第1話 元婚約者と、恋人
王宮の練兵場に、鋼と鋼がぶつかる鋭い音が響き渡っていた。
昼近い陽光が砂埃を淡く照らし、交錯する刃の軌跡を白く浮かび上がらせる。二人の剣が本気で火花を散らしていた。
イリヤの手にあるのは、褒賞として贈られたばかりの剣だ。柄には王宮騎士団の紋が刻まれ、刃は薄く、しかし芯が通っている。
刃の滑らかさや硬度を確かめるだけのつもりだったが、クロヴィス殿下の隣に立っていた白い騎士服の男が「試し打ちなら、俺が相手になる」と笑い、こうして今に至っていた。
(――来る)
左からと、そう読んで身をかわした瞬間、ジルケットの剣が間髪入れずに打ち込まれていた。
ジルケット・ブライアンの剣は速い。ただ速いのではなく、こちらが「そこを守る」と決めた半瞬前に隣をすり抜け、かわした隙を逃さずさらに深く斬り込んでくる。
(……やはり、速い)
イリヤは無意識にでも魔法を使わないよう、魔法具『魔力抑制の腕輪』を装着して試し打ちに挑んでいた。
だがその条件を抜きにしても、速さと力量ではこの男が上だ。鋭い剣技に一度でも抑え込まれれば、その隙を突かれて押し込まれてしまう。
対してイリヤには、正確さがある。無駄のない動きに滑らかな剣筋。一合ごとに相手の癖を数え、次の一手を三つ先まで組み立てる。だから崩されない。踏み込みを潰し、間合いを削り、じりじりと相手の型を狭めていく。
打ち合いは、拮抗した。
やがて刃を押し合ったまま動きが止まった。イリヤは刃を弾いて距離を取った。そのまま構えを解く。
「なんだ、どうした?」
「――ジル。お前の勘の鋭さに、違和感を覚えたことはないか?」
ジルケットは眉を上げ、きょとんとした。
「勘?」
「読んでいるのではなく、先に知っているように見える」
「はは、褒めてくれるのか。単純に、場数を踏んでるだけだ。戦場では常に命懸けだからな」
嘘をついている顔ではなかった。本当に、何も思い当たっていない顔だ。
(……風の使者が死んだ、という話は聞いていない)
水の大精霊アクアリスは、風の大精霊ヴェントスは引きこもって行方が知れないと言っていた。使者が失われたのなら、地の大精霊テラの時のように向こうから話すだろうと彼の中で結論付けた。
(気のせいか)
思考を切り替えた瞬間、正面から突きが飛んできた。
**
練兵場の端で、数人の王宮騎士たちがひそひそと話している。
「これ、試し打ちだよな?」
「ああ、そう聞いた」
「試し打ちの熱量じゃなくないか?」
全員が互いに顔を見やる。打ち合う二人の周囲だけ、空気の密度が違って見える。剣戟の間隔は詰まる一方で、砂を蹴る音が絶えない。
「……ジルケット様があんなに楽しそうに試合するの、初めて見た」
「俺も」
ジルケットには少年のような笑顔が浮かんでいる。だがイリヤは眉ひとつ動かさず、ただ淡々と、目の前の男を攻略しようとしている。その温度差がまた、恐ろしいほどだ。
「そろそろ止めた方がよくないか……?」
不意に背後からのしかかった圧に、騎士たちはびくりと肩を震わせた。
「お、おい、後ろ……何かいる?」
「な、何だ、この圧……」
背後から刺されるような気配に、騎士たちは恐る恐る振り返った。
そこに居たのは、ルディナ・ヴォルテールだった。
水色の髪がさらりと揺れ、藤色の瞳がまっすぐ――騎士たちではなく、打ち合う二人を射抜いている。整った顔立ちには、隠しようもない険しさが刻まれていた。
「ルディナ様……」
「……あれ、相当怒ってないか?」
「余計なこと言うな。殺されるぞ……」
騎士たちの声は、震えながら小さく消えていった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
定刻を告げる音が練兵場を震わせた。イリヤの剣がぴたりと止まった。振り抜く途中だった腕をそのまま下ろし、彼は踵を返す。
「おーい、待て待て待て」
ジルケットが慌てて追いすがった。
「いいところだっただろッ! もう少し付き合え!」
「無理だ」
「なんで?」
イリヤは足を止め、振り返った。
「ルリとの約束がある」
「……あっ……いや、それは」
「最優先事項だ」
思いっきり睨まれた。
王国一と称される騎士は、それ以上何も言えなかった。剣を鞘に納めたイリヤが、迷いなく門へ歩いていく。
「……本当に、一途なことで」
残されたジルケットは苦笑して首の後ろを掻いた。すると、背後から冷えた声がした。
「ジルケット」
振り返ると、空気が一段下がった。
「あなた、まさか私との約束を忘れていたわけではないでしょうね?」
「…………あれ、今日……だっけ?」
藤色の瞳から殺気が放たれている。真顔が逆に怖い。
「何か言うことは?」
「……ごめんなさい」
**
王都大通り『エンチャント・ジェムズ』。
重厚な木製の扉が閉まると、上品なベルの音が背中で鳴った。
「一週間後だって」
石畳の路地に出たルリシアは、どこか気の抜けた顔をしていた。
「エーテル・コアと同等の硬度って言ってたもんね。加工に時間がかかるみたい」
「結晶石を見て、目が落ちそうな顔してたな」
「うん、二人とも固まってたもんね。伝説の結晶石って本当だったね。スノウに感謝しなきゃ」
イリヤは少しだけ口元を緩めた。
「調子に乗って、また仕事を放棄してくるぞ」
ルリシアは「そうかも」と返し、自然と笑いが溢れた。今回の指輪には輪の裏側に名前を入れることにした。彼女は幸せそうに、ずっと顔が緩んでいる。
イリヤがそんな彼女の手を取り、指を絡めた。
「……次は、どこへ行きたい?」
「どこでもいいの?」
「ああ、今日は一日空けてある」
午後の陽が、大通りの方から路地に差し込んでいた。菓子屋の焼ける甘い匂いと、花屋の香りが混ざって流れてくる。
ルリシアは少し考えてから、遠慮がちに彼を見上げた。
「……王立図書館に行きたいな」
「図書館か……」
「だめ、かな……デートっぽくないよね」
「いや、俺たちらしいと思っただけだ」
イリヤは優しく彼女を見つめ、目を細めた。その視線に気づいたルリシアは、嬉しそうに頰をほころばせる。
「行こうか」
「うん!」
繋いだ手がぎゅっと握り返され、二人が並んで歩き出すと、石畳を踏む足音が軽やかに響いた。
**
王立図書館の閲覧室は、学院の図書室の三倍の広さがある。
天井まで届く書架が幾重にも並び、人は多いが、話す声はほとんどしない。誰かがページをめくる音が、遠くで小さく聞こえるだけだ。
ルリシアは精霊学の棚に張りついていた。
「イリヤ、これ見て。四大精霊の記述、学院の本と全然違うの。こっちは召喚された記録が年代順に――ううん、それより、加護と契約は別のものだって書いてある」
「……どれだ」
「闇の精霊ノクティスのことも書いてあるよ」
二人で一冊を覗き込む。肩が触れる距離だった。やがてルリシアが、あるページで指を止めた。
「やっぱり、ライアスのことは載ってない」
ぽつりと呟くルリシアをイリヤは見つめた。
「四大精霊の他の記述はあるのに、光の系譜のところだけ、ぽっかり空白なの」
イリヤはしばらく黙って、それから立ち上がった。
「なら行ってみるか」
「え、どこに?」
「一般には公開していない書架がある」
閲覧室の奥の、目立たない扉だった。控えていた司書はイリヤの顔を見ると、それだけで姿勢を正した。
「王の執行者の名において、閲覧を」
「承知いたしました」
乾いた空気が広がっている。埃と、古い革の匂い。学院の図書室にある本とは、紙の色からして違っていた。
その中の一冊に、それはあった。二人は並んで座り、ページを開いてゆく。
【ライアス。光の系譜に属する精霊。守護の名を持つが、その本質は守護にあらず】
【初代聖女セレナは、生涯において四大精霊のすべてを召喚し、その姿を見た。ただ一柱、ライアスを除いて】
「……姿を、見られなかった?」
ルリシアの声が、少し震えた。
【ゆえに古き記述はこれを〈愛の精霊〉と呼ぶ。求めて現れる精霊にあらず】
指先が、紙の上で止まる。聖女が呼べなかった精霊を自分は召喚し、その姿を三度見た。
脳裏に、あの皇太子の声が蘇る。
『そなたは、聖女の運命から逃げられん』
喉の奥が、ひどく渇いていた。
「イリヤ」
ルリシアは顔を上げた。
「……聖女って、どうやって生まれるものだと思う?」
互いの視線が絡み、束の間の静寂が室内に落ちていた。やがて、イリヤが小さく紡ぐ。
「……分からない」
彼は彼女から目を離さずに続けた。
「正確に言うなら、記録がない」
「やっぱりルーメンシア王国が……」
「そうだ。光魔法に関する一切は、彼の国が国家機密として抱えている。聖女の記録も同じだ。どうやって聖女が誕生するのか、外には何ひとつ出てこない」
ここに残されているのは伝承だけだ、とイリヤは話した。初代聖女セレナが大精霊を通して、四つの加護を守護者たちに分け与えた――それ以上のことは、どの文献にも書かれていない。
「……そっか」
本に添えられたルリシアの手に、わずかに力がこもった。
イリヤは黙って、伏せる青い瞳を見つめた。いくら問いを重ねても、アクアリスは聖女に関わることだけは決して答えない。
不安そうな横顔に、イリヤはそっと手を重ねた。
「……ねえ、イリヤ」
顔を上げたルリシアが、笑った。
「私は、ただのルリシアだよね」
問いではない。不安を拭ってほしいという響き。イリヤは真っ直ぐに彼女を見つめ、口を開いた。
「お前がただのルリシアでも、そうでなくても……俺がお前の隣にいる理由は、変わらない」
「……うん、ありがとう。私も変わらないよ」
「ああ、ずっと一緒だ」
ルリシアの肩から力が抜ける。安心した顔だった。イリヤはその肩にそっと腕を回し、彼女を自分の方へ引き寄せた。二人は温もりを分け合うように頭を寄せ合うと――。
ぐぅ、と小さな音が静寂に落ちた。
「…………」
「…………」
ルリシアが真っ赤になって、両手で顔を覆ったままイリヤの胸元に顔を埋める。
「ちがっ、ちがくて、今のは……その、本の埃で喉が鳴ったの」
「喉の虫が鳴いたのか」
イリヤは小さく笑い、ルリシアを抱きしめた。
「ジルに付き合わされて、昼を食べ損ねた」
「……え」
「隣にカフェテリアがある。何か食べよう」
彼女は即座に彼を見上げた。ぱあぁっと笑顔が弾ける。
「食べたい!」
**
カフェテリアのショーウィンドウには、色とりどりのケーキが並んでいた。
色鮮やかな果実をのせたタルトに、濃厚なチョコレートケーキと、白いクリームと苺を添えたシフォン。栗のクリームを絞ったものの隣には、木苺のムースに砂糖菓子の花が飾られている。
「……こっちも美味しそう。こっちも食べてみたい……でも、こっちも……」
「ルリ?」
「……うぅ……決められません」
ルリシアはガラスに額がつきそうなほど顔を寄せたまま、悲痛な声を出した。
「食べたいもの、全部頼めばいい」
「そんなに食べきれないよ」
「半分は俺が食べる」
「え、でもイリヤは甘いの苦手でしょ?」
イリヤは真顔で答えた。
「豆よりは食べられる。……それに」
少しだけ目を伏せて、彼は言った。
「ルリと同じものを食べないと、感想を言い合えないからな」
ルリシアは目を丸くして、微笑んだ。
結局、彼女は五つ頼んだ。
イリヤが銀のフォークで几帳面に半分に分け、片方をルリシアの皿へ移す。
木苺のムースは酸味が勝っていて、ルリシアが「すっぱい!」と目を丸くすると、イリヤは「悪くない」と言った。栗のクリームを口に入れた瞬間だけ、彼の眉がほんのわずかに寄る。
「今、甘すぎって思ったでしょ?」
「……いや、気のせいだ」
「ふふ、眉が寄ってたよ。そっちは私が食べるから、木苺のムース、こっちを多めに食べて」
ルリシアが楽しそうに笑う。窓から差し込む午後の光が、二つの皿の縁で跳ねていた。
「あら、こんなところで会うなんて奇遇ね」
澄んだ声が、頭上から降ってきた。
銀色の髪を上品に結い上げた令嬢が立っていた。水色の瞳が、柔らかく細められている。
イリヤのフォークが止まった。
「ルリシアさん、お元気そうね」
「あっ!」
ルリシアは目を見開いて、それから勢いよく立ち上がった。
「あの時の! 王都での――あの後、ご無事でしたか!? ずっと気になってて」
「ええ、おかげさまで。あの時は助けてくれて、あなたには本当に感謝しているわ」
令嬢はくすりと笑って、穏やかに続けた。
「一度、お茶をご一緒したいとお伝えしていたのだけれど……」
彼女は固まるイリヤをちらっと見る。彼の赤い瞳がわずかに揺れている。
ルリシアは不思議そうにイリヤと令嬢を交互に見やった。
「ふふ……そうだわ。あの時は切迫した状況でしたから、ご挨拶が遅くなりましたわね」
そして、ゆっくりと名乗った。
「ソフィア・ヴェルモントと申します」
「私はルリシア・クリスティーノです!」
ルリシアは、慌てて頭を下げた。
「ええ、存じ上げているわ」
にこやかに礼を返すソフィア。
「……そう、でしたか。……ん? ヴェルモント?」
頭を上げたルリシアは、考えるように首を傾げた。
――そのとき。
ごくっとイリヤの喉が小さく鳴った。
甘いものを食べて気分が悪くなったのか、この状況に耐えかねたのか、喉の奥には言葉ばかりがつかえ、ついさっきまであったはずの甘味は、いつの間にかきれいさっぱり消えていた。




