第2話:『売掛金と、泣き続けるブランド財布』
深夜一時四十分。
歌舞伎町のネオンは、まだ眠る気配を見せていなかった。
高級ホストクラブ『LUXE』の店内でも、 シャンパンコールの余韻と甘ったるい香水の匂いが、重く空気に漂っている。
「クロノー! 三番卓ヘルプ入って!」
ボーイに呼ばれ、 忠敬――源氏名“クロノ”は小さくため息を吐いた。
「……はい」
いまだに慣れない黒シャツの襟元を直しながらソファ席へ向かう途中、手首のスマートウォッチがブブッと短く振動した。画面のフチから、小さな小人の『クロノ』がひょっこりと顔を出す。
「席の移動ですね。現在の時間管理に基づき、三番卓のヘルプ推奨時間は残り十五分です」
ウォッチのスピーカーから、周囲に聞こえても問題のない合成音声が淡々と流れた。忠敬も普通のホストが時計を確認する仕草のまま、自然に口を開く。
「分かった。時間になったらまたアラームを鳴らしてくれ」
「了解しました」
表面上はスマートウォッチの便利機能として会話を終える。だが次の瞬間、『クロノ』はウォッチの上に座り、忠敬を見上げた。
『……それと主、三番卓の酔客の挙動分析を開始しています。お相手の女性、かなり情緒が不安定なサインが出ていますのでご注意を』
(……なるほどな)
その忠告に、忠敬は視線だけを目的の卓へ向けた。
そこには、綺麗に巻かれた髪、高そうなワンピース、完璧なメイクで着飾った女性――紗季が座っていた。だが、グラスを持つ彼女の指先だけが、微かに震えている。
さらに卓の棚の上からは、彼女のブランドバッグの小人が必死にこちらへ手を振っていた。
『お兄ちゃん! あの人、今日ほんとは来ちゃダメだったんだよ!』
(またか……)
クロノは顔に出さず、 視線だけを卓へ向ける。
そこには、 綺麗に巻かれた髪。
高そうなワンピース。
完璧なメイク。
だが。
その女性――紗季は、 グラスを持つ指先だけが、微かに震えていた。
『財布の中、もうほとんど空っぽなんだ……』
ブランド財布の小人が、 泣きそうな顔で呟く。
『でもこの人、“今日来なかったら嫌われる”って思い込んでるの。毎日ATMで震えてるんだよ……』
クロノは胃が痛くなった。
ホストクラブにおける“売掛”。 今日は払えない金を、 「次回払う」で積み重ねるシステム。
ハマれば地獄になる。
そして今、 この卓にはその匂いが濃く漂っていた。
「クロノくん来たー♡」
紗季は無理に明るく笑う。
その笑顔を、 テーブル上の香水瓶の小人が苦しそうに見上げていた。
『今日の笑顔、三回塗り直してる……』
(頼むから情報量を増やすな……)
クロノは静かに腰を下ろした。
「……飲みすぎじゃないですか」
「えー? そんなことないよぉ」
「あります」
即答。
普通のホストなら、 ここで煽る。
飲ませる。 盛り上げる。 売上を作る。
だがクロノは。
「水飲んでください」
「え?」
「顔色悪い」
紗季がぽかんと固まる。周囲のホスト達もギョッとしていた。
「クロノ何言ってんだ?」
「営業しろ営業」
だが、紗季の財布の小人が、 震える声で呟く。
『……その言葉、誰にも言われたことなかった』
忠敬は聞こえないフリをした。
*
数十分後。
卓の空気は、 妙に静かになっていた。
「……なんかさ」
紗季が、 空になったグラスを見つめながら呟く。
「クロノくんって、“売ろう”としてこないよね」
「向いてないんで」
「ホストに?」
「全部にです」
即答。
普通なら笑う場面なのに、 紗季はなぜか少し泣きそうな顔をした。
「私さ……」
スマホの小人が、 画面のフチで小さく膝を抱えている。
『また元カレのSNS見てた……』
「昼の仕事、辞めちゃったんだ」
クロノは何も言わない。
「でも誰にも言えなくて。親にも、“順調”って嘘ついてる」
ブランド財布の小人が、 とうとう泣き出した。
『この人ほんとは、“大丈夫”って言ってほしいだけなのに……』
クロノは視線を逸らした。
こういう時。
正解が分からなくなる。
ホストなら、 甘い言葉を言えばいい。
「俺がいるよ」 とか、 「一緒に頑張ろ」 とか。
でも。
それはたぶん、 今この人に必要な言葉じゃない。
クロノは少し黙ってから、 低い声で言った。
「……逃げてもいいんじゃないですか」
「え?」
「無理して壊れるくらいなら」
紗季が固まる。
「頑張れない時まで頑張る必要、ないと思う」
沈黙。
店内の喧騒だけが遠く響く。
やがて
「……っ、」
紗季の目から、 ぽろっと涙が落ちた。
「そんなこと言われたの、初めて……」
(あーもう……)
クロノは心の中で頭を抱えた。
隣卓のホスト達がザワついている。
「また泣かせてる」
「クロノ何者?」
「怖ぇよあいつ」
怖いのはこっちだった。
*
営業終了後の店のバックヤード。
神崎が缶コーヒー片手に、 ニヤニヤしながら寄ってくる。
「お前さぁ」
「……なんですか」
「また売掛止めただろ」
忠敬は目を逸らした。
図星だった。
紗季が追加注文しようとした時、 忠敬は自然な流れで止めてしまったのである。
『その一杯で今月の電気代消える』 と、 財布の小人が泣いていたから。
「ホストとしては失格なんだけどなぁ」
神崎は笑う。
だが、その声色はどこか優しかった。
「でもまあ……お前の卓、客がちゃんと笑って帰るんだよな」
「……」
「夜職ってさ。“また来たい”じゃなくて、“まだ帰りたくない”でハマる客、多いんだよ」
珍しく真面目な声音だった。
「でもお前の客、“帰る時の顔”が軽いんだよな」
忠敬は黙る。
バックヤードのロッカーの小人たちが、 こそこそ囁いていた。
『神崎さん、なんだかんだクロノのこと好きだよなー』
『めちゃくちゃ面倒見てるし!』
(うるさい)
その時、左手首のスマートウォッチが 小さく振動した。『クロノ』が淡々と告げる。
「主人。本日の売上は店内四位」
「……は?」
「なお、客の満足度は一位だ」
「そんなランキングあるのかよ」
「今作った」
「作るな」
すると。
近くのテーブルに置かれていた、 紗季の名刺の小人が、 小さく笑いながら手を振ってきた。
『あの人ね、帰る前に言ってたよ。“明日ちゃんとハローワーク行ってみる”って』
忠敬は一瞬だけ目を細める。
そして
「……そうか」
誰にも聞こえないくらい小さく、 そう呟いた。
歌舞伎町の夜は今日も騒がしい。
だがその片隅で。
誰にも気づかれない小さな“立て直し”が、 静かに始まっていた。




