第25話 守るための力
帝宮の外郭の内側、連行のために設けられた通路。石畳は焼け焦げ、脇の生垣が炎を上げて赤く揺れていた。衛兵たちが倒れ伏し、呻き声だけが虚しく上がっている。
腕を拘束具で繋がれたアレクシスは表情ひとつ変えることなく、目の前に立つ男に視線を据えていた。
焦茶の髪に、抜き放たれた黒剣。刀身には異質な炎の気配が、濃く纏わりついている。
「……ヴォルガー・ナイトレイ。何のつもりだ」
名を呼ばれると、男の肩が微かに震えた。
「……やっと見たな」
やり切れない怒りが滲む掠れた声。黒剣の切っ先が、ゆっくりと持ち上がる。
「あんたは一度も俺を見なかった。首席になっても、勝っても、一度もだ。……負けた女に勲章をくれてやった時だってな」
炎が、男の全身から立ち昇っていく。
「一生を檻の中で腐らせるくらいなら、俺が終わらせてやるよ」
ヴォルガーの目に殺意が灯る。
「お前を殺す、この姿を焼きつけろ!」
アレクシスは無言で紫の瞳を細めた。
ヴォルガーを包む炎の質感。熱の奔流が、どこか不自然だ。この男には不釣り合いなほどの炎の魔力が浮き出ている。
(……炎帝か)
アレクシスは視線を地面に逸らし、表に立つこの男の背後で糸を引く存在を悟る。
感情を焼き焦がし、煽動しその欲を駆り立てる支配の力――「絶対的な炎」。あの炎帝の手を。
「……っ、逸らすなッ!」
激昂したヴォルガーが黒剣を振り上げると、アレクシスはようやく口を開いた。
声は冷え切った静けさの中に嘲笑を孕んでいた。
「何を見ろと? 魂を焼かれたお前に、今は何の価値がある」
紫の瞳が、炎を纏う男を見据える。
「所詮は紛い物だ。失せろ――不快だ」
その一言が、空気を凍らせた。
ヴォルガーの表情が歪む。肩が再び震えて炎が一気に膨れ上がる。
「――っ、貴様ァ!」
黒剣が、アレクシスへと切り掛かる。
――その刹那。
突風が割って入った。
上空から純白の飛竜が翼を大きく羽ばたかせ、猛烈な風を巻き起こす。炎を纏ったヴォルガーの体が、その風圧に押されてアレクシスから遠ざかる。
「――っ、ぐ!」
押し返されたヴォルガーが、踏ん張りながら体勢を立て直すと、割って入った邪魔者を睨みつける。
「てめえ……!」
その怒りを受け止めるように、飛竜の背からジルケットが飛び降りた。
「よお。お前か、また会ったな」
「……何度も邪魔するな」
「悪いな。こっちも仕事でね」
二人は切っ先を向け合い、一歩も引かずに睨み合う。その後方で小さな身体が飛竜から飛び降りた。赤い瞳が状況を冷静に把握する。
肩から、水色の光がこぼれ落ちると小さなトカゲの姿を取り、主にまんまるの目を向ける。
「消火を。周囲の炎を抑えろ」
イリヤの指示に、水の精霊が素早く動く。石畳の焦げ跡や生垣の炎に水を呼び起こし、蒸気を上げて消火を始めていく。アレクシスが、その様子を横目に吐き捨てた。
「余計なことを……」
イリヤは振り返らず、淡々と応じた。
「あなたには、まだ話してもらうことがたくさんある」
騒ぎに駆けつけた別の衛兵たちに、イリヤは指示を飛ばす。
「負傷者の救助を優先し、アレクシス殿下を再度拘束。今すぐここから離れるように」
衛兵たちは小さな騎士に戸惑いながらも頷き、倒れた者たちを支えながら通路を退いていく。
その合間にヴォルガーとジルケットの剣が激突していた。
剣の打ち合う音が弾けると瞬く間に加速した。ジルケットの剣が黒剣を弾く。火花が散り、甲高い金属音が石畳に響く。返す刃が、ヴォルガーの肩口を狙い、鋭く切り込む。
「っ……!」
ヴォルガーが体を必死に捻り、間一髪で逃れた。靴底が焼けた石畳を擦り、黒煙が足元から立ち昇る。
剣の技量では、明らかにジルケットの方が上だということを、ヴォルガーは先の戦いで理解している。間合いの取り方も、剣筋の速さも、体の使い方も。それでもヴォルガーは息を乱しながら喰らいつく。
「お前、帝国の剣士だろ? 何故、国に刃を向けるんだ」
ジルケットの声が、剣戟の合間に低く響く。
「……黙れ! お前には関係ないッ!」
ヴォルガーが怒鳴り返すと、黒剣を振り上げ、炎を纏わせて斬りかかる。
――ガキンッ!
ジルケットは頭上に剣を真横へ掲げ、振り下ろされた一撃を受け止めた。
すると、振り下ろされた刃がずしんと食い込み、ジルケットの足が地面に沈む。
――明らかに重みが変化した。
黒剣を弾き、打ち合いになると、さらにヴォルガーの剣が重くなっていく。
鋼が軋み、熱がじりじりと剣から伝わってくる。ジルケットの腕が、少しずつ痺れ始め、指先が震えて握力が鈍る。
(……なんだ、これは?)
異質な熱が直接、神経に入り込んでくる感覚にジルケットの動きが鈍くなった。
イリヤは、打ち合う二人を冷静に分析していた。
(この炎の気配……加護の力か……)
「ジル、一度下がれ」
背後から幼い声が飛んだ。
「あ?」
「そのまま打ち合うな。剣が焼き切れる」
イリヤの声にジルケットは即座に動いた。一振りで黒剣を弾き飛ばし、間合いを取る。
その隙に純白の飛竜が割り込み、翼で突風を起こしてヴォルガーを牽制する。
飛竜の背後でジルケットはイリヤの元へ駆け寄った。イリヤが手を掲げると、淡い青の光が膜のように白刃を包み、熱を弾いていく。
「お、助かる」
「持って数合だ。……あまり期待するな」
ジルケットは改めてヴォルガーに向けて、踏み込んだ。鋼が噛み合う中で、今度は水が炎を押し返し、ジュウッと白い蒸気が上がった。
「――っ、なんだと!」
変化にヴォルガーが後退した。ジルケットの剣が加速する。一合、二合、三合、休まず押し込んで、崩して、四合目で黒剣を跳ね上げた。
「もらった!」
――だが。
ゆらりと炎が、ヴォルガーの耳元で囁いた。
『怒りを燃やせ――焼き尽くせ』
次の瞬間、ヴォルガーの目に憎悪が焼き付く。炎が爆発的に膨れ上がると同時に、ジルケットの刀身を覆っていた水の膜が蒸発していった。
「……なっ、嘘だろ」
熱が、一気に流れ込んでくる。
「ぐ、っ……あっつ!」
柄を握る手が焼ける。ジルケットは咄嗟に飛び退いた。
背後でイリヤは息を切らしていた。小さな肩が上下し、額に玉のような汗が浮いていた。
(……駄目だ、足りない)
この身体の魔力量ではあの炎に対処できない。イリヤは、首から下げた指輪をぎゅっと握った。
そんな中、王宮騎士たちと共にクロヴィスが姿を現した。
「何があった!?」
クロヴィスが燃え上がる炎に目を見開く。
「殿下! 下がってろ!」
「全員邪魔だぁぁ! くたばれ――!!」
ジルケットが叫んだ直後、ヴォルガーの喉を裂くような叫びに炎が暴発する。
イリヤは咄嗟に水の精霊を放った。
「殿下を守れ!」
水色の光が主の元を離れ、クロヴィスの前で壁を成した。
だが、その幼い身体を護るものは消えた。
「――ッ!」
爆風が、イリヤを襲う。
「イリヤ!」
爆風が吹き荒れる中――芯の通った声が響く。
風の魔力をまとった影が、揺らぐ空気を裂いて駆け込んできた。
金色の髪が爆風に大きく広がる。たちまち足元に四色の陣が十字に刻まれ、混ざり合う淡い光が炎を打ち消していく。
幼いイリヤを守るように、ルリシアの青い瞳が光を携え、燃えていた。
「……ルリ」
「イリヤのばか……」
背を向けた細い肩が、小刻みに震えている。その背を見ながら、イリヤの赤い瞳が自然と伏せられた。
「……もう、勝手にいなくならないで」
「すまない」
乱れた金色の髪が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。涙声に決意を刻むように、ルリシアが紡いだ。
「――展開」
四色の光が弾けた。
ヴォルガーを囲むように円環が走り、地面から水の壁がせり上がる。同時に風が渦を巻き、石畳が隆起して、彼を閉じ込めるように歪んだ。噴き荒れる炎は内側へ押し込められる。
ぱちぱちと火の粉がヴォルガーの眼前で弾け、視界を遮った。
「この、っ……!」
噴き上がっていた炎が、一瞬だけ縮む。
「ジル! 私が炎を抑える!」
ルリシアが叫んだ。
その声に反応し、ジルケットが体勢を低くして踏み出す。援護に入ろうと剣を構えるが、炎の熱波がまだ強い。
ルリシアは両手を掲げ、四色の光をさらに濃くしていく。水の壁が厚みを増し、風が炎を内側へと締め上げる。彼女の魔力は炎の熱に負けじと真正面から抗っていた。
――だが。
水の壁越しに、ヴォルガーの目がルリシアの姿を確かに捉えた。
「……お前は」
声が低く沈み、黒剣を握る手がみしりと鳴った。
「魔導士のくせに剣を取った、あの時の女か」
その目に射抜かれ、ルリシアの背筋が冷たくなった。
ヴォルガーの中で、演習場の記憶が憎悪に火を点けた。仕留められなかった一撃。敗者の胸に留められた勲章。称賛する紫の瞳。
それらが炎となって燃え上がる。
「ああ、ちょうどいい」
炎が内側から膨れ上がった。水の壁が音を立てて蒸発していく。
「皇太子の首を取れないなら、お前でいい」
円環が、内側から吹き飛んだ。
「ルリ! 駄目だ! 下がれ!」
イリヤの、普段見せない焦りを含んだ声が弾けた。
「ルリ!」
ジルケットが割り込もうとするが、その足元に炎が奔った。壁のように立ち上がり、押し戻される。
「くそっ、通れねぇ!」
「ルリシアさん!」
追いついたレイラが剣を抜き、ライルが地の魔力を練る。だが練り上げたそばから炎に焼かれ、ルリシアとの間だけを正確に塞がれていた。
ヴォルガーが、ルリシアへ迫る。
「ヴォルガーさん!」
ルリシアは逃げなかった。まっすぐな呼び声に、ヴォルガーの足が一瞬止まる。
「あの試合のとき、あなたの剣は本物だった!」
炎が、わずかに揺らいだ。
「あなたが、なぜ剣を取ったのか……わかった。剣が、あなたの想いに応えてた」
揺らぎが、大きくなる。ヴォルガーの黒剣の切っ先が、ほんのわずかに下がった。
「なのに――その手を、今は誰かに燃やされてる」
ヴォルガーは思わず、剣を握る手のひらを見た。焼け爛れ、赤黒く腫れ上がっている。熱に蝕まれた痕が、指の間まで広がっていた。
「……黙れ」
『お前の魂を燃やせ――強さを求めろ』
炎が、耳元で囁く。
「あなたの心を、利用されないでください!」
『惑わされるな。怒れ――』
ヴォルガーの喉が、ぐっと鳴った。揺れる瞳が、ルリシアと、焼けた自分の手のひらとの間を彷徨う。
「――黙れと言っている!」
囁きに引き戻されるように、炎が爆ぜた。
敷きかけた四色の光ごと、熱波がルリシアの体を叩く。彼女の身体が大きく吹き飛ばされ、石畳に転がった。
ルリシアの悲鳴が小さく上がる。
「「ルリ!」」
イリヤとジルケットの叫びが、熱波の中で響き渡った。
イリヤは動けずにいた。炎の向こうで、力尽きかける恋人の姿。それでも彼女は、身体を起こそうとしている。焼かれても、四つの色を敷き直そうとしている。
――友情に証なんて必要ないもの!
証など要らないと、彼女は言い切った。
イリヤは、胸元の鎖を握った。絆の指輪の中心で小さな石が淡く光っている。
――これを作った日。彼女の左手にそっと嵌めたとき、彼女は泣きそうな顔で笑った。何度も指を眺めて、光にかざして幸せそうに笑った。
二人を繋ぐ、絆そのもの。
――守る、と誓ったのは証ではなく、指輪が繋いだ先のたった一人の少女。
鎖を引きちぎる。石畳の上に指輪を置いた。肩にかかる大きな剣を取り、幼い腕で剣を高く掲げた。
「……ルリ」
苦しそうな声が落ちる。
「たとえ、証が壊れても、俺たちは――」
息を吸う。
「俺たちの絆は、壊れない!」
突き立てた。
――パキンッ。
澄んだ音が、炎の中に響く。
同じ瞬間、膝をついていたルリシアの左手でも、指輪の石が音を立てて砕けた。
「……え」
彼女が目を見開くと、その視界の端で白い光が噴き上がった。
柔らかな、あたたかい光が炎を押しのけて、小さな身体を包み込んでいく。
「……なんだ、あれは」
ジルケットが呟いた直後、その場にいた皆が眩い光に目を細め、とっさに身を低くする。
「イリヤッ!」
「おい、女。目を逸らすな」
黒剣の切っ先が、ルリシアの喉元へ向く。炎が彼女の周囲を囲い込み、逃げ場を塞いだ。
ルリシアは咳き込みながら魔法を呼び起こそうとした。だが焼けた喉が言葉を拒み、視界が霞んでいく。
四つの色は、指先で散った。
それでもルリシアは石の砕けた指輪を握りしめ、怯むことなく顔を上げた。
――まさにそのとき、空気が一変した。
「――氷華」
冷え切った声が落ちた瞬間、世界は一瞬にして銀世界へと塗り替えられた。
「……な、なんだ……この魔力」
ヴォルガーが、驚愕の言葉を吐き出すと息が白く凍える。
空気が凍てつき、石畳はたちまち透明な氷に覆われた。白銀の霧が焼ける炎を塗り潰し、舞い散る霜が陽光を弾いて輝く。
まるで、時が止まったかのような極寒のなか、黒剣は微動だにできなかった。
――ミラージュ・リフレクト――
深海のごとき底知れぬ魔力が場に満ち、呼応するように景色が揺らいだ。
無数の結晶が空中に浮かび上がり、ゆっくり回転しながらヴォルガーとルリシアの姿を多重に映し出す。結晶が鏡面となり光を屈折させ、空間を歪めると、鏡の迷宮へと変貌した。
深く染み渡る魔力が時を掌握し、誰もが動きを止めた。
ヴォルガーが鏡を見る。
そこに映る己の姿は、わずかに数秒先を映していた。彼が遅いのではない。鏡に映るものが、早いのだ――未来を予告する鏡。
二人を映す鏡の奥に、ひとつの影が滑り込む。
ヴォルガーは我に返り、ごおっと唸る炎を奔らせ、鏡を焼き尽くそうとする。
「――誰だッ!!」
力を振り絞り、黒剣を薙いだ。
キィィン――!
黒剣が、甲高い音を立てて弾け飛ぶ。
炎さえ凍えつきて裂けた。その向こう側に、男が降り立つ。
氷の破片を踏む音が、ミシッと鳴る。
舞う霜の中で、青白い魔力を刀身に宿して、紺色の髪が靡く。その姿からは幼い輪郭が跡形もなく消えていた。
「……イリヤ」
ルリシアの唇が、震えた。
「俺のルリに、触れるな」
極限の氷の世界で、身を切るような赤い瞳がまっすぐヴォルガーを射抜いた。




