第23話 拒絶
――ノクティスの気配を、最後に感じたのはいつだっただろう。
冷たい石の床に頬をつけたまま、スノウはぼんやりと考えていた。
ノクティスからもらった小さな石は、触れているだけで闇の気配があった。決して怖いものではない。孤独を隠してくれるような、温かい闇。それだけで、独りではない気がしていた。
けれど、アレクシスに奪われ、小さな石をピアスにされた日から、気配が絶えた。何度呼びかけても、ノクティスは応えてくれなくなった。
契約が切れたわけではない。今も、ノクティスの闇は何の負担もなく手に馴染み、媒体を通すことなく闇魔法を扱えている。
ただ、孤独を隠してくれる存在が消えた。アゼルもあの後から消息を絶ってしまった。
(……俺に関わった人は、みんな不幸になる)
左胸が、脈に合わせて疼く。
(俺は……結局、独りでいたほうがいいんだ)
「スノウ、しっかりしろ」
幼い声が降ってきた。薄く目を開けると、小さな手が肩を掴んでいる。
「起きろ」
「……無理だよ、イリヤ」
自分でも驚くほど、諦めを含む言葉が自然とついて出た。
「もう、なにやったって無駄なんだって……」
赤い瞳が、じっと見下ろしている。
「転移は使えるか。向こうに行くぞ」
「……は?」
スノウは咳き込んだ。
「無茶言うなよ。帝宮への座標は塞がれてる。繋ぐ座標が無ければいくら俺だって――」
言いかけて止まった。床の明るさに気づく。
二人の体の下で、光が脈を打っていた。四つの色が中心へ集まり、外へ広がっていく。禁断の紋様が端からほどけ、編み直されていく。
「……なにこれ」
「ルリが呼んでる」
「……ルリちゃんが……」
「無駄かどうかは、応えてから判断したらどうだ?」
スノウの目が、大きく見開かれた。
「この陣に合わせて闇魔法を展開しろ。ルリの魔力とお前の魔力を共鳴させることで、道は繋がる」
「……できるわけないだろ。俺が魔法を使えば、ピアスが拾う。全部あいつと繋がってる」
左胸を押さえ、苦痛に顔が歪む。
「……余計なことしたら、あいつの闇が心臓を刺す。死にたくない……」
「……お前は死なないだろ」
スノウが顔を上げた。
「ノクティスとの契約が、お前を生かしてる。死を願った心を渡して、生きる意味を得たはずだ」
どくん、と心臓が跳ねた。
「――お前が勝手に諦めているだけだ。自分の未来を自分で閉ざすな」
「……イリヤは、俺の何を知ってるって言うんだ……」
「お前の過去は知らない。――だがあの時、お前の術を浴びて全て理解した」
イリヤは、視線を逸らさなかった。
「助けてくれ、死ねばよかった、無駄なこと、死にたくない……お前の感情全てが矛盾してる」
その言葉を吐いた瞬間、イリヤ自身の過去が重なる。父に震える声で許しを乞うた日。剣を振るい、血と汗にまみれてまで完璧を求められ、笑わなくなっていった自分。
――生まれてこない方が良かった。
何度も思った。感情を殺し、ただ「正しい」人形になるしかなかった痛みが胸の奥で軋む。
「……イリヤ?」
「矛盾するのは……抗うからだ」
イリヤは小さく息を吐き、床の光を見つめた。抗わずに流されてしまえば、矛盾など生まれない。それなのに――。
――抗いたいと思う存在と出会ってしまった。
「精霊は、人の価値に応えるんじゃない――想いに応えるんだ」
スノウの喉が、詰まった。
「お前が、生きるために戦え。過去は変えられない。どれだけ悔やんでも、失ったものは戻らない」
血の滲む荒れた手が、イリヤの脳裏に浮かぶ。
――坊ちゃん、あなたの力はあなたの心です……それを優しく抱き留めてくれる人が必ず現れます。だから、手放さないで……生きてください。
赤い瞳が、わずかに潤んだ。
「お前の未来を侮辱する闇に屈するな」
まるで、自分に言い聞かせてきたような言葉。その言葉が、胸の奥の深いところに刺さった。
自分より、ずっと小さな手が差し出されると、スノウは左胸の痛みを堪えて、その手を掴む。
「……イリヤって本当に何でも知ってるんだな」
「俺のは……無駄口が多い。嫌になるほど、たくさん聞かされてきた」
碧い瞳から、翳る色が消えていた。
「……俺は勝てるかな?」
イリヤは頷いた。
「アレクシスの闇に、お前の闇が負けるはずないだろう。ノクティスは必ず応えてくれる」
スノウは小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。
**
冷たい感触に、ルリシアは目を開けた。
薄く重なった氷の花びらが、幾重にも自分を取り囲んでいた。淡く透き通って、内側からほのかな光を返している。
冷気の中に温かさを感じる。
「……イリヤ」
名を呼んだ途端、目の奥が熱くなった。
「制御不能です!」
「陣に近づけません!」
焦燥と怒号が飛び交っていた。黒いローブの人々が後ずさり、書類が床に散らばっている。
床一面の紋様が脈を打つ。四つの色が中心へ集まり、また外へ広がっていく。
――めぐる、めぐる。
母の歌が、耳の奥で鳴った気がした。
(……あの人の悪意に負けたりしない)
石の床に手をついて、ルリシアは立ち上がった。その瞬間、床の紋様が応えるように光った。
白い奔流が鳥籠を駆け上がり、鉄が音もなく解けていく。足首の枷が、光の中でほどけて消えた。
「娘を捕えろ!」
低い声が響く。アレクシスの顔から、笑みが消えている。
人々が、弾かれたように動き出す中、ルリシアの光を宿した青い瞳が、一人の人物の姿を捉えた。深くフードを被った小柄なその人だけは、動かない。
(あの人、水を差し入れてくれた……)
フードの奥は影に沈んでいて、何も見えないが目が合った気がした。そして、その人は小さく頷いた。
(だれ……? だけど今は……)
ルリシアは目を閉じ、左手の指輪に魔力を込めた。
「――ライアス、応えて」
白い光が、指輪から溢れた。
床の紋様を這っていた黒が、光に触れた端から消えていく。
四つの色の線が最後に一度だけ強く脈打ち、静かに沈んだ。
地下研究室が、しんと静まる。
「陣が、消えました……痕跡一つ残さず、全部……」
誰かが呆然と呟いた。
ルリシアはアレクシスを見据え、はっきりと告げる。
「あなたの計画は、ここで終わりです」
アレクシスは消えた陣の跡を、しばらく見下ろしていた。
「……まだだ。素材は残っている。組み直せばいい」
顔を上げたその紫の瞳に焦りはなかった。冷たい覚悟だけが残っている。
「――クリスティーノ嬢。そなたは、逃げられんぞ」
「……どういう、意味ですか」
「光が闇を消そうとも、光を消すのはまた闇だ。その力を放っておく国はない」
口元には微かな笑みが浮かぶ。
「今日ここで終わっても、また誰かが手を伸ばす。そなたは、聖女の運命から逃げられん」
「私は、聖女ではありません」
「今はな。……意思ひとつで逃げ切れるほど、世界は甘くはない。そしてもう一つ。イリヤ・クロウリーが加護の使者である限り、あの男が狙われることも終わらん」
イリヤの名が出ると、ルリシアは息が詰まった。
「私のもとに来い。使者ごと、帝国が匿ってやろう。この国に入れば、他国は手を出せん」
ルリシアは押し黙った。イリヤが、誰にも狙われずに済む場所。
見せられた花畑の情景が鮮明に蘇る。二人で、幸せに暮らせる未来に意識がかすんだ。
ルリシアの口元が、引き結ばれた。
「……行きません」
「なぜだ?」
理解が及ばないものを見るような声。
「そなたが望んでいたものだろう」
「私たちは逃げることを望んでない」
左手の指輪に、そっと触れる。彼女の決意に応えるように温かく光った。
「一緒に乗り越えていくって――そう約束したから」
紫の瞳が、わずかに細まった。
「安全よりも、困難を選ぶと? 理解できぬ」
「あなたに理解できるわけない。与えて、返すことができないあなたには、絶対に」
迷いのない青い瞳で、アレクシスを真正面から射抜く。
「――だから、私はあなたの聖女にもなりません」
地下に静寂が広がると、アレクシスは冷めた視線を向ける。
「……話にならんな」
消えた陣の跡を、靴先が踏む。
――そのとき。
空気が歪み、黒い渦が弾けた。
「――っ、いってぇ!」
転がり出てきたのは、銀髪の男。汗まみれで青ざめながら、それでも碧い瞳は真っ直ぐ前を睨んでいる。
その隣に、小さな影が音もなく降り立った。
その瞬間、ルリシアを囲んでいた氷の花が静かに砕けた。青白い破片が舞い、床に落ちて溶けていく。
「ルリ」
小さな足が駆けてくる。
「イリヤ……!」
ルリシアは膝をつき、その体を抱きしめると、涙が抑えきれずに落ちた。
「怪我はないか?」
「大丈夫だよ……」
腕に力がこもる。
「イリヤが、守ってくれてたんでしょう」
イリヤは無言で、乱れた金色の髪をそっと撫でた。
ルリシアの肩から、透き通った小さな体が抜け出す。水の精霊はイリヤの頭までよじ登ると、そこに落ち着いた。
「――ちょうどいい」
空気を割くようにアレクシスの声が落ちた。都合の良い道具を見つけたような、冷たい目でスノウを見据える。
「スノウ。陣を組み直せ。今度は術者としての最後の役目だ」
「……何を今さら」
アレクシスは一歩、歩み出る。
「地下は閉じる。……贄を置いていけば、どうなるかは分かるな」
スノウの動きが、止まった。
「だが、お前が望む人間は、全員解放してやる」
――時間が、止まった気がした。
見下ろされるその瞳に、スノウの口から自然と乾いた笑いがこぼれた。
「……はなから、俺の望みに応える気なんてないくせに……よく言うよ」
スノウの表情が、ゆっくりと変わっていく。怯えが剥がれ落ち、碧い瞳の奥に鋭い光が灯る。
「俺が馬鹿だった。お前の闇に怯えて言いなりになって――」
湧き上がる怒りが、顔を引き締めた。
「たとえ心臓を刺されても――もう二度とお前の命令は聞かねえから」
ずっと怯えていた男の拒絶に、紫の瞳がすっと温度を落とした。
「……愚かだな」
アレクシスの手が持ち上がる。
「その体で、その怯えで。――主に、牙を剥く気か」
――ドクン!
「…………ぐっ!」
左胸の突き刺さる痛みに、スノウは膝が崩れ落ちた。上手く息が入らない。
「忘れたか。お前の命は私が握っている。精霊との契約を今ここで終わらせることが、私にはできる」
足音が近づいてくる。
「ノクティスは、私のものだった」
その一言だけ、声の質が変わっていた。
「あれは私に応えるはずだった。皇族の人間に相応しい力……お前のような、価値のない路地で拾われた餓鬼ではなく」
スノウの碧い瞳が、下から睨み上げる。
「……だから、盗ったのか」
「取り返したと言え」
闇が噴き上がった。黒がうねりながら壁を這い、灯りが次々に潰れていく。研究員たちが悲鳴を上げて逃げ惑った。
スノウの手からも同じ黒が伸びる。二つの闇が正面からぶつかり、地下全体が軋んだ。
――だが、押されているのはスノウだ。
「ぐ、っ……!」
動くたびに心臓に痛みが走り、手足の先まで力が届かない。
(……あのピアス)
ルリシアの中で過去の光景が重なる。鏡の前で友情の証だと刺された深い紫の石。
(あれのせいで、スノウさんは自由になれない)
縛られ続ける、支配の楔。
ルリシアは、傍らのイリヤに視線を落とす。剣が、小さな肩に下がっている。
「……イリヤ。剣、借りるね」
イリヤは一瞬だけルリシアを見て、頷いた。
「柄が重い。両手で持て」
「うん」
鞘から引き抜くと、ずしんと腕に重さがかかった。訓練用の剣とはまるで違う。本物の重さだ。
(――でも、私にしかできないことを)
ルリシアは剣に風を纏わせ、重さを軽減させる。そして、真っ直ぐに駆け出した。
「スノウさん!」
膝をついた背に叫ぶ。
「顔、上げて!」
「……ルリちゃん、ダメだ!」
ルリシアは剣を構える。
「あれは、友情の証なんかじゃない! 友情に証なんて必要ないもの!」
白い光が、刀身を包んだ。
「――だから、一緒に!」
碧い瞳が、揺れた。
――未来を閉ざすな。
「……っ、ああ」
スノウが、震える手を持ち上げる。
「――もう絶望しない!」
黒い闇が、白い刀身に絡みついた。
光と闇が交ざり合い、互いを押し上げる。共鳴した力が刃の先で渦を巻き、激しい閃光が迸った。
その光が、アレクシスの眼前を真っ白に焼き尽くす。アレクシスは一瞬、目を背けざるを得なかった。
ルリシアが踏み込む。
だが、アレクシスの反応は速い。見えぬまま、気配だけを頼りに、真正面から闇をルリシアへ向けて放つ。
しかし――。
「――なっ!」
放たれたはずの闇が、内側から食い破られていく。刀身に絡んだスノウの闇が、それを喰らっていた。
膨れ上がった暗闇が、今度は彼の視界を覆い尽くす。
紫の瞳が闇に沈み、何も見えなくなる。動きを止めた隙に、ルリシアはさらに足を送った。
「闇に怯えているのは――」
膝を落とし、腰を回す。
振り抜く軌道が、そのまま光と闇に導かれていく。
「あなたの方よ!」
白い軌跡が、アレクシスの頬の横をすり抜けた。
――パキン。
深い紫の欠片が、彼の耳元で散った。
「……あ」
スノウの体から力が抜けた。左胸に手をやると、突き刺さるような感触が、嘘のように消えていた。
「……あ、れ」
碧い瞳から、ぼろりと涙がこぼれた。
「……息が……できる」
アレクシスの動きが止まる。白い指が、ゆっくりと耳元に触れた。
「…………」
その足元から、闇が滲み出した。
「――殿下!?」
研究員の悲鳴が上がる。闇は主の意思を待たなかった。壁を、天井を、床を這い、逃げ惑う人々に触れては、その恐怖を吸って膨れ上がっていく。
「な、なんだこれは……! うわあっ!」
「逃げろ! 早く――」
「……止まれ」
アレクシスの制止の声にも、闇は止まらない。
「止まれと言っている!」
彼が声を荒げると、うねった闇が振り下ろされる。
「――ルリ!」
イリヤの声が飛んだ。ルリシアは咄嗟に剣を掲げたが、闇が剣を叩いた。衝撃が両腕を突き抜け、剣が手から弾き飛ばされる。
「あっ――」
「ルリちゃん!」
石床を滑っていく刀身。黒い塊が、二人の頭上に落ちてくる。スノウがルリシアを庇うように覆い被さったそのとき――。
――ザンッ!
鋭い光が、真横から闇を斬り裂いた。深い闇が、霧のように散っていく。
立っていたのは、白い騎士服の男。
「……遅い。やっと来たか」
安堵の混じったため息のような声に、男は剣を振り抜いた姿勢のまま、声の主を見下ろす。
紺色の髪に赤い瞳。小さなその存在に、間の抜けた声がこぼれた。
「……ん?」
深緑の瞳が、二度、三度と瞬く。
「チビがいると思ったら、その態度……お前、イリヤか?」
「ジル!?」
ルリシアが驚きに声を上げると、ジルケットは剣を肩に担ぎ、にっと笑った。
「よう。元気にしてたか、ルリ」




