序章
エメラルド王国、王宮の一室。
窓には重い帳が下ろされ、外の光を完全に遮っていた。卓の上には報告書の束が整然と積み上げられ、室内には紙の乾いた匂いと、わずかな緊張だけが漂っている。
クロヴィスが指先で一つの紙束を滑らせた。
「では、確認していこう」
卓を囲むのはクロヴィスを含む四人。ジルケット、ルディナ、そして王宮魔導士部隊の最高顧問エルウィン・ヴァレリウス。皆の視線がクロヴィスの手元に集まる。
「シルヴァリス帝国から届いた、供述の写しによるとアレクシス・ヴァルドリックスの帝国が公表した罪状は、闇の君主の封印解除への関与。それのみだ。地下の件は、帝国内で処理される」
「……表には、出さないということですか?」
ルディナが問いかけた。ジルケットが腕を組み、口を挟む。
「公にしたら、帝国そのものが崩壊しかねない」
「……それは……そうね」
「保護された者たちは、レオン殿下が引き受けておられる。そちらは順調だと聞いている」
クロヴィスが次の紙を引き出しながら、続けた。
「問題は、動機のほうだ。アレクシス・ヴァルドリックスは黙秘を続けている」
彼は翡翠の瞳に、翳りを落としながら言った。
「これほどまでの犯罪に手を染めた目的については、どれだけ問うても一言も答えなかったそうだ」
室内に、重い沈黙が沈む。誰もすぐに口を開こうとはしなかった。
「ひとつ、資料がございます」
ルディナが手元の紙を差し出した。
「帝国の公記録です。アレクシス殿下の生母は、側妃。闇への適性が高いことで知られた家の出です」
ジルケットが複雑そうな顔で呟いた。
「それは……闇を継げる子供を産ませるために、呼ばれた妃ってことか?」
「そうかどうかは、こちらでは判断できないわ」
ルディナが淡々と返す。
「ただ、第二皇子レオン殿下は、正妃の一人息子です。本来ならレオン殿下が正統な後継者ですが、継承権を得られなかった。闇魔法を扱えるかどうか、それだけで」
「生まれる前から、役目が決まっていたということ」
エルウィンが、静かに引き取った。
「何のために生まれたのかを、幼い頃から知らされて育つ。……それは、業にございます」
クロヴィスは頷いた。翡翠色の瞳が、書き写しの紙片へ落ちる。
「だが――これだけでは、動機を証明するものにはならない。役目のために生まれた。父に見られず、弟が愛された。……よくある話だ。どこの王家にもある」
指が、紙片の端を押さえた。
「皇位を持って生まれながら、人を素材と見なすまでに至る。その空白こそが、動機の見えぬ人間の恐ろしさだ」
その言葉が落ちた瞬間、三人はみな口を閉ざした。やがて、ジルケットが背もたれに体を預けた。
「それで、あの黒剣のやつは?」
「ヴォルガー・ナイトレイ。……行方不明のままだ」
ジルケットの問いにクロヴィスが首を振る。
「帝国が国境まで捜索を広げたが、痕跡ひとつ出ない。生死すら不明だ」
「あの炎に運ばれてったんだ。……ヴェルディガルド帝国にいるんじゃねぇか?」
「ならば、尚のことこちらからは追えなくなる」
クロヴィスは、渋い顔でため息をひとつ吐く。
「なにせ彼の国は、国境会議にすら姿を見せないのだからな」
面倒くさそうにジルケットが頭をかいた。
「また新たな火種になりそうだな」
「以降もシルヴァリスと協力して捜索は続ける」
次の紙を取り上げると、クロヴィスのその手が、一度止まる。
「……ここからが、本題だ」
卓の上に、小さな箱が置かれた。蓋が開けられると、中には黒い石をあしらった銀の勲章が収まっていた。ルディナが目を細めた。
「これは……」
「ルリシア嬢が、アレクシスから直々に授けられたものだ。彼女が持ち帰り、念のため魔導開発機関に調べさせた」
クロヴィスが老顧問へ視線を向けると、エルウィンは箱の縁に触れた。
「これはエーテル・コアの欠片にございます。間違いなく、皇太子の部屋にあった物証と同一のもの。魔力を吸い、標的と繋がり、位置を伝える。加えて、幻覚を見せる作用もあったようです」
老顧問の声音はあくまで静かだったが、その指先に触れられた箱の縁だけが、証言の重さを物語っていた。
「敬意の証ではございません。これは印にございます。胸元に留めさせ、いつでも手繰り寄せられるよう仕掛けられていたのでしょう」
クロヴィスの拳が、卓の上で固く握られた。声色は穏やかなままだが、厳しさを帯びていた。
「ルリシア嬢は、その後実際に攫われている。……この勲章は、その一連の証拠になる。誘拐と監禁について、我が国から正式に告発した。帝国も受理している」
「せめてもの、ってやつか」
ジルケットが吐き捨てる。
しばらくの沈黙のあと、クロヴィスが姿勢を正した。
「では、確認したい。……アレクシスは、ルリシア嬢を聖女と呼んだ。エルウィン、あれはどこまで真に受けるべきものだ」
老顧問は、しばらく黙って考えていた。やがて、ゆっくりと語り出す。
「文献に残る聖女とは――全属性を扱い、あらゆるものを癒し、四大の精霊を従え、光の大精霊エンジェルさえその傍らに置いたと伝わっております」
乾いた咳を一つ落として、老顧問は続けた。
「……ルリシア嬢は、四大すべてを扱います。そこだけは確かに重なる。ですが、それ以外は何一つ当てはまりません」
「そうだな、我が国をもってしても、治癒の魔法は未開拓だ」
「ええ。精霊を従えてもおられぬ。四大を扱う者は稀ではありますが、絶えているわけでもございません。老いぼれも、その一人ですから」
自嘲めいた響きだった。
「あの娘は、四大属性の稀有な使い手。それ以上ではございません」
部屋が、わずかに緩んだ。――だが。
「……ならば」
ルディナが、不思議そうに口を開いた。
「なぜ皇太子は、あれほど確信していたのでしょう」
緩みかけた空気が、また止まった。
「あの方は、供述でもはっきりとルリシアを『聖女』と呼んでおります。……当てはまらないのに、なぜ」
誰も、答えを持っていない。
「わかっているのは――」
クロヴィスが、ようやく言った。
「帝国の皇太子が、あの子が聖女の器に相応しいと信じていた。その事実だけだ」
そして、一度息を吐いた。
「……もう一件ある。イリヤのことだ」
ジルケットの眉が、ぴくりと動いた。
「彼が加護の使者であることは、これまで伏せてきた」
「――加護の、使者」
声を上げたのは、エルウィンだった。その手が、卓の縁を掴んでいる。
「……クロウリー卿が、ですか?」
「すまない、エルウィン。イリヤからの要望で伏せていた」
「……いえ。伏せられて当然の話にございます。ただ」
老顧問は首を振った。だが、その目は卓の上の一点に据えられたまま動かない。
「わたくしは、あれを寓話だと思っておりました。聖女セレナが、大精霊を通して守護者たちに分け与えたという四つの加護。……古い文献の飾りだと。祈りの言葉が、いつしか物語になったのだと」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「その加護の使者が、実在した。……なるほど。彼の強さの根源が、ようやく腑に落ちました」
クロヴィスは、全員を見渡した。
「話を戻す。……問題は、今回イリヤの力が不特定多数の人間の目に触れたことだ」
翡翠色の瞳が、鋭くなった。
「イリヤは、騎士科の剣士だ。魔力量が足りぬ者が剣を取る。それがこの世の通りだ。……その剣士が、帝宮であれほどの規模の氷を振るった」
「……見た者は?」
ルディナが心配そうに問いかけた。
「……数えきれないな」
クロヴィスは深く息を吐いた。
「一人でも口を割れば、話は繋がる。剣士が魔法を使う。しかも誰も見たことのない氷を。ならばあの男は何者だ、と」
卓の上の指が、ゆっくりと動く。
「そこへ、あの子の四属性の話が並ぶ。……並べられたら終わりだ。加護の使者と、全属性を扱う娘。アレクシスが揃えようとしたものが、そのまま揃って見える」
ルディナが険しさを滲ませながら「ルーメンシアが、動きますね」と、ため息と共に吐くと、引き継ぐようにエルウィンが口を開く。
「聖女の伝承を抱えた国です。他国に聖女候補となり得る娘がいるなどと聞けば、確かめずにはおられますまい」
「ああ。……そこでだ」
クロヴィスは、一枚の紙を卓の中央へ滑らせた。指が、紙の端を叩いた。
「イリヤ本人から、要請が来ている。加護、氷、四属性。この三つを繋げる記録を、一切残さないでほしいと。学院にも、帝国にも同様に要請してほしい。……そう書いてある」
「……はは、あいつらしいな」
ジルケットが、小さく笑った。
「自分のこと隠すってより、ルリのついでみたいな感じだろ……」
「そうだろうな。だが、判断としては正しい。異論のある者は?」
誰も、手を挙げない。クロヴィスはわずかに緊張の糸を解いた。
「では、二人に関する情報はすべて重要極秘扱いとする」
クロヴィスは紙を伏せ、最後の一枚を引き出した。
「もう一つ、報告だ。……スノウ・シルヴァートの処遇が決まった」
三人の視線がクロヴィスに集中した。先程までとは違い、彼の表情には満面の笑みが浮かんでいる。
「我が国で、目一杯働いてもらうつもりだ」
**
ヴェルディガルド帝国、帝城。
長卓の上は、さまざまな料理で埋め尽くされていた。
丸ごと焼かれた鳥。香草を敷き詰めた肉の塊。湯気の立つ煮込み。焼きたての菓子が山になり、果実が籠から転げ落ちている。
その中央で、少女が実に幸せそうな笑顔を浮かべて食べていた。
赤からピンクへ流れるウェーブのかかった髪を高く結い上げ、薄い褐色の肌に橙色の瞳。
見た目は十五かそこらの少女の姿をしている。両手に骨つき肉を握り、行儀も何もなく齧りついている。
「んーっ、おいしぃ!」
骨を放り、次の皿へ手を伸ばす。
その背後で、扉が開いた。
入ってきたのは、背丈の大きい男だった。鎧の下でも隠しきれない厚い体躯を持ち、長い赤茶の髪を無造作に流し、その双眸は深い碧玉の色をしている。
ヴェルディガルド帝国皇帝、レグルス・ヴェルディガルド。
「――イグニス」
低く、よく通る声が部屋に響く。
「あ、レグたん。おかえり〜♡」
少女は口をもごもごさせたまま、片手をひらひらと振った。
レグルスは眉ひとつ動かさず、長卓の端に腰を下ろす。
「水の使者は、どうだった」
「見つけたよ!」
イグニスが、ぱっと顔を上げた。橙の瞳がきらきらと輝いている。
「あの赤目の子で間違いないよん!」
「……そうか」
「やっと遊べるね!」
少女は椅子の上で膝を立てた。
「もう、あたしたちと遊んでくれるの、あーちゃんたちくらいだもん。テラっちはずーっといじいじしてるし、ヴェティーなんて引きこもって行方知らずだし」
頬を膨らませて、また肉に齧りつく。
「暇すぎて、つまんないの」
「…………」
レグルスは何も言わず、彼女が食べるのを眺めていた。
「あ、でもさ!」
イグニスが、思い出したように顔を上げた。
「あの赤目の子。ちょっとおかしいんだよね〜」
「おかしいとは?」
「『氷』だよ」
骨を皿へ放って、少女は指を一本立てた。
「あれ、あの子のオリジナル魔法だと思う。あーちゃんの使者で、あの規模の氷魔法を扱う子なんて見たことないもん」
レグルスの碧玉の瞳が、わずかに動いた。
「では、あの騎士は『特殊』ということか」
「ん〜」
イグニスは首を傾げ、頬に指を当てた。
「水の使者自体がちょーっと特殊だからなぁ。どうだろ?」
「……どういう意味だ」
「んふふ♡」
少女は笑って、皿の上の菓子をひとつ摘まんだ。
「現時点で言えることはね……」
口へ放り込む。
「加護がひとつじゃない可能性があるってこと!」
もぐもぐと咀嚼する音だけが、しばらく続いた。
「……意味深だな」
レグルスが、ひとつ呟く。
「では、我は奴に劣ると?」
「まっさかぁ!」
イグニスが、身を乗り出した。
「レグたんには、あたしがついてるんだよ!? 負けるわけないじゃん!」
褐色の腕が、するりと伸びる。
彼の首に絡みつき、少女は耳元へ顔を寄せた。橙の瞳が、灯りを受けてゆらゆらと揺れる。
「あたしの愛は、レグたんを導くもの」
甘い声だった。
「ぜーんぶ燃やし尽くしちゃおう?」
レグルスは、ふと笑いイグニスの頭を撫でた。イグニスは満足そうに彼の頬に擦り寄った。
長卓の上の料理は、いつの間にか、ほとんど残っていなかった。
**
エメラルド魔導学院、食堂。
昼下がりの陽射しが窓から差し込み、皿の触れ合う音と話し声が、明るくざわめいている。
「ねえイリヤ、こっちも食べる?」
ルリシアが、自分の皿から一切れをフォークで持ち上げた。
「……豆は入っていないな?」
「ふふ、入ってないよ」
「ならもらう」
差し出された一口を、イリヤが受け取る。ルリシアが嬉しそうに笑った。いつも通りの平和な昼食の時間が流れる。
――そのとき。
「見つけたぁぁ!!」
食堂の入口から、よく通る声が飛んでくると、振り返るまでもなく、ルリシアのフォークが止まった。
「なんか嫌な予感が――」
「ルリ! イリヤ!」
銀髪の男が、人をかき分けて一直線に走ってきた。勢いのまま卓に両手をつき、目を輝かせて言い放つ。
「海行こう! 海!」
「……海?」
「海! 俺、海見たことないんだよね! この国、海あるでしょ!?」
周りの生徒たちが、何事かと一斉に振り返る。
「ちょ、ちょっと、スノウ、声が大きいよ……!」
「いいじゃん! 三人でさ、あと何人か誘って! ぱーっと!」
ルリシアとイリヤの間に、困ったような、呆れたような視線が絡む。
「――スノウ殿!!」
食堂の入口から、別の声が響いた。
息を切らせた魔導士が二人、ローブの裾を蹴立てて駆け込んでくる。
「あっ」
スノウの顔が引きつった。
「勝手に王宮を抜け出さないでいただきたい! これで、何度目ですか!」
「え〜、だってさぁ! 書類ばっかで死んじゃうよ俺!」
「死にません! 戻りますよ!」
両脇を固められ、スノウが引きずられていく。
「ちょ、待って! ルリ! 海! 海だからね! 絶対だからね! 約束!」
「し、してないよ!?」
声が遠ざかり、やがて扉の向こうへ消えていった。食堂に、しばしの静けさが落ちる。
やがて、あちこちで笑い声が上がりはじめた。
「……相変わらずだね、スノウ」
ルリシアが、くすくすと笑いながらフォークを取り直す。
「王宮のお仕事、大変なのかな」
「自業自得だ」
イリヤが、そっけなく言った。
ルリシアは笑って、それから、ふと窓の外へ視線を向けた。今日も良く晴れている。
「……海かぁ」
ぽつり、と呟いた。
「私も、行ったことないんだよね」
白い雲がゆっくりと流れていく。それを目で追いながら、ルリシアの頬が、じわりと熱を持ちはじめた。
「……あのね。海なら、私も行きたいなぁ……」
声が少し小さくなり、指先が無意識にフォークの柄をいじる。向かいのイリヤの手が止まる気配があったが、ルリシアは言葉を選びながら続けた。
「……イリヤと二人で」
言ってしまってから、慌てて付け足した。
「あっ、えっと、もちろんみんなと一緒でいいんだけど! その、二人でも……遊べたら――」
頬を染めて、ちらっと向かい側に座る彼の様子を窺う。
――そして、言葉を失った。
イリヤの顔から、血の気が引いていた。
いつもの静けさでも、不機嫌でもない。赤い瞳が、見開かれたまま一点を見ている。持っていたはずのフォークが、皿の縁に当たって高い音を立てた。
「……イリヤ?」
ルリシアが、そっと顔を覗き込む。
彼は完全に固まっていた。やがて、絞り出すような掠れた声が落ちた。
「……海、だと」
窓の外で、太陽の光が眩しく揺れている。
「え……? あの、イリヤ?」
戸惑うルリシアの声も、届いていないようだった。




