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第三部・最終話 どんなあなたも

(この匂い、好き……)


 知っている匂いがルリシアの鼻先をくすぐった。ずっと嗅いでいたいと思う、恋しいあの匂いだ。

 ルリシアは、まだ半分眠ったまま、その匂いのするほうへ顔を擦り寄せた。温もりの中に顔を埋める。


(……もっと)


 ぎゅう、と抱きしめる腕に力を込めた。抱きしめたものが、わずかに強張(こわば)った。


「……ん?」


 薄く目を開ける。薄暗い部屋にランプの灯りだけが優しく包んでいる。

 少し速い鼓動が聞こえてくると、ルリシアはゆっくりと顔を上げた。


 ――赤い瞳と、目が合った。


 困ったような。照れているような。戸惑っている顔をした、大きなイリヤがそこにいた。


「…………」

「…………」


 思考が一瞬止まった。


「……わあああっ!?」


 弾かれたように飛び起きたルリシアは、ベッドから転がり落ち、そのまま壁まで後退した。背中をぴたりと壁に張りつけながら、しゃがみ込む。


「い、いいい、イリヤ!? なんで!? え、なんで一緒にベッドに!?」


 声が途中で裏返った。イリヤはゆっくりと身を起こした。乱れた前髪の隙間から覗く目元が、うっすらと赤い。


「……お前が腕を掴んできて離さなかったんだ」


 視線が、微妙に逸されている。


「……振りほどけば、起きるだろう。……だから、一緒に寝ていただけだ」


 ぼん、と音がしそうな勢いで、ルリシアの顔が真っ赤になった。


「ご、ごめんね! 私、気を失って……それから、ただあったかくていい匂いで――」


(私、なに言ってるの!?)


 余計なことを言いそうな顔をぶんぶん振って、それから思い出したように、ピタリと動きを止める。


 そういえばと身体を見下ろす。妙に汚い。

 (すす)にまみれたまま、眠っていた。


「っ、というか私、お風呂も入ってなくて……! 汚い! 汚いよ、絶対! 近寄っちゃだめ……!」


 両手で顔を(おお)い、身が縮こまる。その様子をイリヤは黙って見ていた。


 やがて、ルリシアが指の隙間からそっと覗く。目が合った途端に、部屋の空気が変わった。


「……ルリ」


 先に口を開いたのは、イリヤだった。ベッドの縁に腰かけたまま、彼は自分の掌を見下ろしている。


「怖くは……ないか」


 ルリシアが、瞬きをした。


「……え?」

「お前を守るためなら、俺は……」


 言葉が、一度沈む。


「お前に害を為す者に、容赦はしない」


 あの朝の、白銀の戦場で彼は最後まで表情ひとつ変えなかった。


「巻き込んだ。危険な目にも遭わせた。……見ただろう。あれが、俺だ」


 部屋が静けさに包まれる。ルリシアはしばらく彼を見つめ、それから意を決したように立ち上がり、一歩近づいた。


「……イリヤ。あのね。私、イリヤにだけは、私の全部を知ってほしいって思ってるの」


 イリヤの肩が、わずかに動く。


「……俺は」


 顔が、上がらないままだった。


「言いたくないことも、ある。……言えないことも」


 その言葉に、ライアスの問いかけがルリシアの胸を揺さぶった。


『その全部を隠されたままでも――今と同じようにきみは、彼を愛せるの?』


 目の前の彼は、たくさんのことを抱えている。


 ルリシアが全部を知ってほしいのは、イリヤを大好きだから。だけど、それを相手にも求めるのは……違う。全部を知らないから嫌いになるわけじゃない。


「あのね、イリヤ」


 ベッドのそばまで来て、その前に(ひざ)をつく。


「私、イリヤの剣も魔法も、怖いって思ったことないよ」


 膝上で組まれた彼の手に、ルリシアはそっと自分の手を重ねた。イリヤが顔を上げると、お互いを見つめ合う。


「初めて見たときから、ずっとそう。……綺麗だなって思ってたの」


 学院のグラウンドで、迷いなく剣が振り抜かれる。無駄のない動き。乱れない息。一切の隙もない剣筋で、相手の動きを読み切っていく。

 その美しい剣を、ルリシアはいつも隅から見つめていた。


「今でも、そう思ってる。それは、あの氷の魔法だって同じ」


 自分を守ってくれる、氷の花。触れると冷たいのに、包まれると、なぜかあたたかい。彼の腕の中と同じだとルリシアはいつも感じていた。


繊細(せんさい)で美しいのに、力強くて、冷たいのに、あたたかいの。イリヤの氷の魔法って、イリヤそのものだね」


 言いながら、胸の奥がじんと熱くなる。


「すごく、綺麗」


 まっすぐに見上げる。


「イリヤの守ろうとする力は、イリヤの心そのものなんだって……そう、思えたの」


 ――その瞬間、イリヤの中で再び記憶が鮮明(せんめい)(よみがえ)る。泣きながら笑うあの人。優しく言い聞かせるように言い、抱きしめてくれたあの人。


『あなたの力は、あなたの心です。それを優しく抱き留めてくれる人が、必ず現れます。だから、手放さないで……生きてください』


 イリヤの瞳が見開き、固まった。ルリシアは彼の手をぎゅっと握って、息を吸った。


「話せないことも、話したくないことも。全部そのままでいいよ」


 声が少しだけ柔らかくなると、イリヤが息を呑む音が小さく鳴る。


「でもね。つらいときは、ひとりで抱えなくていいんだよ。苦しいときは、私を頼って」


 真っ直ぐな想いを込めて、微笑む。


「どんなイリヤも、大好きだよ。小さなあなたも、大きなあなたも。ぜんぶ大好き」


 ――それを、忘れないで。


「私と出会ってくれて、ありがとう」


 イリヤの唇が、わずかに開いた。


「……ルリ」


 名前を呼ぶ声が、掠れている。ルリシアは慌てて手を離す。急に恥ずかしくなって、視線が泳ぐ。


「あっ、あのね、それと……!」


 指を胸の前で絡ませる。


「知らないって言って、ごめんね。私、ちゃんと話を聞かないで、勝手に拗ねちゃって……ずっと謝りたかったの」


 俯いて、肩を落とす。


「私、子どもみたい……」


 ふと、小さな笑い声が落ちた。


「……へ?」


 顔を上げると、イリヤが笑っていた。目元をやわらかく(ゆる)めて、こちらを見ている。


「可愛いって思ってる」

「……え? え、えっ?」

「拗ねているルリも」


 赤い瞳が、まっすぐにこちらを捉えている。


「泣いているルリも、怒っているルリも、怖がっているルリも」


 一つずつ、確かめるように。


「笑っているルリも。……全部、可愛い」


 ランプの灯りが彼の頬に落ちていた。


「ずっと、そう思ってる」


 息を継いで。


「どんなルリも、大好きだ」


 喉の奥が、一気に熱くなった。

 目の縁までせり上がってきたものを、ルリシアは唇を噛んで押し戻す。ここで泣いたら、また泣き虫だと思われる。


 だから、代わりに両手を広げた。


「……もう一度だけ、ぎゅってしていい?」


 イリヤは、迷うことなく両腕を広げる。眼差しが、どうしようもなく優しかった。


「ああ、おいで」


 ルリシアは、その胸に飛び込んだ。



**



 シルヴァリス帝国で何があったのか、その詳細が他の生徒たちに知らされることはなかった。


 伝えられたのは、ごく短い事実だけだ。


 皇太子アレクシス・ヴァルドリックスが、帝国の法に基づいて身柄を拘束されたこと。

 そして、交流会は予定通りに最終日まで行われること。


 残された数日は、驚くほど早く過ぎていく。

 

 賑やかな両国の学院交流会の裏で、どこか不穏な空気が(ただよ)っていた街の様子は少しずつ変わっていた。


 閉め切られていた区画の門が開き、名簿を抱えた官吏(かんり)が出入りするようになった。その先頭には、いつも一人ひとりの名を尋ね、丁寧に話を聞いてまわる第二皇子の姿があった。


 両国の間で交わされた取り決めの中身も、今はまだ明かされていない。

 ただ、リヒトが講義(こうぎ)の合間に一度だけ、こんなことを言った。


「ここ数年で、最も長い会議でした」


 眼鏡の奥は、少しだけ疲れて見えたという話だ。



**



「くしゅんっ」


 王国への帰国を控えた前日の朝、ルリシアは寒さで目を覚ました。


(何でこんなに寒いんだろ……)


 身震いしながら、ぼんやりと身を起こして、窓辺へ向かった。カーテンを引いて窓を押し開けると――。


 冷たい空気が、頬を刺した。


「……あ」


 窓の外は、真っ白な世界が広がっていた。


 中庭も、帝都の街並みも、遠くの方まで何もかもが分厚い雪に覆われている。


 空からは、大粒の雪がまだ降り続いていた。


「わぁ……!」


 ルリシアの青い瞳が、みるみる輝いていく。


 エメラルド王国は、温暖(おんだん)な土地だ。冬に粉のような雪が舞うことはあっても、こんなふうに積もることはない。一面真っ白な雪など、絵本の中でしか見たことがなかった。


 振り返り、まだ寝ているセナの体を揺すった。


「セナっ! セナ、起きて!」

「んぁ……なに……まだ、朝……」

「雪! 雪降ってるよ! 積もってる! ねえ、遊ぼう!」

「……ゆき」


 セナの目が、ぱちりと開いた。

 次の瞬間、二人分の足音が廊下へ飛び出していった。



**



 結果から言えば、大惨事(だいさんじ)だった。


「うおおおおっ! なんだこれ、すっげぇ!」


 エリックが寝間着のまま雪へ飛び込み、頭から突っ込んで動かなくなった。


「エリック! あんた死ぬわよ!」

「これは……! エメラルド王国と気温も湿度もまるで違う……! 見てくださいレイラさん、雪の結晶が本当に六方対称に……!」

「ライル、あなたも上着を着なさい!」


 寮の中庭は、あっという間にエメラルド魔導学院の生徒たちで埋まった。

 誰かが雪玉を投げると、誰かがそれを顔面で受けた。そこから先は、もう誰にも止められない。


「男子対女子! いいわね!?」


 さっきまで生徒たちを注意していたレイラも、勝負と聞けば目の色が変わる。男女のあいだに立って号令をかければ、生垣(いけがき)を境に陣はきれいに二つへ割れた。


「上等だ! 手加減しねぇぞ!」

「――エリック、あんた本気で言ってる?」


 セナが両手をこすり合わせ、にやりと笑う。


 風が、渦を巻いた。


 次の瞬間、雪玉が三つ同時に加速して、エリックの顔面へ吸い込まれるように命中した。


「ぶへっ!?」

「魔法なしなんて、誰も言ってないもんね〜!」

「言ってないけど、卑怯だろ!?」


 男子が炎をまとわせた雪玉を放ると、女子が雪の壁をどんと構えた。雪玉はじゅっと消え失せ、間髪入れずに今度は地面がむくりと盛り上がり、陣のあいだにバリケードまでできる。


 その上を風が薙いでいくと、舞い上がった雪があたりを真っ白に包み込み、もはや雪合戦と呼ぶにはだいぶ無理があった。


 その中心で、ルリシアが雪玉を抱えて笑っている。頬を真っ赤にして、息を弾ませて、とても楽しそうだ。



 寮の廊下で引率の教師が、窓に張りついていた。


「あ、あああ、あの馬鹿どもっ……!」


 窓の向こうで雪合戦の規模を超えた何かが始まり、教師の顔はみるみる青ざめていく。


「慣れない雪で怪我でもしたらどうする! 魔法まで使って、何かあったら学院長に顔向けできない! よし、私が止める!」

「――先生」


 落ち着いた呼びかけに教師が振り返る。イリヤが、窓の外を見ていた。


「私が行ってきます」

「お、おお……! 助かる、クロウリーくん!……君なら、あの子たちも素直に聞くだろう!」


 教師が心底ほっとした顔で、何度も頷いた。


「頼んだぞ! 絶対に、止めてくれよ!」


 イリヤは短く頭を下げて、廊下を歩き出した。



**



 中庭では、戦局が動いていた。


 ――バチンッ。


 空間が弾け、雪の上に黒い転移陣が開く。


「はいはーい、助っ人参上〜!」


 雪を蹴立(けた)てて現れたのは、スノウだった。


「げっ、スノウ!」

「あんた、謹慎中じゃないの!?」


 エリックとレイラが同時に叫ぶ。


「明日にはみんな帰っちゃうから、会いに来たってわけ! ちゃんと許可もらってきてるって」


 スノウはひらひらと手を振って、それから迷いなく女子側の陣へ滑り込んだ。


「んで、俺は女の子たちの味方ね♡」

「はぁ!? 何かっこつけてんだよ!」


 エリックがスノウを指差して、声を荒げる。


「実際かっこいいし、俺は昔から可愛い子たちの味方なの♡」

「それなら、ちょっと信用できる」

「でしょ?」


 セナが即座に受け入れ、男子陣から怒号が飛んだ。


「「「裏切り者ォ!!」」」


 混戦は、そこからさらに白熱した。スノウは転移で背後を取り、雪玉を落として、また消える。あまりに卑怯な戦法に、男子側が総崩れになっていく。


「くっそ、あいつずるいって! ライル、後ろを見ててくれ!」

「エリックさん、右! 右から来ます!」


 雪と歓声(かんせい)が、白い空へ舞い上がったそのとき――。


「全員止まれ、何をしている」


 低い声が中庭に落ちた。ぴたりとすべての動きが止まった。振り上げられた腕も、飛びかけた雪玉も、そのままの形で凍りつく。


 館の入り口にイリヤが立っていた。腕を組み、赤い瞳で戦場を見渡している。


「……あ」


 ルリシアの手から、雪玉がぽとりと落ちた。


「い、イリヤ……えっと、これはその……」


 冷や汗をかきながら、苦笑いを浮かべる。


「……皆で、雪の観察を……」

「観察……魔法を使ってか?」

「……はい」


 生徒たちが一斉に俯いた。冷たい沈黙が、中庭に降りる。


 ――ぼふっ。


 白い玉が、イリヤの頬をかすめて飛んでいった。全員の顔が、ゆっくりと飛んできた方へ向く。


 雪の中から、ひょこりと銀髪の頭が出ていた。転移陣に半分隠れたまま、スノウが投げた姿勢で固まっている。


「…………あれ?」


 空気を読み違えたことに、いまさら気づいたような顔を浮かべる。


「……えっ? なに、この空気……」


 イリヤは屈んで、雪をひと掴みした。雪玉を握り固めると、イリヤの瞳がまっすぐスノウを射抜く。


「――実力行使だな」


 イリヤの言葉が、男子陣に火をつけた。


「そう来なくっちゃなァ!! よっしゃあ、イリヤに続けェ!!」


 エリックが雄叫(おたけ)びを上げ、男子陣が一斉に沸き立ち、イリヤの背後で雪玉を(かか)げた。


「ちょっ、待っ、なんでみんな俺だけ見て――ぎゃあああっ!」


 凄まじい速度の雪玉が、スノウの顔面に突き刺さる。


「手加減無用だ」

「なんで!? ねえ、なんで俺だけ狙うの!?」

「ワインなんかで足りるわけないだろ」

「まだ根に持ってんの!?」


 中庭が、爆発したように笑い声で満たされた。


「ルリ! こっちも実力行使! 男子側、戦力上がりすぎ!」

「うん!」


 セナの声にルリシアが雪玉を握り直し、満面の笑みで叫んだ。


「イリヤ、手加減なしだからね!」


 イリヤの口元が、わずかに緩む。


「ああ、望むところだ」


 本気の雪玉に白い息と笑い声があちこちから飛び交う。朽ちかけた館の中庭には、似つかわしくないほど無邪気な賑わいが降り積もっていった。



**



「――で、反省したか?」


 説教は三十分。


「申し訳ありませんでした」

「……すみませんでした。反省してます」


 頭を下げるのは、学院の首席と次席である。


「君たちが止める側だろう! なぜ一番白熱している!」


 教師は頭を抱え、深いため息とともに説教を終えた。


 二人は揃って部屋を出る。廊下を数歩進んだところで、ルリシアがぽつりと言った。


「……イリヤのせいで、怒られちゃった」


 イリヤの足が止まる。振り返ったその顔は、はっきりと不服そうだった。


「どう見ても、共犯だろう」


 ルリシアが、ぱっと笑顔になった。


「……だね!」



**



 午後の中庭。

 生徒たちは荷造りに追われ、雪は降り止んでいる。踏み荒らされた足跡の上に、新しい雪がうっすらと積もり直していた。


 二人は、その隅にしゃがみ込んだ。


 ルリシアが、真剣な顔で雪をこねている。丸めて、押しつけて、また丸めて。ときどき手を止めて考え込む。


 イリヤは、その手元を黙って見ていた。


「……できた!」


 出来上がったものを、イリヤはじっと見る。


「……これは」


 イリヤは首を傾げた。何を作ったのか、思考を巡らせても理解ができない。


「うさぎだよ!」


 白い塊には、耳らしきものが片方だけ、あらぬ方向へ伸びていた。もう片方は、途中で力尽きたらしい。胴体は限りなく球に近く、どこが顔なのかも判然としない。


「……あ、ああ」


 イリヤが、戸惑いながら頷いた。


「……芸術的だな」

「それ、褒めてる!?」

「真似できないセンスだ」

「なんか、引っかかるんですけど?」


 ルリシアはむすっと唇を尖らせた。イリヤは小さく笑って、雪うさぎを両手で受け取った。


 壊さないように、そっと。


 それから二人は、しばらく黙って中庭を眺めていた。白い息が、並んで昇っては消えていく。


「……明日には、帰るんだね。ちょっと名残惜しいかも」

「……そうだな」

「でも結局、イリヤと帝都デートできなかった」


 ルリシアはしゅんと俯いた。付箋(ふせん)だらけの本は、荷物の底で一度も開かれないままだ。


「……夜、抜け出すか」

「えっ!?」


 あまりにも自然に言われて、ルリシアは目を丸くした。


「だ、だめだよ! また怒られちゃう!」


 イリヤの目が、ほんの少しだけ笑っていた。


「その時はまた、ルリも一緒に怒られてくれるんだろう?」


 ルリシアの目が、まんまるになった。


「……ふふっ」


 こらえきれずに、笑いがこぼれる。


「うん。道連れだね」


 二人は顔を見合わせて、それから同時に吹き出した。


「……ゲートが開通したら、また来よう。今度は二人で」

「……うん! 約束ね!」


 右手の小指を差し出すと、指先がかじかんでいることに気づいた。手のひらが赤くなっている。ずっと雪を触っていたせいだ。


 その手に、大きな掌が重なる。差し出した小指は、そのまま彼の掌に包まれてしまった。


「冷えている」


 イリヤが、ルリシアの手を両手で包み込む。冷たい指先が、ゆっくりと温められていく。


「……あったかい」


 彼の指が彼女の指に自然と絡まる。ルリシアは彼の左手の薬指に何もないことに気づいて、少しだけ胸が痛くなる。自分の指輪の石は欠けて消えてしまった。


「……ルリ」


 イリヤが、絡んだ手にわずかに力を込めた。


「エメラルド王国に帰ったら、新しい指輪を作りに行こうか」


 ルリシアの顔が、ぱっと輝いた。


「……本当!?」

「ああ」

「嬉しいっ! あ、今度は赤い宝石がいいかなぁ……イリヤの瞳の色!」

「なら、俺は青い宝石か。……ガラスのうさぎたちとお揃いだな」

「うん、お揃いが増えるね。帰るの楽しみになってきた!」


 自然と顔を寄せ合い、赤い瞳と青い瞳がまっすぐに溶け合う。引き寄せられるまま、その距離は、吐息が触れるほど近くまで縮まっていった。


 雪の匂いがする。


 二人はそっと目を閉じ――


 ……何かの、視線を感じた。


 二人は、そのままの姿勢で、ゆっくりと下を見た。


 雪の上に、黒い転移陣が開いていて、そこから、顔だけがにゅっと出ている。

 銀色の髪に碧い瞳の男がにやにやと、実にいい笑顔で二人を見ている。


「あ、いいよ。構わず続けて?」


 スノウが、ひらひらと手を振った。


「ぶちゅーっといっちゃって? 大丈夫、大丈夫! 俺のことは気にしないで!」


 ルリシアの顔が、爆発したように真っ赤に染まった。


「な、なななっ……!」


 イリヤは無言で、雪の上へ手をかざす。

 赤い瞳が、氷点下まで冷え込んでいた。


「――氷華」


 空気が鳴った。次の瞬間、中庭の一面がキィィンと凍りついた。

 降り積もった雪が透明な氷へと変わり、生垣が霜に覆われ、そして――転移陣ごと、銀髪の男が氷の中に閉じ込められた。


「ひっ……!? えっ、ちょ、動けな……! 待って待って待って!」


 顔と両手だけを氷の外に出したまま、スノウが必死にじたばたする。


「冗談だって! ほんの冗談だから! ねえイリヤ!?」


 イリヤは、制服の裾を払った。


「一生、そこで凍ってろ」

「悪魔ァ!! この男、悪魔だぁ!!」


 絶叫が、白い空へ突き抜けていく。


「ルリちゃん! ルリちゃん助けて! ねえ、ルリちゃぁぁん!」

「え、えっと……」


 ルリシアは、真っ赤な顔のまま、氷漬けの彼と冷たい恋人を見比べて――


「……ご、ごめんね?」


 そっと、手を合わせた。


「ちょっとだけ、反省しててください」

「そんなぁ!?」


 雪が降り止んだ空へ、スノウの叫び声が、いつまでも響き渡っていた。



**



 国境からほど近い、雪の降らない荒地。

 枯れた木立の間に黒塗りの馬車が静かに停まり、その先で一人の男が石柱に背を預けて座り込んでいた。


 ヴォルガーは虚ろな目で地面を見ていた。助かった実感も、ここまでどう歩いたのかも、もう覚えていない。乾いた足音が近づき、磨かれた靴先が視界の端で止まった。


「……ヴォルガー・ナイトレイだな」


 ゆっくりと顔を上げる。紺色の外套(がいとう)(まと)った男が立っていた。背筋はまっすぐで、眼差しには一切の温度がない。


「……誰だ」

「クロウリー伯爵家当主、レイモンド・クロウリーだ」


 ヴォルガーの目がわずかに見開かれる。

 あの氷を纏った赤い瞳の男と同じ瞳。


「……何の用だ。笑いにでも、来たのか」


 焼け(ただ)れた掌を見下ろした。


「借り物の力に頼るから失うのだ。魔法など、いずれ力に裏切られる。だが剣は裏切らない」


 レイモンドは立ち上がり、馬車のほうへ歩き出す。背を向けたまま、はっきりと言った。


「共に来い。私がお前の剣を鍛えてやる」


 風が枯れ木を鳴らす。

 ヴォルガーの焼けた掌がゆっくりと地面を掻き、体を起こして立ち上がる。


 馬車の扉が開き、二人分の足音が荒地に消えていった。

次回、番外編をお届けします。二人とぼっち、三人で仲良く(?)ダンジョン攻略話です。その後に第四部の開幕となります。

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