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第17話: 『喋りすぎるブランケットと、眠そうな男』前編



六月末、木曜日。雨上がりの歌舞伎町は、湿った熱気に満ちていた。ネオンが濡れた路面へ反射し、人混みのざわめきが夜の街を満たしている。


午後九時。ホストクラブ『LUXE』も、週末らしい混雑の真っ最中だった。


レン卓では早くもシャンパンコールが始まり、新人ホストはヘルプで溺れ、黒服たちはフロアを走り回っている。


その喧騒の中を、クロノこと潜木忠敬は、ひどく眠そうな顔で歩いていた。


「クロノ! 七番卓ヘルプ!」

「……はい」


返事が遅い。


黒服の田辺が眉を寄せる。

「お前、今日マジで顔終わってるぞ」

「通常運転です」

「その通常が怖ぇんだよ」


ここ数日の忠敬は、本当に寝ていなかった。

大学のゼミ発表。

レポート提出。

連勤。

営業後のトラブル処理。


しかも昨日は朝方まで酔っ払い大学生を保護して警察へ引き渡していた。


平均睡眠時間、二時間。


もはや生存しているのが不思議なくらいである。

そのせいか、今日は妙に“クロノ”が薄かった。


いつもの営業スマイルも、適度な距離感も、どこかぼやけている。


灰皿の小人が、忠敬の肩へよじ登った。

『お兄ちゃん今日ガードゆるゆる!』

(知らん)


『絶対なんかやらかす!』

(うるさい)


七番卓へ着くと、常連客の美優が忠敬を見るなり吹き出した。


「クロノくん、顔死んでる」

「生きてます」

「いや半分くらい死んでる」


忠敬は適当にソファへ腰を下ろす。


その瞬間、テーブル下からバッグ小人が飛び出してきた。

『このお姉ちゃん今日ほんとは来ないつもりだった!』

(へぇ)


『仕事で怒られて落ち込んでる!』


忠敬は何も言わなかった。


ただ、店内を見回したあと、近くのエアコンへ視線を向ける。


冷風がちょうど美優へ当たっていた。

忠敬は無言でリモコンを取り、風向きを少しだけ変える。


美優がきょとんと瞬く。

「……あれ?」


その横で、ソファのブランケット小人が大騒ぎしていた。

『お兄ちゃんさっきから寒そうなの気にしてた!』

(黙れ)


忠敬は氷をグラスへ入れながら、水を一口飲む。


美優はしばらく忠敬を見つめたあと、小さく笑った。

「今日なんか変」

「そうですか」

「うん。いつもの“クロノ感”ない」


眠いだけだ。


本人としては、本当にそれだけだった。

だが、その“眠いだけ”が今日はやたら周囲へ被害を出していた。





十分後。


美優が酔った拍子にグラスを倒しかける。

だがカタン、と音が鳴る前に、忠敬の手が自然に支えていた。しかも会話は普通に続いている。


あまりにも自然すぎて、美優は一拍遅れて気づいた。

「……今、助けた?」

「別に」

「いや絶対助けたでしょ」

「気のせいです」


グラス小人が腹を抱えて転げ回る。

『今日六回目ーー!!』

(数えるな)


美優は呆れたように笑った。

「クロノくんって、そういうの絶対言わないよね」

「何がです」

「気遣ってるのに、“してませんけど?”って顔するやつ」

「してないんで」

「はいはい」

その返しがあまりにも自然で、美優はまた笑ってしまう。


離れたレン卓では、レンが完全に面白がっていた。

「クロノ今日やばいなぁ」


隣の姫が頷く。

「なんかいつもより優しくない?」

「違う違う」


レンはグラスを回しながら笑う。


「あれ、眠すぎて営業モード死んでるだけ」

「え、素ってこと?」

「そう。だからタチ悪いんだよ」




クロノの卓で、美優がぽつりと呟いた。

「……今日、ほんとは来ないつもりだったんだよね」


バッグ小人がぴょこんと飛び跳ねる。

『それさっき言った!』


忠敬は頬杖をついたまま視線だけ向けた。

「なんで」

「疲れてて。仕事もしんどいし」

「……まぁ、そういう日ありますよね」


慰めない。励まさない。

でも否定もしない。


美優は少し驚いた顔をした。

「クロノくん、“頑張って”とか言わないよね」

「責任取れないんで」

「なにそれ」

「無責任に頑張れって言うの嫌なんで」


その瞬間、美優の表情が止まった。


忠敬本人は気づいていない。

だがその言葉は、妙に本気だった。


バッグ小人が小声で呟く。

『お兄ちゃん、自分が言われて嫌なこと言わない』

(うるさい)


その時、スタッフが近くを通り、冷房の風がまた流れ込んだ。美優が小さく肩を震わせる。


忠敬は一瞬だけそれを見て、ソファ横のブランケットを無言で押しつけた。

「使ってください」

「え?」

「寒いんでしょ」


ブランケット小人が絶叫する。

『それお兄ちゃん自分用に持ってきたやつーー!!』


美優が完全に固まった。

「……え、いいの?」

「ああ」

「クロノくん寒くないの?」

「眠い方が勝ってるんで」

あまりにも素の返事だった。


美優はとうとう顔を覆う。

「今日ほんと無理……」

「何がです」

「そういうとこ……」


忠敬は本気で意味が分からなかった。


だが、その頃には。

離れた場所で見ていたレンも、田辺も、他のホストたちまで妙な顔をし始めていた。


いつものクロノじゃない。

なのに、今日の方がずっと破壊力がある。


そしてその“被害”は、まだ店全体へ広がり始めたばかりだった。


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