第17話: 『喋りすぎるブランケットと、眠そうな男』中編
「……今日のクロノ、なんか怖くない?」
レン卓の姫が、ぼそりと呟いた。
「怖いっていうか……なんかおかしい」
「いつもより優しい?」
「いや、違うな……なんか“近い”?」
レンはその会話を聞きながら、くつくつ笑っていた。
「あー、今日レア回だから」
「レア回?」
「クロノ、眠すぎると営業モード剥がれるんだよ」
「えっ、それ大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない」
レンは即答した。
「あいつ、自覚ないまま人刺すから」
その視線の先では、クロノが別卓のヘルプへ入っていた。
いつも通り無表情。
いつも通り低い声。
いつも通り気だるそう。
なのに今日は妙に空気が柔らかい。
しかも本人だけ、それにまったく気づいていなかった。
*
「クロノくーん、聞いてよ〜」
九番卓。
酔った客が、忠敬の袖を軽く引っ張る。
「今日会社でさぁ、後輩にナメられてる感じして最悪だったんだけど」
「……へぇ」
普通なら、ここで営業トークを返す。
『そんなことないだろ』
『気にするな』
だが今日の忠敬は、脳の省エネモードが極まっていた。
「まぁ、舐められやすい人っていますよね」
場が止まる。
テーブルの灰皿小人が吹き出した。
『お兄ちゃん正直!!』
客が目を丸くする。
「え、フォローしないの?」
「無理なものは無理です」
「ひどっ!」
「でも」
忠敬は水を飲みながら続けた。
「後輩って、“反応ある人”に調子乗るんで」
「……え?」
「適当に流してれば、そのうち飽きますよ」
あまりにも自然な口調だった。
客は数秒黙ったあと、吹き出す。
「なにそれ、妙にリアル」
「実体験なんで」
「クロノくん、絶対学生時代苦労してるでしょ」
(現在進行形だよ)
だが口には出さない。
その横で、客のスマホ小人がぴょこぴょこ跳ねていた。
『このお姉ちゃん今日来る前、“もう仕事辞めたい”って検索してた!』
忠敬は視線だけ少し落とす。
それから何でもない顔で、卓の端へ水を置いた。
「……飲んどいた方がいいですよ」
「え?」
「頭痛くなるんで」
客はきょとんとしたあと、小さく笑った。
「クロノくんって、変な優しさだよね」
(知らん)
*
一方その頃。
バックヤードでは、黒服の田辺が伝票整理をしながら深いため息を吐いていた。
「今日忙しすぎだろ……」
新人黒服が半泣きで頷く。
「レンさん卓ずっとシャンパンです……」
「週末だからな」
そう言った田辺の机の上で、薬ケース小人がぷんぷん怒っていた。
『この人また胃薬飲んでる!』
『今日まだご飯食べてない!』
そこへ、ヘルプ終わりの忠敬が戻ってくる。
冷蔵庫を開け、水を取り出す。
そして何気ない顔で田辺を見る。
「……田辺さん」
「ん?」
「今日まだ飯食ってないでしょ」
田辺が止まった。
「は?」
「さっきから胃薬ばっか飲んでる」
薬ケース小人が全力で頷く。
『そう!! 三回目!!』
忠敬はそれ以上何も言わず、冷蔵庫からサンドイッチを取り出した。
そして田辺へ放る。
「食わないと倒れますよ」
「いや、俺そんな——」
「さっきフラついてたし」
田辺が黙る。確かに、少し立ちくらみがしていた。
だが誰にも気づかれていないと思っていたのだ。
新人黒服がポカンとしている。
「田辺さん、フラついてたんすか?」
「……お前は気づくな」
その横で、忠敬はソファへ腰を下ろした。
目を閉じる。
三秒後。
寝た。
新人黒服が固まる。
「えっ!?」
田辺は呆れた顔で額を押さえた。
「……だから言っただろ、今日あいつ終わってんだよ」
そこへレンが戻ってくる。
事情を聞いた瞬間、腹を抱えて笑い始めた。
「田辺、完全に落とされてんじゃん」
「うるせぇ」
「しかもクロノ絶対覚えてないぞ、それ」
「そこが余計タチ悪いんだよ……」
レンはソファで寝落ちしている忠敬を見る。
無防備だった。
普段のクロノは、どこか壁がある。
客にも、ホストにも、黒服にも。
一定以上踏み込ませない。
だが今日は、その壁が眠気で全部薄くなっている。
レンは少しだけ目を細めた。
「……まぁ、たまにはいいか」
その時だった。
ソファで寝ていた忠敬が、薄く目を開ける。
ぼんやりした視線のまま、レンを見る。
そして。
「……水」
ペットボトルを放った。
レンが反射的に受け取る。
「え?」
「今日しゃべりすぎです」
「…………」
それだけ言って、忠敬はまた目を閉じた。
沈黙。
ペットボトル小人が大騒ぎしている。
『クロノのお兄ちゃん、レンのお兄ちゃん喉枯れてるの気づいてたー!!』
新人黒服が絶句する。
田辺は肩を震わせていた。
レンは数秒固まったあと、ゆっくり笑う。
「……ほんとさぁ」
「レンさん?」
「お前、無自覚でそれやるのズルいよ」
忠敬はもう聞いていなかった。
再び寝落ちしていたからである。
バックヤードに、静かな笑い声が広がる。
だがその頃フロアでは。
“今日のクロノ、なんか違う”
という噂が、じわじわ店全体へ広がり始めていた。




