第26話 氷華の真価
「俺のルリに、触れるな」
凍てついた空気の中で、その声だけが低く響いた。
「なんだっ! お前は!?」
白い息を吐きながら、ヴォルガーは弾き飛ばされた黒剣を拾い上げに駆け出した。掌の焼け爛れた皮膚が、冷気に触れて鈍く軋む。
全てを見透かすような瞳が、こちらを捉えている。それが何より癪に障った。
ヴォルガーは蓄魔鉱に意識を落とした。刀身が紫に明滅し、それを塗り潰すように炎が這い上がる。
「――全部、焼き尽くしてやる!」
地を蹴る。
わずかに距離を置いた位置から、一息に間合いを詰め、炎を纏った黒剣を振り下ろす。
その瞬間、イリヤは剣を軽く払った。
――フロスト・ヴェール――
視界が一瞬で白く塗り潰された。噴き上がった冷気が、振り下ろした炎ごと喰らい尽くす。熱が届く前に掻き消え、叩きつけた斬撃は何の手応えもないまま沈んだ。
「なっ……」
ヴォルガーは白い霧に飲み込まれそうになる寸前、黒剣を突き立てた。
「……んだよっ、この霧!!」
足元で熱波が爆発的に膨れ上がり、石畳を焦がす。ヴォルガーはその奔流に自ら乗り上げ、炎を翼のように広げて強引に空中へ駆け上がった。
イリヤの視線が、瞬時にその動きを射抜く。彼は剣を軽く上に振った。
冷気が追うように渦を巻く。きめ細やかな氷の粒子が空中に結晶化し、イリヤの靴底を支えた。彼は凍てついた階段を駆け上がるように空へと移る。
炎の熱を冷気でかわしながら、ヴォルガーの背後を取った。
そのまま、剣を振り下ろす。
蒼い軌跡が一直線に落ち、ヴォルガーが黒剣を真上に掲げて受け止めた。
――キィィィンッ!
甲高い金属音が、凍てついた空間に鋭く弾けた。鋼と鋼が噛み合い、霜と火の粉が同時に散る。衝撃が両腕を突き抜ける。
(――重い!)
ヴォルガーが歯を食いしばる。イリヤの剣が重いのか。それとも、自分の力がすでに鈍っているのか。どちらとも判別がつかない。
だが、目の前の男は表情ひとつ変えない。刃と刃が押し合うたび、軋むような鋭い音が連続して響いた。冷気が二人の周囲で渦を巻き、その音をさらに冷たく増幅させる。
通路の入口。
二人の戦いを見つめている者たちがいた。
「……これは」
先頭に立つリヒトが、銀縁眼鏡の奥で藍色の瞳を細める。後ろにはスノウとレオンの姿があった。リヒトは凍てついた空気をゆっくりと吸い込み、魔力の流れを読み取った。
表情に、驚きが滲む。
「……感じたことのない魔力です。通常の水属性とは全く違う。粒子のひとつひとつが、彼の呼吸と完全に同期して氷を生み出している」
スノウが戦場をまじまじと見つめる。
「……イリヤの奴、自力で戻ったのか?」
レオンは唇を噛み締めながら、その戦いを目に焼き付けていた。
**
朝の陽光の中、空中と地上を自在に移り変わりながら、二人の剣が激しく打ち合う。
イリヤの蒼い刃は、常に半歩先を行っていた。ヴォルガーが炎を纏って斬り込めば、すでにそこにはいない。振り下ろした黒剣が空を切り、振り上げた瞬間には横から氷の軌跡が迫る。
どうやっても、攻撃がイリヤを捉えられない。まるで、次の一手をすべて読まれているかのようだった。
「……なぜだ!」
ヴォルガーが踏み込み、連続で斬撃を放つ。
炎が弧を描き、三方向からイリヤを囲む直前、彼は氷の粒子を足場にひらりと宙を舞い、すべてをかわした。その動きに、ヴォルガーはハッと息を呑んだ。
空中に浮かぶ無数の鏡の結晶。そこに映る自分の姿が――明らかに、現実の自分より数瞬早い。
腕を振り上げる前に、鏡の中の自分がすでに振り上げている。足を踏み出す前に、鏡の中の自分がすでに踏み出している。
そのズレに、背筋が凍りついた。
(先読みされているのか……!)
ヴォルガーは即座に間合いを取り、黒剣を指でなぞる。炎が一気に噴き上がり、黒煙の幕が爆発的に発生した。濃い煙が周囲を覆い尽くす。
「これで見えねえだろ……!」
煙の中に身を隠し、気配を殺して横へ回り込む。イリヤの背後へ躍り出た。その瞬間、確かにイリヤの動きが先ほどよりわずかに遅れた。
(いけるッ!)
黒剣が炎をまとって一直線に伸びる。
だが――そのときだった。
空中に浮かぶすべての結晶が、一斉に回転を始めた。ヴォルガーの周囲を一周するように高速で回り、鋭い風を巻き起こす。煙幕があっという間に薙ぎ払われ、視界がクリアになる。
「なんっ……!」
その隙を、イリヤに捉えられた。
蒼い刃が煙の名残を裂き、ヴォルガーの側面を正確に突く。彼はとっさに黒剣で受け止めたが、体勢が大きく崩れた。
「こいつッ!!」
逆上したヴォルガーが、今度こそすべてを焼き尽くそうと力を解放する。
爆発的に広がる猛烈な炎。熱波が氷の結晶を溶かし、鏡面を歪ませると、周囲の人間を巻き込むように赤く染めていく。
「――イリヤ!!」
ルリシアの声が、炎の向こうから届いた。
必死に名前を呼ぶその声に、イリヤの瞳がわずかに揺れる。彼は彼女たちに向かって剣を大きく横へ振った。
――プロテクション・フローレ――
巨大な氷の花が、守るべき人々を中心に咲き誇る。厚く透き通った花弁が守護結界となり、ルリシアたちを完全に包み込んだ。
「……綺麗」
ルリシアの胸に詰まるような声が、花の中に落ちた。
炎が花弁に叩きつけられる。だが、その表面は鏡のようになめらかで、熱は撫でるように滑って逸れていった。焼き付くはずの炎が、映り込んでそのまま外へ返される。
「……跳ね返してんのか、これ」
ジルケットが戸惑いながら呟いた。
花弁に映るのは炎だけではない。空中に浮かんだ無数の結晶と同じものが、そこに同期している。ヴォルガーの動きが、彼が動くよりわずかに早く花の表面をなぞっていた。
レイラが息を呑む。
「……見えているのね。イリヤには、全部」
通路の入口で、三人は喰らいつくようにその戦況を見守っていた。
「……よく計算尽くされている」
リヒトが眼鏡を押し上げ、思わず細く息を吐く。
「水魔法を基盤としながら、守護と攻撃、未来視までを一つの術式に内包している。イリヤくん……彼を初めて見た時に感じた違和感の正体はこれでしたか。……しかし、これが彼の本当の実力なのでしょうか」
「なにそれ……どういう意味?」
スノウが困惑に首を傾げると、リヒトは軽く微笑んだ。
「……とても、美しくも未知数な魔法ということです」
こぼれ落ちたその声には、教師としての感嘆が滲んでいた。
**
戦場の中心で、冷静沈着な瞳と、憎悪に歪む瞳が絡み合う。
氷の軌跡と炎の奔流。
鋼が軋み、霜と火の粉が舞い散る中でも、イリヤの剣筋は無駄がなく、美しく、容赦がない。ヴォルガーの怒りに任せた斬撃を、すべて最小限の動きで受け流しながら、カウンターを叩き込む。
「馬鹿にしやがって!!」
ヴォルガーが怒りに震えた瞬間。
パチっ、と耳元で小さな火の粉が弾けた。
『もお、もっと頑張ってよお』
甘えるような、女の子の声。
『仕方ないからぁ〜、ちょっとだけ助けてあげる』
黒剣に再び猛烈な炎が宿った。刃が赤く溶けかけ、熱の質量が桁違いに膨れ上がる。
――ギィンッ!
イリヤは受け止めたが、鋼が熱に耐えきれず、刃に亀裂が走った。これまで、戦い続けてきた剣が限界を告げるように甲高い悲鳴を上げる。
乾いた音を立てて、剣が砕ける。破片が、朝の光の中に散っていく。
「――もらったァ!!」
歓喜が、ヴォルガーの喉から迸る。燃え盛る黒剣が、イリヤの胸を狙い下ろされた刹那、初めて彼の瞳が細まった。
「そんな、イリヤッ!!」
花の中でルリシアが叫び、ジルケットの深緑の瞳が揺れた。
ヴォルガーの口元が緩む。勝ったとそう思った。
――だが。
散った破片が、空中で止まった。
――クリスタル・リバース――
一拍後、砕けた破片が蒼い氷の結晶となって集まる。キラキラと輝きながら渦を巻き、イリヤの右手に吸い寄せられていく。
宙に留まった無数のかけらが、ゆっくりと向きを変える。結晶が重なり、噛み合い伸びていく。氷の剣が、彼の掌の中で組み上がった。
深い海の底を映したような蒼い氷剣。
ヴォルガーの振り下ろした一撃は、その刃に迎えられた。
――キィン。
澄んだ音が、ひとつ響いた。
黒剣が根元から砕ける。炎ごと凍りついた破片が、細かな粒になって白銀の石畳へ降り注ぐ。
「……はっ」
握っていたはずの重さが掻き消えた。ヴォルガーは、空になった自分の手を見下ろした。焼け爛れた掌の上を、白い息だけが流れていく。
理解が追いつかない。だが影が差し掛かると顔を上げた。
蒼い刃が、目の前に迫った。
――終わりだ。
そう思った。剣を初めて握った日が走馬灯のように頭の中を横切ったとき――。
ぼう、と。
イリヤの眼前で、小さな炎の光が灯った。何もない空間に揺れるその炎は、それ以上一歩も進ませない壁のように立ちはだかる。
凄まじい気配に、イリヤの動きが止まった。
『はーい、ストップ〜!』
鈴を転がすような、無邪気な声が響いた。
『あーちゃんの使者、や〜っと見つけたぁ!』
炎が、嬉しそうに跳ねる。
『もう隠れちゃダメだよ? また遊ぼうね! バイビ〜!』
炎が一瞬だけイリヤの視界を塞ぎ、その隙にヴォルガーの体が炎に包まれて後方へ弾き飛ばされた。彼は転がるように通路の影へ消え、追跡を振り切るように逃げ去っていく。
イリヤは、ゆっくりと氷の剣を下ろした。
張り詰めていた冷気がふっと緩むと、銀世界は音もなく解け、朝日の光に還っていった。
**
現状を見渡したリヒトがレオンの背をそっと押した。
「レオン殿下。さあ、お仕事です」
レオンは小さく頷き、声を上げた。
「衛兵、騎士たちよ! あの男を追え! 必ず生きたまま捕えるのだ! 負傷者の確認と、周囲の鎮火も優先せよ!」
指示が飛び、人々が動き出す。
戦場の中央で、イリヤの手のなかにあった、氷の剣が音もなく白い粒子となって空気へほどけていった。
向かい合うように、ルリシアが立っていた。
「……イリヤ」
彼女の声には、嬉しさと安堵と限界が混じっていた。青い瞳が潤み、口を開いて何か言おうとする。
けれど、その体が揺らいだ。
「ルリ……!」
イリヤが駆け寄り、彼女の体を受け止める。細い肩が力なく彼の腕の中に沈み、意識が遠のいていく。その身体をそっと抱きしめた。
乱れた金色の髪に顔を埋め、彼女の温もりを確かめるように腕に力を込める。
「……お前が無事で良かった」
小さく、不安が溶けていく声。朝の光が、冷えた身体を温めるなか、イリヤは初めて安堵の息を深く吐き出した。




