表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/21

第8話 危険な視察

 そして、視察の日がやってきた。

 私は朝から鏡の前で何度も髪を結い直した。後ろで高めにポニーテールにまとめ、動きやすいように。前髪も少しカットして整えて、視界を確保。

 イリヤくんの言葉を思い出すたび、頰が熱くなる。


「綺麗な髪が傷つくといけないからな……」


(本当に、ずるいんだから……)


 でも今日はデートじゃない──視察だ。

 ヘマをしたら、イリヤくんの足手まといになる。優等生として、絶対にしっかりしなきゃ。


 集合場所のダンジョン入口で、イリヤくんを待つ。黒い制服に剣を差した姿が現れると、いつものように息が詰まる。でも今日は、すぐに視線を逸らさず、笑顔で挨拶した。


「おはよう、イリヤくん。準備、できたよ」


 イリヤくんは軽く頷き、私の髪に一瞬視線を落とす。


「……似合ってる」


 その一言に心臓が跳ね上がるけど、「ありがとう!」とだけ返して、すぐに表情を引き締めた。


 ダンジョンに入った瞬間、空気が変わった。


 湿った冷気に、薄暗い石壁から染み出す魔力の残滓。足元に響く水滴の音。


 いつも安全が確認された訓練ダンジョンでみんなでワイワイ挑んでいた時とはまるで別世界。


 緊張が背筋を這い上がる。私はイリヤくんの横を歩きながら、声を低くして言った。


「……王宮魔導士になったら、常にこんな緊張感と向き合っていくんだね」


 イリヤくんは前を向いたまま、静かに答える。


「……ああ。だからこそ、今日のような視察は大事だ」


 私は心の中で、自分を叱咤する。


(デートだなんて浮かれてた自分、バカ……!

今は任務なんだから。しっかりしなきゃ)


 私たちは地図通りに進んだ。崩れかけた通路を慎重に確認し、私が地属性魔法で壁の安定をチェック、イリヤくんが剣を抜いて前方警戒。

 息の合った動きに、少しだけ自信が湧く。


 奥まで進み、予定ルートの最深部に到達した。


「ここまで異常なしっと……」


 私はふっと安堵の息を吐いた。だけど、イリヤくんの視線は鋭いままで、赤い瞳が周囲を素早く見渡しながら警戒していた。

 私は最深部の壁に埋め込まれていた古い縁石版に魔力を流し込んだ。視察の最終確認作業だ。


「これで……終わ──」


 作業が終わる瞬間、イリヤくんの声が鋭く響いた。


「ルリシア、待て──!」

「え?」


 遅かった。私の魔力が全て縁石版に注ぎ込まれた直後、僅かにこの場所の魔力バランスが乱れたことにイリヤくんが気付いた。

 

 でも私の魔力はすでに暴発気味に膨れ上がり、縁石版に細かな亀裂が走る。


 ガコン、という重い音が響いた。


 次の瞬間、天井から無数の矢が降り注ぐトラップが発動した。


「ルリシア!」


 イリヤくんが即座に私を抱きかかえ、壁際に押し込むように身を翻す。剣を一閃させて矢を弾き、私の頭を自分の胸で覆う。


 矢の雨が止んだ直後──今度は足元の床が大きく軋んだ。


「──っ!」


 床板が一気に崩れ落ち、私たちは暗闇の穴へと落下した。


「きゃあっ!」


 風が耳元を切り裂く。


「ルリシア! 風魔法で落下速度を落とせ!」


 イリヤくんの指示が、冷静に響いた。

 私は慌てながらも右手を掲げ、風纏わせて自分たちの身体を包み込む。


 二人の落下速度がみるみる緩やかになり、ゆっくりと下の空間へと降り立った。


 そこは薄暗い、湿った空気の漂う部屋だった。足元はぬかるんだ土と石が混じり、微かな水音が響いている。


「……着いた……」


 私はホッと息を吐き、イリヤくんにしがみついていたことにようやく気付いた。


「あっ……ご、ごめんね!」


 慌てて身体を離して距離を取ろうとしたその瞬間──私の背中が、何か冷たくてぬめぬめとしたものに触れた。


「ひっ……!?」


 ビクリと全身が震え、嫌悪感が一瞬で背筋を駆け上がる。


 恐る恐る振り返った先で、私は凍りついた。

 

 そこにいたのは、巨大なヒルのような魔獣だった。体長は優に二メートルを超え、黒光りする体表がぬめぬめと光り、無数の小さな吸盤が蠢いている。口の部分は円形に開き、鋭い歯が何重にも並んで、じゅるじゅると粘液を垂らしながらゆっくりとこちらに近づいてくる。


「ひゃあああああっ!!」


 私は虫類、特にこの手のぬめぬめした生き物が大の苦手だった。

 頭が真っ白になり、パニックが爆発する。


「いやっ! いやああっ! イリヤくんっ!!」


 私は悲鳴を上げながら、再びイリヤくんに飛びつき、彼を押し倒す勢いで倒れ込んだ。


「ルリシア、落ち着け」


イリヤくんは低く、しかし落ち着いた声で言った。


「離れてくれ、動けない」

「で、でもっ……あれが……あれが近づいてくる……!」


 私はガタガタと震えながら、イリヤくんの胸に顔を埋めたまま離れられない。

 両手で彼の制服を強く握りしめ、身体を小さく丸めている。

 イリヤくんは小さくため息を吐いた。


「……仕方ない」


 彼は片手で私を抱え込んだまま、もう片方の手で剣を抜いた。その動きは驚くほど落ち着いていて、まるで日常の訓練のように自然だった。


 巨大ヒル魔獣がゆっくりと距離を詰めてくる。

 イリヤくんの赤い瞳が、冷たく輝いた。


「動くな。すぐに片付ける」


 イリヤくんは私を抱えたまま剣を構えた。剣の刃が、薄暗い空間の中で淡く光を反射した。


 巨大なヒル型魔獣が、じゅるじゅると粘液を垂らしながらゆっくりと距離を詰めてくる。

 その姿を見ただけで、再び背筋が凍りついた。


「ひっ……!」

「見なくていい、伏せてろ」


 低く落ち着いた声が耳元に落ちた次の瞬間、イリヤくんの剣が閃いた。


 シャッ!


 一閃で魔獣の胴体を斜めに斬り裂く。


 しかし──ズルッ……!


 切断面から、どろりとした紫色の粘膜が大量に飛び出した。それがまるで生き物のように飛び散り、私の方へ向かってくる。


「…………っ!!」


 イリヤくんが即座に体を捻り、私を庇うように覆い被さった。粘膜の大部分が彼の背中と肩にべっとりと張り付く。


「イリヤくんっ!?」


 私は慌てて彼の胸を押し、顔を上げた。

 剣を持っていない方の手で、彼の肩に付着した粘膜を払おうとする。


「大丈夫? 怪我は!? それ、毒……!?」

「心配するな。毒ではない」


 イリヤくんは冷静な声で答えながら、ゆっくりと身体を起こした。背中に張り付いた粘膜を無表情で払い落とす。


 彼は地面に落ちた粘膜の一部を剣先で突き、じっと観察した。


「……匂いがあるな」

「匂い?」


 私も恐る恐る鼻を近づけてみる。

 甘ったるく、どこか腐った果実のような強烈な異臭がした。


 イリヤくんが淡々と分析を続ける。


「この粘膜には誘導作用がある。仲間に『獲物がここにいる』と知らせるためのものだ」


 イリヤくんの赤い瞳が、薄暗い周りを見据えて目を細めた。


「先ほど斬った個体は大型だった……次のは、先ほどより小柄な個体ばかりのようだ。数がいる」


 その言葉とほぼ同時に、薄暗い部屋の奥から、複数の「じゅる……じゅる……」という不気味な音が近づいてきた。


 現れたのは、先ほどの巨大ヒルより一回り小さいが、それでも人間ほどはあるヒル型魔獣が五、六体。

 ぬめぬめと光る体表を蠢かせながら、壁や天井を這うようにしてこちらへ迫ってくる。


「い……いやああ……!」


 私は再びぞっとし、イリヤくんの腕にしがみついた。全身が鳥肌だらけになり、足が震えて動けない。


 イリヤくんは周囲を素早く見渡しながら言った。


「物理的に斬ると、また粘膜が飛び散って新たな仲間を呼ぶ。ルリシア、魔法で倒せ。一匹ずつ確実に、粘膜を飛ばさないよう焼き払って、その後立ち上がった煙の匂いも水で掻き消すんだ……君ならできるはずだ」


「え……私、が?」


「そうだ。君はバランスを取るのが得意だろう? 炎と水の精密制御は容易いはずだ。俺は動きを止める。援護を頼む」


 イリヤくんは剣を構え直し、私を自分の背後に軽く押しやった。

 私は深呼吸をして、両手を前に突き出した。

指先がわずかに震えているが、イリヤくんの言葉を胸に刻む。


(……しっかりしなきゃ。イリヤくんが守ってくれているんだから)


 右手に炎の熱を、左手に冷たい水の流れを集める。イリヤくんが一歩前に出て、剣を軽く振るって魔獣たちの注意を引きつける。


 その隙に、私は右手を振り、炎の塊を一番近くの魔獣の体表に叩きつけた。

 べっとりとした粘膜が一瞬で蒸発し、本体が黒く炭化して崩れ落ちる。


 立ち上がった煙に向かって、すぐに左手を振り、水の奔流を浴びせた。

 煙が一瞬で冷やされ、匂いごと霧散していく。


「次!」


 イリヤくんがもう一体の進路を剣で阻む。

 私は即座に次の魔獣へ炎を放ち、粘膜を焼き払った後、水で煙と残り香を丁寧に掻き消した。


 一匹ずつ、確実に。


 炎で焼き、水で消す。


 その繰り返しで、誘導物質である粘膜と煙の匂いを最小限に抑えながら、次々と魔獣を倒していった。


 イリヤくんは的確に動きを封じ、私の魔法を援護してくれる。息の合った連携で、五、六体いた魔獣をすべて処理し終えた。


 最後の一体が炎に包まれて崩れ落ち、水の奔流で煙が完全に消えた瞬間、部屋に静寂が戻った。


「……終わった」


 イリヤくんが剣を収め、周囲を見回した。

 私は膝に手をついて大きく息を吐き、まだ少し足が震えているが、なんとか戦いきれた。


「よくやった、ルリシア」


 イリヤくんの声に、私は顔を上げた。


 彼は壁の隙間を探り、脱出ルートとなる小さな裂け目を見つけた。


 剣で石を少し崩し、私を先に押し上げてから自分も上がってくる。


 私たちは慎重に元の通路へと戻ることができた。視察ルートを抜け、ダンジョン出口に辿り着いた頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 イリヤくんは出口付近で足を止め、冷静に言った。


「先ほどのルートは危険だ。魔力の乱れがトラップを誘発しやすく、魔獣の巣に繋がっていた可能性が高い。報告書には別の安全ルートを推奨しよう……今回の視察は大きな収穫だった」


 私はうつむきながら、小さく頷いた。


「……イリヤくん、ごめんね。私が確認しないで縁石版に魔力を流し込んだせいで、暴発して……迷惑かけちゃった」


 申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 イリヤくんは私のほうを向き直る。


「謝る必要はない。脱出できたのは君のおかげだ」

「え……?」

「魔法の制御が正確だった。炎と水の交互使用で粘膜の拡散を最小限に抑えられた。俺一人ではこうはできなかった」


 そう言って、彼は私の髪に軽く触れた。


「汚れてしまったな」


 制服の袖や髪の毛先にも、少し粘膜の跡が残っている。私は慌てて自分の姿を見て、苦笑した。


「うん……べっとり。でも、イリヤくんのおかげで傷一つ付かなかったよ。守ってくれて、ありがとう」


 私は精一杯の笑顔を作って見上げた。

 イリヤくんは無言で私の頭にポンと手を置き、優しく撫でた。


「……よく頑張った」


 その一言と、温かい手の感触に、私の顔が一瞬で真っ赤に染まった。

 耳まで熱くなって、視線を逸らしてしまう。


「い、イリヤくん……」


 イリヤくんが歩き出そうとしたその時、私は慌てて彼の制服の裾を掴んだ。


「あ、待って! その制服……粘膜で汚れちゃってる。私が洗うから」


 イリヤくんは軽く眉を上げた。


「別にいい。自分でやる」

「だめっ! 私にやらせて!」


 私は即座に首を横に振り、裾を離さなかった。


「イリヤくんはいつも私を守ってくれてるんだもん。せめてこれくらい……させて? お願い」


 私は上目遣いに見つめながら、必死に頼み込んだ。イリヤくんは小さく息を吐き、わずかに視線を逸らした。

 耳の先が、ほんのり赤くなっている気がした。


「……わかった。なら頼む」


 短く、そう返事をしてくれた。私はホッとして、ようやく裾から手を離した。胸の奥が、まだ温かくてドキドキしている。


(イリヤくん……少し照れてる?)


 視察は無事に終了し私たちは学院へ戻った。

 並んで歩く、私たちの間には、甘い余韻のようなものが残っていた。


 ちらっと彼の横顔を見る。イリヤくんの赤い瞳に私は今、どのくらい映ってるんだろう。

 知りたい。あなたの本当の気持ちを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ