第3話 私も遊びたい
「イリヤ。君の任務については異存はない。ヴェルモント侯爵家からの正式な依頼で、王の執行者が動くに足る内容だ」
判が、二度、乾いた音を立てて鳴った。紙面に王家の紋がくっきりと浮かぶ。
「感謝いたします」
イリヤは深々と頭を下げた。隣で書類を読み上げるルディナが、次の書面を淡々と差し出す。
「それで……」
判を押しながらクロヴィスの視線が、隣に立つ銀髪の男へ滑る。
「なぜ、そなたにまで許可がいる?」
説明したくはなかった。しかし説明しなければ、この場が終わらない。イリヤは小さく息を吸い、口を開こうとした――その瞬間。
「あ、俺が説明しまーす!」
愉快すぎる声が横やりを入れてきた。
◇
――昨夜、男子寮の食堂。
夕食の喧騒がようやく落ち着きかけた頃だった。イリヤは卓の片隅で書類と睨めっこをしていた。ソフィアから送られてきた魔獣の討伐計画と海域の簡易地図。そこへ、スノウが勢いよく飛び込んできた。
「海、行くんだって!? もちろん俺も連れて行ってくれるよね!?」
スノウは卓に両手をついて身を乗り出し、碧色の瞳を輝かせた。イリヤは書類から目も上げずに答える。
「駄目だ」
「なんで!?」
「任務だ。遊びに行くわけじゃない」
「働くよ! 討伐手伝う! めちゃくちゃ働くから!」
「お前は王宮で働く立場だろう」
「あんなの毎日書類だよ! 人間のやることじゃないよ! 得意な闇魔法を目一杯使わせてくれるのかと思ったのに制限きついしさッ!」
「当たり前だ。ここはシルヴァリス帝国じゃない。闇魔法の乱用は国の混乱を招く」
「だから、外任務で発散したいのッ!」
「しつこい。駄目なものは駄目だ」
スノウは向かいの椅子に勝手に腰を下ろし、じっとイリヤを見つめた。しばらく沈黙が落ちたあと、彼はにやりと口の端を上げる。
「……あ。わかったぁ〜」
「なんだ」
「イリヤってば、ほんと嫉妬深いよねぇ」
にやにやと、スノウは言い放った。
「ルリの水着姿、独り占めしたいんでしょ?」
――パキッ。
卓の上のコップの水面に、薄く氷が張った。イリヤの手が、ゆっくりと剣の柄へ伸びた。
「うわっ、待って! 冗談! 冗談だって!」
「表に出ろ」
「なんで剣に手ぇかけてんの!?」
「自分の発言には、最後まで自分で責任を持て」
「もういいよ! 勝手に着いて行くから! 殿下に外出許可もらえばいい話だしッ!」
◇
「――という訳でっす!」
スノウが胸を張って締めくくる。イリヤは殺気を孕んだ視線を彼に向けた。
「お前、余計なことまで報告するな」
クロヴィスが額を押さえた。
「本人が押しかけてきただけです」
「そうだよ、押しかけただけ!」
イリヤが冷静に答えると、隣でスノウが勢いよく頷いた。クロヴィスの口元から深いため息がこぼれ落ちた。イリヤは表情ひとつ変えずにまっすぐ言い放つ。
「殿下、この男をシルヴァリスに返還しましょう」
「ひどいッ!」
スノウはまったく怯む様子もなく、机に身を乗り出した。碧い瞳が、子供のように輝いている。
「ねえ殿下、俺も行きたい! 海! いいでしょ? ね?」
クロヴィスは、しばらく黙って彼を見ていた。それから、隣に立つ女性魔導士へ視線を向ける。
「ルディナ」
「はい」
「この男は、今月だけで何度、王宮を抜け出した」
「六度でございます」
即答するルディナの声は一片の感情も混じらない。
「今月はまだ二週間も経っていないな」
「はい、まだ十日目です」
スノウの笑顔が、ゆっくりと引きつっていく。
「ちょっ、待って、それ数えてたの!?」
「記録は業務です」
ルディナは表情ひとつ変えず、次の書面をクロヴィスの手元へ差し込んだ。
「イリヤは信用している。自分の任務に他人の都合を持ち込まない男だ」
言いながら、ぱん、と紙を叩く音。
「だが君は違う。君は面白そうな方へ勝手に走る」
「そんなことないよ!?」
「六度目の脱走は今日だと、たった今聞いたが」
スノウが黙った。言葉を失った銀髪の男をよそに、クロヴィスは書類の山を睨みつけたまま、新しい一枚を引き寄せる。
判を押す。次を引き寄せる。判を押す。機械的な動作が、執務室に単調なリズムを刻む。
その手が、ふと止まった。
「……私も……遊びたい」
執務室の空気が、一瞬止まった。イリヤとスノウとルディナが、同時に彼を見る。
「殿下……」
イリヤが呟くように呼びかけると、クロヴィスは即座に遮った。
「聞け、イリヤ。私は今朝から二百枚に判を押している。二百枚だぞ。窓の外が明るかったことすら覚えていない」
「溜め込むのがいけないのですよ。殿下、次の書面です」
「……ぐっ! よ、読み上げなくていい! いや、読み上げてくれ、ルディナ頼む……」
ルディナは読み上げ、書類を差し込んだ。クロヴィスが判を押す。押しては次、押しては次。紙の感触すら感じ取らないほど、彼の動作は機械のようになっていた。
「……海か」
彼の目が、遠くを見た。窓の外の景色など、とっくに視界から消えている。
「よい響きだな。波の音がして、風が潮の匂いを含んでいて、誰も私に書類を持ってこない」
「殿下、場所が変わっても私が書類を持って行きます」
「わかっている。これは運命だ。王家の人間として生まれた私の。書類とは何があっても離れられない」
判が鳴った。押しては次、押しては次。ルディナが差し出す紙を、彼は見もせずに処理していく。
その、単調な繰り返しの中で。
――スッと手が伸び、書類の束の端に、一枚の紙をそっと滑り込ませた。
誰の手かは、誰も見ていなかった。あるいは、見て見ぬふりをしたのかもしれない。
ぱん、と何度目かもわからない、乾いた音が鳴った。
「――よし、今日はここまでにする」
クロヴィスが判を置き、大きく伸びをした瞬間だった。
「許可ありがとうございまーす! じゃあ俺、先に準備してるね!」
スノウが許可証をひらひらと掲げ、満面の笑みで踵を返す。
クロヴィスの動きが、ぴたりと止まった。伸びをしていた腕が宙で凍りつき、翡翠の瞳が見開かれる。口が半開きのまま、言葉にならない息だけが漏れた。
今、自分が何を押したのか――いや、いつ押したのかすら、理解が追いついていない。
「あ、こら――!」
クロヴィスが椅子から立ち上がろうとした、その横で。ルディナが淡々と、別の一枚を机の上へ滑り込ませた。
「殿下。こちらは、ラピス王国アメリア王女殿下との婚姻承諾書です」
厚手の上質な紙。王家の紋が金箔で丁寧に押されている。クロヴィスの手が、ほぼ無意識に判を握り直す。押す――その寸前に、翡翠の瞳がはっと見開かれた。
「……待て。今、なんと?」
判を持つ手が宙で凍りつく。クロヴィスは書類を睨みつけ、それからルディナを睨んだ。
「こんな大事な案件を、こんな時に持ってくるんじゃない!」
声が、珍しく高くなった。執務室に響いた叱責に、ルディナは動じることなく、淡々とクロヴィスの意気地のなさをたしなめる。
「いつまでも意地を張らずに、さっさとお手を取られたらいかがです? 女性を待たせるのは、王家の礼を欠く行為かと存じますが」
「い、いいいっ、今はそんな話をしていない!」
クロヴィスが机を叩くように声を上げた、その隙に廊下を駆け抜ける足音が、遠ざかって行った。許可証を高々と掲げたまま、楽しげな声が階段の向こうで消えていく。
「……はぁ」
イリヤが、短くため息をついた。
クロヴィスは椅子にへたり込み、こめかみを押さえる。翡翠の瞳が、痛みに細められていた。
「イリヤ……あれを、頼む」
「はい」
「私も……遊びたい。お土産、買ってきてくれ」
弱々しく漏れた言葉に、イリヤは哀れむように唇を緩めた。
「殿下……」
そして、きっぱりと言い添える。
「遊びに行くわけではありません」
「わかっている。……わかっているとも」
クロヴィスが顔を覆ったまま呟く横で、ルディナが次の束を静かに取り出した。
「殿下。追加の報告書です。北部防衛線の戦力再編案、魔導開発機関からの予算申請、それに来月の外交使節団の接待計画――」
一枚、また一枚と、机の上に積み上げられていく。紙の乾いた音だけが、執務室に規則正しく響いていた。
クロヴィスは指の隙間から、その山を覗き込む。
「……運命だな」
永遠に続く書類との縁に、再び哀しげなため息が漏れた。
**
王宮の回廊。
スノウはとうに姿を消していて、追う気にもなれず、イリヤは一人、出口へ向かって歩いていた。
その足が止まる。
向かいから、供を連れた男が歩いてくる。
仕立ての良い濃緑の上着。白いものの混じった栗色の髪をきっちりと後ろへ撫でつけ、顎を上げた歩き方をしている。イリヤの前でその男が足を止めた。
「――ほう」
値踏みするような目が、イリヤを上から下まで撫でた。
「これはこれは。噂の『王の執行者』殿ではないか」
「……失礼ながら」
「コンラート・オルドリックだ」
男は、ひどく尊大な響きを声にのせて名を告げた。
オルドリック侯爵家。イリヤの知る限り、古くから続く家格の高い家だ。近年は、保守派の貴族たちを束ねる立場にあると聞く。
「オルドリック侯爵閣下。ご挨拶が遅れました」
イリヤは礼を執った。
侯爵はそれを当然のものとして受け、鼻から息を漏らした。
「若い身でその座を得るとは、ずいぶんな厚遇だな。まあ、国を救った功を掲げられては、王宮も黙ってはおれぬか」
「……過分な評価をいただいたものと思っております」
「評価、な」
侯爵の唇の端が、わずかに歪んだ。
「近頃はそういう言い方をするのだったな。手柄を立てれば、誰であろうと引き上げられる。血も、家も、代々の務めも関わりなく」
「…………」
「結構なことだ。国が軽くなる」
侯爵の声音は冷えていた。怒っているのではなく、それを当然の理として受け入れている者の声だ。
イリヤは黙って頭を下げ、その場を辞そうとしたが――。
「そなたの父君は、何をお考えかね」
低く押さえた声が、イリヤの足をその場に縫い留めた。
「……と、仰いますと」
「とぼけるな。ここしばらく、あの家は方々との縁を断っている。由緒ある諸家の耳にも、すでに入っておる。何十年と続いた付き合いまで断ったとなれば、ただ事ではあるまい」
顔を上げると、侯爵は冷たい視線をイリヤに向けていた。
「跡取りが、まさか何もご存じないとは言うまいな」
イリヤは答えられなかった。
父とは、称号を得てから一度も顔を合わせていない。それを口にした瞬間、この男の前で何を晒すことになるのか、わからないはずがなかった。
その沈黙を正確に読み取り、侯爵は乾いた笑いを漏らした。
「……ほう。跡取りが、家のことを何ひとつ知らんとは」
「その件について、私から申し上げる立場にはございません」
「……ふん、まあよい」
頭を下げるイリヤの横を、男は興味を失ったように、供を促して歩き出す。そして、すれ違いざまにひとつ言い残すように声をかけた。
「――ああ。そういえば」
声を落として、続ける。
「もう間もなく、そなたの母君の忌日であったな」
イリヤの動きが、止まった。
振り返った時には、濃緑の背中は既に遠く、供の足音と共に回廊の先へ消えていくところだった。
――母の命日。
イリヤはしばらく動けなかった。天井の高い回廊に、遠くの鐘の音だけが、微かに響いていた。
**
その頃、学院の女子寮。ルリシアとセナの部屋では、まったく別種の緊張が張り詰めていた。
「ルリ〜! まだ〜!?」
「もう十分以上経ってるわよ」
洗面所の扉に向かって、セナとレイラが声をかけている。
「ちょ、ちょっと待って!」
扉の向こうから、上ずった声が返ってきた。
「ねーえ、サイズ合わなかった?」
「合ってる! 合ってるけど!」
「じゃあ出てきなさいよ」
「無理!」
レイラが片眉を上げた。
「それでも私、ずいぶん大人しいものを選んだのだけれど」
「レイラの基準がおかしいんだよ!」
「あら、失礼ね」
洗面所の中で、ルリシアは鏡の前に立ち、自分の姿をまじまじと見つめていた。
上下に分かれた水着で、下は短いスカート型、薄い水色の生地に白いフリルが縁を飾っている。確かに可愛い。王都ではこの型の水着が今いちばん流行っているのだと、レイラは言っていた。
だが、問題はそこではない。
「…………ん?」
鏡に映る自分を、横から見る。
それから、正面。もう一度、横を見た。
「…………え」
両手で、そっとお腹に触れた。
(……なんだか私、太った……?)
思い当たる節が、たくさんあった。
シルヴァリス帝国での観光巡りに、王立図書館の隣のカフェテリア。歩いて食べて、甘いものには目がない自分。イリヤとのデートは特に「たくさん食べろ」と、とにかく甘やかされてきた。ここ最近、レイラが差し入れを持ってくる頻度も増えていた。
鏡の中の自分が、途方に暮れた顔をしている。
(…………どうしよう)
思わず彼女は、鏡から目を逸らした。
イリヤと海に行けるのに。すごく楽しみなのに。
(……イリヤに、こんな姿見せたくない)
「ルーリー?」
「……もうちょっと待って」
「声、元気ないわよ」
「元気だよ! 元気!」
扉の向こうで、セナとレイラが顔を見合わせた気配がした。ルリシアは鏡に背を向けて、蹲った。頭を抱えて、ぼそっと呟く。
「痩せなきゃ……」
**
翌日の夕方。学院の訓練場には、傾きはじめた陽が長い影を落としていた。
木剣を構えたルリシアと、その正面に立つイリヤ。二人の影が、地面の上で細く伸びている。
この時間の稽古は、もう習慣になっていた。
――もうじき、母の命日。
昨日のことが、まだイリヤの頭の隅に残っている。何か含むような侯爵の眼差し。父のことも含めて、調べる必要がある。
「はっ!」
「浅い」
イリヤは反射で木剣を払った。
ルリシアの一撃は、届く前に軌道を変えられて空を切る。
「うぅ……」
「踏み込みが足りていない。それと――」
彼は眉を寄せた。
「……なぜ、そんなに跳ねる」
「跳ねてない!」
「どう見ても跳ねてる」
実際、ルリシアは跳ねていた。
構え直すたびに、その場で小刻みにぴょんぴょんと足踏みをする。打ち込んだ後は、必要のない距離まで下がってから、また踏み込み直す。素振りの合間にはなぜか腰を捻っている。
剣術としては、何ひとつ意味がない動きだった。
「……ルリ」
「なに!」
「無駄が多い。動くたびに体力を捨てている」
「捨ててないよ! むしろ、いいことだよ!」
「何がだ」
「なんでもない!」
ルリシアは真剣な顔で、また木剣を構えた。
イリヤは首を傾げた。ルリシアの様子がどこか変だ。食堂でも、皿の上のものを妙に長く見つめていた。悩みがあるなら聞くが、本人が言いたがらないのなら、無理に聞くことではない。
彼は木剣を構え直した。
「もう一度」
「はいっ!」
打ち込んでくる。払う。返ってくる。
――返ってくる。
イリヤの目が、わずかに見開かれた。
払われた勢いをそのまま使って、彼女は次の一撃に繋げていた。以前は一度崩されればそこで止まっていたのに、今は流れの中で剣が生きている。
踏み込みの浅さも、跳ねる癖も、まだ未熟ではあるが確かに上達していた。
三合、四合と打ち合う。
五合目で、彼はわざと隙を作った。
ルリシアの木剣が、そこへ迷いなく滑り込んでくる。
(――しっかり、見えてるな)
イリヤはそれを紙一重で受け止め、静かに剣を下ろした。
「……そこまでだ」
「あ、ごめん、痛かった?」
「いや」
夕陽が、彼女の金色の髪を橙に染めていた。息を切らせて、額に汗を浮かべて、それでもまだやる気の残った目でこちらを見上げている。
イリヤは、少しだけ間を置いてから言った。
「……強くなったな」
ルリシアの動きが、止まった。
「……え?」
「剣筋が繋がるようになった。以前とは別人だ」
彼女は、しばらく彼を見上げたまま瞬きをしていた。それから、ゆっくりと顔が緩んでいく。
「……ほんとに?」
「ああ、世辞は言わない」
「……どうしよう……すごく嬉しい」
じわりと胸の奥が熱くなり、青い瞳がかすかに潤む。
「ルリ」
顔を上げると、イリヤのその表情には、いつもの静けさとは違う色があった。
「魔法を使っていい」
「え?」
「試合をしよう」
ルリシアは目を丸くした。
剣を教わるようになってからも、彼が「試合」という言葉を使ったことなど、一度もない。
「……いいの? 魔法を使っても?」
「どんな魔法でも構わない。お前にしかできない剣を見せてくれ」
イリヤは木剣を構えた。
いつもの稽古の構えではなかった。腰が落ちて視線が沈む。それは彼が、本気の相手に向ける構えだった。
風が、訓練場の砂を薄く撫でていく。
「条件をつける」
赤い瞳が、まっすぐに彼女を射抜いた。
「俺から一手、まともに取れたらお前の勝ちだ」




