第2話 海より深いため息
「まあ、果物が瑞々しくて美味しいわ。このタルト」
「こっちのチョコレートケーキもしっとり濃厚で美味しいですよ」
「あら、ほんと。程よい甘さね」
銀色の髪の令嬢と、金色の髪の少女が、肩を並べて楽しそうにケーキを分け合っている。
イリヤは向かいの席で、フォークを握ったまま動けずにいた。
(……なぜ、こうなった)
ことの発端は、ほんの数分前に遡る。
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「……そう、でしたか。……ん? ヴェルモント?」
頭を上げたルリシアが、考えるように首を傾げると、イリヤは息を呑んだ。
婚約の話は済んでいても、ルリシアには「ヴェルモント家の令嬢」としか話していない。まさかこの場で、本人に先に名乗られるとは思わなかった。どうにも居心地が悪い。
思考が空回りする、その隙に。
「もしかして……ルリシアさんはご存知ないのかしら? 実は私、彼の元婚約者でして」
ソフィアの言葉が真っ直ぐに放たれた。
その場の空気が凍りついた。
イリヤの思考もまた、真っ白に凍りつく。カフェテリアの喧騒は遠のき、ルリシアの表情だけがゆっくりと変わっていくのを、彼はただ見守ることしかできない。
そして、ルリシアが口を開いた。
「――あっ! ソフィアさんが、そうだったんですね!」
彼女はぱっと顔を明るくした。その反応にイリヤは目を見開き、対するソフィアは笑みひとつ崩さない。
「イリヤのこと、助けてくださって……本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げるルリシアを前に、イリヤは口を挟む隙を見失った。
「まあ」
ソフィアは口元に手を添え、上品に笑った。
「私はなにも。お二人の仲で乗り越えたものですわ」
穏やかな声に、棘はどこにも感じられない。
(……純粋な祝辞か。それとも……)
別の意図があるのか、イリヤには判断がつかなかった。長年の付き合いがある相手だというのに、その腹の内はまるで読めない。
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それから先は早かった。
ソフィアは当然のようにルリシアの隣に腰を下ろし、テーブルの上に置かれたケーキを分け合いながら、おすすめの店の名前を挙げ、王都でいちばんの有名店の話を持ち出した。
ルリシアが目を輝かせて食いつく。紅茶の話になり、茶葉の産地の話になり、それに合う菓子の話に戻ってきた。
イリヤは、割って入る余地を完全に失っていた。
二人の間に流れているのは、間違いなく好意だった。それは分かる。だが、その好意がどこから湧き、どこへ向かっているのかが、まるで読めない。戦場の戦局を見極めるより難しい。
そのとき。
ルリシアが笑った拍子に、白いクリームが一筋、彼女の髪に触れた。
「ルリ」
イリヤは自然に手を伸ばした。考えるより先に体が動く。
その手より、ソフィアの手が速かった。
「あら、ついてるわ」
白いハンカチが、ルリシアの髪をそっと拭う。
「あっ、すみません!」
「いいのよ。可愛らしいこと」
行き場を失ったイリヤの手が、宙を掻いた。ゆっくりと引き戻して、何事もなかったようにカップを手に取り紅茶を口に含む。
紅茶はすっかり冷めている。
ソフィアが、ちらりとこちらを見て――そして、にっこり微笑んだ。
(……彼女は、いったい何がしたいんだ)
**
「そうだわ、ルリシアさん」
しばらくして、ソフィアは紅茶を一口含み、思いついたように顔を上げた。
「お土産にケーキをいくつか買って帰りたいの。あなたのおすすめを選んでいただけないかしら」
「私でいいんですか?」
「あなたがいいの。さっきの目利き、見事でしたもの」
ルリシアは嬉しそうに立ち上がって、ショーウィンドウの方へ歩いていった。使用人がその後に続く。
残されたテーブルに、静けさが落ちた。
「……可愛いわね、彼女」
ソフィアが、その背中を見送りながら言った。
「あなたやレイラ様が過保護になるのも、よく分かる。あなたが動揺した姿を見たのも初めてだったわ」
「……ソフィア、君は――」
「ふふ。少し、意地悪だったかしら。デートの邪魔をして、ごめんなさい」
「……いや。邪魔というわけではないが」
「けれど……」
ソフィアはカップを置いた。
「会えてよかったわ」
先ほどまでとは違う響きに、イリヤは目を細めた。
「あなたの耳に入れておきたいことがあるの。クロウリー伯爵のことよ」
カップの水面が、わずかに揺れた。
「あなたは今、王の執行者の権限においてクロウリー家とは疎遠でしょう。だからまだご存じないのではと思って」
ソフィアは声を落とした。
「クロウリー家がここ最近、方々の家との繋がりを、内密に絶っているようなの。契約の更新をせず、共同の事業からも静かに手を引いている」
「……理由は」
「示されていないわ。それも含めて、異様なの」
それだけではない、と彼女は続けた。
「討伐の依頼も、どこの家からのものも軒並みお断りしているようなの……なのに」
言葉を切って、彼女はまっすぐにイリヤを見た。
「クロウリー家の騎士団は、各地で魔獣を討っているみたい。依頼を受けずに、独断で。討伐の報告だけはきちんと上がってくる。レイモンド様ご自身が出向かれることもあるとか」
イリヤは口をつぐみ、視線を落とした。
依頼を断り、契約を切り、それでも各地に出て手柄だけは立てている。貴族社会において、それがどれだけ信用を削る振る舞いか、あの人が理解していないはずがない。
「……当家の依頼も、先日お断りされたわ」
その一言が、いちばん重かった。
ヴェルモント侯爵家とクロウリー伯爵家は、両家が代を重ねて交流を続けてきた間柄だ。婚約の話が出るほど親密な関係を築いてきた。なのに伯爵はその家からの依頼さえ断った。
「今までこんなことは、一度もなかったわ。なにをお考えになっているのか。……少し、注意した方がいいわ」
イリヤは目を伏せた。
王の執行者の称号を得てから、父とは一度も会っていない。縁が切れたかのように静かだった。
「――それはそれとして」
ふと息を吐いて、ソフィアは肩の力を抜いた。
「私、その件で本当に困ってるの」
「……その件?」
「断られた依頼の件よ。ヴェルモント家は、リゾート地を開く予定なのだけれど。開業の前に、どうしても片付けなければならないものがあって」
彼女は少し身を乗り出した。
「そうだわ。イリヤ、あなたにご依頼できないかしら」
「何を……」
「該当海域に潜む魔獣の討伐と、周辺の視察を」
海域と聞いて、イリヤの表情が抜け落ちた。
それは『海』である。
喉の奥が塞がって、返す言葉が出てこない。ソフィアの声も、店内のざわめきも、一瞬遠くなった。
「イリヤ?」
「……いや、何でもない」
浅く息を吸って、彼は視線を戻す。そのときケーキを選び終えて席に戻ってくるルリシアの姿が目に入った。
「ソフィアさん、選んできました! やっぱり迷っちゃって……遅くなりました」
弾んだ声が店内に広がった。
ソフィアは笑顔で振り返り、それから思いついたように言った。
「ルリシアさん。よろしければ、あなたもご一緒にいらっしゃらない?」
ルリシアは「何の話?」と言いたげに青い瞳を瞬かせた。
「イリヤに、リゾート予定地のお仕事をお願いしたところなの。滞在中は施設の事前開放として、うちの別荘を使ってもらってもいいし、プライベートビーチもあるわ」
「プライベート、ビーチ……」
「近くには港町もあるわ。市場は活気があって、魚料理が格別なのよ。スイーツの店もあるし、観光地として今、より注目を集めているわ」
ソフィアの話に、ルリシアの目がみるみる輝いていく。だが、彼女はすっとイリヤの顔を見た。
「……でも海は、イリヤが泳げ――」
「待て、ルリ。そうではないんだ」
ルリシアの言葉をもの凄い速さでイリヤが遮った。あまりに必死な彼にルリシアは言葉を飲み込んだ。
沈黙がひと拍ぶん落ちた。イリヤは小さく息を吸い込み、どうにか声だけは平静を装って口を開く。
「……殿下に許可をもらう必要がある」
絞り出した言葉は、それだけだった。
「ええ、もちろん。正式なご返答はまた後ほど」
ソフィアは満足そうに頷いて、菓子の箱を抱えた使用人を伴い、優雅に立ち上がった。
「今日はお会いできて嬉しかったわ、ルリシアさん」
「こちらこそ、今日はたくさんお話できて嬉しかったです!」
「ええ。……今度は、私のおすすめのお店にご案内いたしますわ。では、また」
一礼し、最後に一度だけ、ソフィアはイリヤを見た。にっこりと微笑む。
「良いお返事を、お待ちしておりますわね。イリヤ卿」
**
学院へ戻る馬車の中は、静かな空気に包まれている。
ゴトゴトと車輪が石畳を踏む音だけが、途切れず車内に響いている。窓の外では、ぽつぽつと灯りはじめた街灯が王都の街並みを照らす。
ルリシアはイリヤの隣に座り、膝の上で指を組んだ。
「……ねえ、イリヤ? 海のことなんだけど……」
イリヤの肩が、わずかに動いた。
「私が海に行きたいって話をした時……イリヤ、すごく顔色が悪かったでしょう。あの時からずっと気になってて」
揺れる車内で、ルリシアは彼を見上げた。
「私、てっきりイリヤが泳げないから海が苦手なのかと思ってたの」
「……違う」
「なら、どうして?」
イリヤは窓の外へ視線を逃がした。
喉の奥に、言葉が引っかかる。ここで嘘をつくことはできる。適当に流すこともできる。だがこの少女は、こちらが誤魔化した時にだけ、なぜかそれを正確に見抜く。
「……海に、いい思い出がないだけだ」
小さく言い終えて、彼は膝の上で軽く拳を握った。ルリシアは、しばらく黙っていた。
その沈黙が、少しだけ長かった。
「……そっか、なら――」
ふと目を向ければ、澄んだ青い瞳が水面のように揺れ、まっすぐにイリヤを映していた。思わず、目が離せなくなる。
「私が、楽しい思い出に変えられたらいいな」
イリヤは、柔らかく微笑む彼女を見つめて動けなくなった。
楽しい思い出に変えられたら――寄り添うようなその願いが、深く心に響いた。
「……そういうことを言われたら……少し、期待するだろう」
ルリシアは小さく微笑みながら、きょとんと目を瞬いている。
イリヤは観念したように目を伏せ、耳の奥がじわりと熱くなるのを自覚しながら、付け足した。
「ルリとなら、本当に変わるかもしれないな」
そう言って、イリヤは困ったように小さく笑った。視線を和らげたまま手を伸ばし、ルリシアの頭にそっと触れる。
優しくひと撫ですると、彼女は心地良さそうに頬を緩めた。
「お仕事は引き受けるの?」
ルリシアの純粋な疑問にイリヤはふと考えた。
ソフィアが自ら家の名代として婚約解消を申し入れてくれなければ、父はまだあの話を諦めていなかっただろう。彼女は自分の立場を削って、こちらの道を開けてくれたのだ。
「……恩は、返さないといけないからな」
「うん、そうだよね」
ルリシアが頷く。それから、はっと顔を上げた。
「……ってことは」
青い瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「イリヤと、海で遊べる!?」
これは任務だ。魔獣の討伐と海域の視察が目的で、遊びに行くわけではない。
「あ、もちろん。任務のあとで!」
慌てて訂正しながら、無邪気で子どものような眼差しを向けてくる彼女に思わず笑みがこぼれた。
「……ああ。終わったらな」
「やったぁ!」
ルリシアが、勢いよく抱きついてくる。イリヤは彼女の背中に腕を回して、ふわりと抱き返す。
彼は、あらためて彼女には敵わないと痛感した。
**
三日後。執務室の空気は、あの日のカフェテリアより重く沈んでいた。
執務机の上には書類が山を成し、クロヴィスの手はその谷間を機械的に往復している。隣に立つルディナは表情ひとつ変えず、次の書面を読み上げては、殿下の手元に書類を差し込む。
翡翠の瞳が、目の前にいるイリヤを恨みがましく見据えている。判が紙を叩く音だけが、規則正しく絶え間なく続いていた。
「外出許可、貰いにきましたぁ!」
イリヤの隣で、銀髪の青年が元気よく声を上げた。その瞬間、クロヴィスの眉がぴくりと動く。
「許可……ねえ」
そう呟くと、クロヴィスの手が止まった。いつもは穏やかな瞳が、じろりと鋭さを帯びた。
イリヤとスノウがそろって口を閉ざす中、そんな空気など意に介さぬ様子で、ルディナは淡々と書面を読み上げていく。
(……どうして、こうなった)
イリヤは内心で、海より深いため息を吐いた。




