全員が静かになる。


忠敬だけが気付いていない。


田辺は腕を組んだ。

「断れなかったのか」


少し沈黙。


「困ってました」


その返事に、田辺は目を閉じた。




「あー……」

納得した。




全員納得した。

それがクロノだった。



「三十分です」

忠敬が言う。


「本当に三十分です」

「そうか」

「はい」

「気を付けろよ」

「わかりました」

忠敬は頷く。


そして何の疑問も持たず店を出ていった。


扉が閉まる。






静寂。




伝票小人が呟く。

『行った』

『行ったな』

『帰ってくるか』

『帰ってくるだろ』

『クロノだぞ』

『クロノだからな』

『それはそう』

『それはそうだ』



田辺は缶コーヒーを開けた。

小さく息を吐く。

「……嫌な予感がする」



バックヤードの全員が頷いた。

誰も理由は説明できなかった。


だが、誰一人として反論もしなかった。


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