第27話:『交番の忘れ物と、容疑者』後編
夕方。
大学帰りの潜木忠敬は、歌舞伎町の裏通りを歩いていた。
講義は終わった。
この後は店だ。
呼び込みの声が増え始め、街は少しずつ夜の顔へ変わろうとしている。
忠敬はスマホで時間を確認した。
まだ少し余裕がある。
その時だった。
「Excuse me!」
不意に声を掛けられ、忠敬は振り返る。
大きなバックパックを背負った外国人観光客だった。
かなり困った顔をしている。
「Police?」
「交番ですか」
「Yes!」
「……ああ」
忠敬は周囲を見回した。
交番は二百メートルほど先にある。
指を差そうとして、ふと観光客の表情を見た。
ただ道を聞きたい顔ではない。
何かを失くした人間の顔だった。
忠敬は小さくため息を吐く。
「案内します」
当然通じない。
観光客はきょとんとした。
忠敬は少し考える。
「あー……ガイド?」
観光客の顔がぱっと明るくなった。
「Oh! Thank you!」
「No problem」
英語は得意ではない。
だが困っていることくらいは分かる。
結局そういう人間だった。
*
歌舞伎町交番の夕方は比較的落ち着いていた。
相沢は拾得物台帳を整理し、警部補は奥の机で報告書を書いている。
巡回から戻った警察官が書類を提出し、別の警察官が電話対応をしていた。
そして忘れ物棚では、相変わらず小人たちが騒いでいる。
翻訳アプリ小人は完全に燃え尽きていた。
『今日何カ国目だ』
『十』
『増えてる』
『帰りたい』
『お前もか』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
そんな会話が交わされていた時だった。
ガラリ、と引き戸が開く。
忘れ物棚の小人たちが何気なく入口を振り返る。
そして。
全員が固まった。
財布小人が二度見した。
鍵小人が立ち上がる。
翻訳アプリ小人は目を擦る。
忘れ物棚小人が呆然と呟いた。
『……本物だ』
静寂は一秒だった。
次の瞬間。
『きたーーーーーー!!!!』
『本人!!!!』
『見える兄ちゃん!!!!』
『実在した!!!!』
『してるわ!!!!』
『本人来た!!!!』
『見てる!!!!』
『聞こえてる!!!!』
忘れ物棚は一瞬で大騒ぎになった。
もちろん人間には聞こえない。
忠敬だけが顔をしかめる。
(うるせぇ)
その反応に歓声はさらに大きくなった。
『顔しかめた!!!!』
『聞こえてる!!!!』
『本当に聞こえてる!!!!』
パスポートケース小人が目を丸くする。
[Who!?]
『本人』
『有名人』
『見える兄ちゃん』
[The famous guy!?]
『そう』
『本人』
[Why famous!?]
『なんて?』
『知らん』
『知らん』
『知らん』
[Nobody knows!?]
『だからなんて?』
『知らん』
『翻訳はよ』
[That makes no sense!!]
『意味分からん』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
忠敬は聞こえないふりをしながら窓口へ向かった。
相沢が顔を上げる。
「あ、どうも」
「どうも」
その横から外国人観光客が身を乗り出した。
「Passport!」
相沢はすぐに察する。
「ああ、パスポートですか」
「Lost!」
「少々お待ちください」
相沢は台帳を確認し、忘れ物棚へ向かった。
その瞬間だった。
パスポートケース小人が飛び上がる。
[MY OWNER!!!!]
[MY OWNER!!!!]
[HE CAME!!!!]
『なんて?』
翻訳アプリ小人が面倒臭そうに答えた。
『ご主人来たって』
『おおーーー!!』
『よかったな!!』
『生還!!』
『めでたい!!』
パスポートケース小人は棚の中を走り回っている。
[MY OWNER!!!!]
[I'M HERE!!!!]
[OVER HERE!!!!]
[LOOK AT ME!!!!]
『なんて?』
翻訳アプリ小人は即答した。
『ここだって』
『雑だな』
『要約』
『長いんだよ』
『必死だな』
『気持ちは分かる』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
忠敬が思わずそちらを見る。
本当に無意識だった。
『見た!!!!』
『見た!!!!!』
『聞こえてる!!!』
『今見た!!!!!』
『やっぱり見えてる!!!!』
『本人だ!!!!』
忘れ物棚が再び騒ぎ始める。
相沢の視線が一瞬だけ忠敬へ向いた。
だが何も言わない。
やがて保管袋が取り出された。
外国人観光客の顔が一気に明るくなる。
「Oh!! Thank you!!」
パスポートケース小人は飛び上がった。
[THANK YOU!!!!]
[WE CAN GO HOME!!!!]
[MY OWNER!!!!]
『なんて?』
『帰れるって』
『よかったな』
『生還』
『めでたい』
観光客は興奮した様子で何かをまくしたてている。
[Thank you so much. I thought I lost it forever.]
『なんて?』
翻訳アプリ小人が頭を押さえた。
『速い』
『頑張れ』
『働け』
『労基』
『うるさい』
数秒後。
『めちゃくちゃ感謝してる』
『おおー』
『よかったな』
『泣ける』
パスポートケース小人は半泣きだった。
[MY OWNER!!!!]
『通訳して』
翻訳アプリ小人が、非常に迷惑そうにしながら口を開いた。同時通訳だった。
『[言葉通じないし!!!!]』
『[周り何言ってるか分からないし!!!!]』
『[寂しかったし!!!!]』
『[会いたかったよぅ!!!!]』
『だって。疲れた、もうしない』
『大変だったな』
『それは大変』
『異国だしな』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
手続きはすぐに終わった。
外国人観光客は何度も頭を下げながら交番を後にする。忠敬も続こうとした。
すると忘れ物棚から歓声が飛んだ。
『またなーーーー!!!!』
『本人ーーーー!!!!』
『レンに迎えに来てって言ってーーー!』
『元気でなーーーー!!!!』
『見える兄ちゃんーーーー!!!!』
忠敬は眉間を押さえた。
「レンのかよ」
「え?」
相沢が顔を上げる。
しまった。
忠敬は一瞬だけ固まる。
「……独り言です」
「そうですか」
「そうです」
忘れ物棚は爆笑だった。
『反応した』
『聞こえてる』
『やっぱり聞こえてる』
『本人だ』
忠敬は深いため息を吐き、逃げるように交番を後にした。
ガラリ、と引き戸が閉まる。
しばらく静寂が続く。
やがて、相沢がぽつりと呟いた。
「やっぱり、なんかある」
相沢は忘れ物棚を見る。
もちろんそこには財布や鍵やスマホが並んでいるだけだ。
それから警部補を見た。
他の同僚たちはそれぞれの仕事をしている。
こちらの会話に注意を向けている者はいない。
相沢は少し声を落とした。
「まだパスポート見つかってないのに、先にあっち見たんです」
警部補は缶コーヒーを開けた。
プシュッ、と小さな音が鳴る。
「ひったくりの時もか」
「はい」
警部補は少し考えた。
「……他には」
相沢も考え込む。
「細かいのは何度か」
「そうか」
しばらく沈黙が続いた。
やがて警部補は缶コーヒーを一口飲む。
「まあ」
肩をすくめる。
「しばらく注意して見てみるか」
相沢は小さく頷いた。
「そうですね」
忘れ物棚では別の意味でざわついていた。
『見える兄ちゃん観察対象になった』
『なったな』
『警察だぞ』
『まずい?』
『別に犯罪してない』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
翻訳アプリ小人が欠伸をする。
『でも結構近い』
『近いな』
『だいぶ近い』
『正解わかるか?』
忘れ物棚小人が腕を組んだ。
『無理だろ』
『無理だな』
『まさかの正解は出ない』
『出ないな』
しばらく沈黙が流れる。
やがて誰かが言った。
『これ共有する?』
空気が変わる。
『あー』
『共有か』
『口コミか』
『歌舞伎町ネットワーク』
『拡散』
『拡散』
『本人嫌がるぞ』
『知ってる』
『でも面白い』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
その夜。
歌舞伎町の小人社会に、新しい噂が一つ広まった。
――見える兄ちゃん、警察に目を付けられる。




