第22話 愛してる
落ちていく。どこまでも深い闇の底へ。その暗闇の中に、光が滲み景色が浮かび上がる。
広い部屋の床に、少年が額をつけていた。
「――申し訳……ございませんでした」
紺色の髪。あの子より少しだけ背が伸びてはいるが、まだまだ小さな体が震えている。
見覚えのある鋭い赤い瞳の男が、小さな彼を刺すように見下ろしていた。
「もう二度と、父上との約束を破ったりはしません」
声が、涙で潰れていた。
「だから、どうか……」
額を、さらに強く床に押しつける。
「――エレノアだけは」
(……イリヤ!)
ルリシアは手を伸ばした。
けれど落下は止まらない。景色は指の間をすり抜けるように遠ざかっていく。
代わりに、別の景色が流れてきた。
振り下ろされる剣。汗と血が混ざり合って滲んだ手のひらを、誰にも見せずに握り込む姿。
灯りが小さく萎んだ書斎で、赤い瞳の下に深い黒ずみを刻み、めくられ続ける左手と、動き続ける右手。
式典の壇上で、大人たちに褒め称えられながら、整った顔にまるで作り物のような笑顔を張り付けて頭を下げる少年。
どの景色にも音はない。だけど、その表情だけで彼の心が沈んでいくのがわかった。
笑わなくなっていく。目の奥から、少しずつ光が抜けていく。
(……やめて)
声にならない。
(見せないで。……あなたが、見せたくなかったものなのに)
最後に流れていったのは、見覚えのある顔だった。
入学の日。迷子になって広い学院を歩き回るルリシアの横を、イリヤは迷いなく通り過ぎた。一瞬たりとも目は合わない。誰も寄せつけない完璧な横顔で、まっすぐ前を見ていた彼。
――ルリシアが、初めて恋をした人。
伯爵家の跡取り、イリヤ・クロウリー。
完璧な彼は、こうして出来上がったのだ。
景色が途切れてまた闇になる。落下の感覚が、ゆっくりと消えて身体がふわりと浮き上がる。
やがて地に足がつく感触があった。だが、ルリシアはその場に膝をついた。身体から力が抜けて立っていられなかった。
「…………っ」
喉の奥が、勝手に鳴った。スノウの過去、イリヤの過去を見た青い瞳から、涙が溢れて止まらなくなった。
「……苦しいっ」
ぽたぽたと落ちた雫が、暗い地面に染みていく。
――パシャっと小さな音がした。
涙の落ちた場所で、水が跳ねた。染み込むはずの雫が盛り上がり、丸みを帯びてするりと形を取った。まんまるな目に細長い、透き通った体。
「……あ」
ルリシアは、涙で濡れた顔をあげた。
そこにいたのは、水の精霊。
「あなたは……イリヤの……」
精霊はちょこちょこと歩み寄ると、小さな前足でルリシアの膝をとん、と叩いた。
それから、少し離れて振り返る。
――こっちだよ。
言葉ではない、頭の中で呼び声が聞こえてくる。
「……待って」
立ち上がろうとして、よろけた。精霊は急かさず、ルリシアが顔を上げるまで、じっと待っていた。
やがて、小さな体がふわりと光を帯びる。
――四つの色が、めぐる、めぐる。
透き通るような歌声に、ルリシアは目を見開いた。母が熱を出した夜に歌ってくれた歌だ。
精霊が、また一歩進む。
――二つの色は、ひっくりかえる。
ルリシアは、震える足で立ち上がった。
――まわりにまわって、ひとつの輪。
**
水の精霊に導かれるように歩き出すと、闇が薄れていった。地平の向こうが、うっすらと白んでいる。
足元に草が生まれ、風が頬を撫でた。ルリシアは、自分がいつの間にか広い草原を歩いていることに気づく。
母の歌が繰り返される中を、ルリシアは歩き続けた。
――ぱちっと小さな火の粉が、目の前で弾けた。
青い瞳の中で、橙色の光が揺れた。
光がふわりと浮かび上がり、ルリシアの周りをくるりと回る。あたたかい温もりが、彼女の冷えきった胸に沁みていく。
――ほのおは灯り
別の声が響いて、東の空から陽が昇っていく。草原が金色に染まり、露が光り、影が長く西へ伸びた。
(……太陽が、あんなに速く動いている)
ルリシアは、あまりに幻想的な光景に息を呑む。
太陽が空を渡る。まるで、この世界そのものが巡っているみたいに。光の粒子が舞い、時間そのものが加速して流れていくかのようだった。
――ぽちゃん、と冷たい水の感触。
足元にはいつの間に水たまりが広がっていた。水面が、ささやかに揺れている。鏡のように澄んだその面は、ただ景色を映すだけでなく、記憶の残滓も抱きとめていた。
――みずは映す
透き通った水面が光を反射し、周囲の景色を映し出す。そこには、先ほど見たスノウとイリヤの横顔が映り、揺らめいていた。
ルリシアの頬から、一粒の涙が滑り水面に落ちた。雫は波紋を広げ、映っていた二人の顔を優しく溶かしていく。
ルリシアの前にいた水の精霊が、いつの間にか彼女の肩に乗り寄り添う。
――ひゅう、と優しい風が吹いた。
草が一斉に倒れ、緑の波が地平まで走っていく。風が旋回し、ルリシアの背中を押すと、彼女は再び顔を上げた。
――かぜは運び
風の歌声は、ルリシアの髪をふわりと持ち上げて耳元で歌った。風は見えない翼のように彼女を支え、前へと導いていく。足が不思議と軽くなる。
そして、行く手に一輪の花が咲いた。
ひとつ、ふたつと歩くたびに道の両脇へ花が広がっていく。土が盛り上がり、緑が伸びて草原に細い一本道が現れた。大地は彼女の一歩一歩を受け止め、道そのものを生み出していた。
――だいちは支える
四つの声が、揃った。
――ほのおは灯り
――みずは映す
――かぜは運び
――だいちは支える
ルリシアの唇が、無意識に動いていた。
「……四つの色は、めぐるめぐる」
母の声が、重なった気がした。まるで、四つの精霊が母の歌を継ぎながら、彼女を包み込んでいるかのようだ。
「二つの色は、ひっくりかえる。……まわりにまわって、ひとつの輪」
何かが呼んでいる。ルリシアは涙を拭い、前を向いた。四つの色が彼女の周りをめぐり、ひとつの輪となって、その先へと導いていく。
**
太陽が中天を過ぎ、傾き始めていた。
道はいつの間にか木立の間を抜け、枝葉の隙間から光が落ちて地面にまだらな模様を描いている。
サァー、と雲が流れ、影がルリシアの上を覆う。照りつけるまぶしさが和らいで、目の奥の痛みがすうっと引いていった。
――くらやみ隠して
誰かが歌った。ルリシアは立ち止まってあたりを見回す。けれど、誰もいない。
やがて雲が流れ去り、木漏れ日が彼女の頬を優しく照らした。
――ひかりは照らす
今度は、光の側から聞こえてきた。
「……だれ?」
答えは返ってこない。風が枝を揺らして、影が伸びてまた縮む。光が差して、また陰る。
交互に光と影がルリシアを覆うと、歌はそのたびに、どちらからともなく零れてくる。
――くらやみ隠して
――ひかりは照らす
ルリシアは、足を止めた。
まぶしすぎて目を開けていられない。だから影が隠してくれる。
深すぎる影の中では何も見えない。だから光が見つけてくれる。
どちらが悪いのでもない。どちらかが欠けたら、何も見えなくなる。
光と闇は表裏一体。ルリシアは闇の中で震えていた、あの小さな背中を思い浮かべた。
陽が沈み、また夜が来た。
星の下を、ルリシアは歩き続けた。精霊たちが四つの色の光になって足元を照らし続けている。
そして――空が、二度目に白んだ。輪が閉じる。
夜明けの光が差した先に、それは在った。
白い石造りの古い神殿。柱は苔むし、屋根は半ば崩れている。それでもなお、堂々と立っていた。
扉の前まで、まっすぐな石段が伸びている。ルリシアは、ゆっくりと登った。
ふと、足が止まる。最上段の脇に束ねられた花が置かれていた。とうに枯れて、色も形も失ったままそこに残っている。
(……だれかが、来たことがあるのかな)
ルリシアは、少しのあいだそれを見つめていたが視線を扉へ戻す。
そのとき、扉の向こうから歌が聞こえた。
――愛はあたえて、愛はかえす
聞いたことのない声なのに、どこか安心の色を宿す不思議な声に、懐かしくて涙が出そうになる。
――すべてがひとつ、いのちの輪
石の扉がゆっくりと開く。
**
神殿の中は、光で満ちていた。
崩れた天井から差し込む朝日が、白い石の床を照らす。その光の中心に、淡い金色の小さな光が、ゆらゆらと揺れながらルリシアを出迎えた。
光がゆっくりと彼女の前へ降りてくる。
このあたたかい光をルリシアは覚えている。
「……ライアス」
『――よく来たね』
柔らかな声。
『ずいぶん、遠くまで歩いてきた』
ルリシアの目から、堪えていたものが一気に溢れ出した。
「……ライアス。おねがい」
小さく一歩を踏み出す。
「助けたい人たちがいるの」
しゃくり上げながら、言葉を絞り出す。
「イリヤが、まだ帰ってこられない。……スノウさんが、ずっとひとりで、ずっと痛いまま苦しんでる」
拳を握りしめて、真っ直ぐに光を見つめる。
「お願いします。私に、力を貸してください」
ふわりと光がルリシアに近寄った。
『ひとつだけ、聞かせて』
金色の光が、ルリシアの胸の高さで止まる。
『きみは、さっき見たね』
ルリシアの息が、止まった。
『あの子たちが、誰にも見せたくなかったもの。隠して、隠して、隠しきって、蓋をした本当の心を』
泣く二人の姿が、鮮明に蘇る。
『とくに彼……きみが誰よりも想う彼の隠しごとに、きみは触れてしまった』
光が、ゆるやかに揺れる。
『あの子はまだ、たくさんのことを隠している。……その全部を隠されたままでも』
声が、少しだけ低くなった。
『――今と同じようにきみは、彼を愛せるの?』
ルリシアは、一度だけ瞬きをした。
それから、迷いなく口を開いた。
「……あたりまえだよ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「私が好きになったのは、完璧なイリヤじゃない」
涙を手の甲で拭う。
「豆が嫌いで、不器用で、優しいのに……人に頼るのが、すごく苦手な人」
胸の奥が、じんと熱くなった。
「隠してるものがあるなら、いいよ。言いたくなったら聞くし、言いたくないなら、聞かない」
左手の指輪に、そっと触れる。
「でもね、ひとつだけ譲れないの」
ルリシアは、まっすぐに光を見上げた。
「どんなイリヤでも、大好きなの」
声が、震えた。
「どんな苦しみを抱えていても、何を隠そうとしても――」
息を吸う。
「イリヤを、愛してる」
白い石の空間に、その声が響いた。
「未来も過去も……今のイリヤがいるから、生まれるんだよ」
――ふわ、と。
金色の光が、ほころぶように揺れた。
『……うん』
嬉しそうな声。
『それでいい』
光が、ルリシアの左手へと降りてくる。
指輪の石が、応えるように小さく灯った。
『愛は与えて、愛は返す』
声が、歌のかたちを取る。
『きみが与えたものは、必ずきみに返る。……返らなかったことは、一度もないよ』
光が、ゆっくりと大きくなっていく。朝日と混ざり合って神殿の中を照らし出していく。
『――行っておいで、ルリシア』
まぶしさに、ルリシアは目を細めた。
温かい光に包まれて、どこかで鐘のような音がひとつ鳴った。
**
帝宮地下。
「――殿下! 術式構成に、外部干渉!」
悲鳴じみた声が飛んだ。鳥籠の床一面に描かれた黒い陣が、勝手に動いている。
組み上げられていたはずの紋様が、端からほどけ、別の形へと編み直されていく。
「止まりません! 術式が……書き換わっていきます!」
「馬鹿な、術者はこちらの支配下だぞ!」
「ですが、現に――!」
研究員たちの焦りが広がっていく。
黒かった線に、四つの色が滲み始めていた。
赤、青、緑、そして紫。
中心から外へ、外から中心へ。止まることなく、輪を描いて循環するように別の魔力が流れていく。
「……何だ、これは」
アレクシスの顔が小さく歪む。紫の瞳が床の陣を追った。
禁断魔法は還す術。奪い、消し、注ぎ込む。一方通行でなければ成立しない。
「……何をしている! 術式の起動を止めろ!」
「制御不能です! 近寄れません!」
「……無能め!」
アレクシスが手を上げると、耳朶のピアスに熱が集まった。闇を凝縮し、鳥籠の中の少女を陣から引き剥がそうと干渉を仕掛ける。
黒い気配が伸び、陣の中心へ食い込もうとした――そのときだった。
少女の前に置かれていたコップが、バリンと割れた。
水が飛び散り、空中で凍りつく。無数の氷の結晶が光を反射しながら舞い、やがて氷の花となって咲き開く。
「氷の魔法……まさか……」
アレクシスの紫の瞳が睨むように細まった。
花びらのように重なり合う氷が、ルリシアを包み込んだ。固い氷の花びらが、彼女を守るために周囲を覆う。
アレクシスの闇は、氷の花びらの壁に弾かれた。
鳥籠の中で、金色の髪の少女は目を閉じたまま、穏やかな息をしている。
その足元から、白い霜が薄く広がっていた。冷たく、澄みきった深い水の魔力。
「……イリヤ・クロウリー」
アレクシスは、その名を吐き捨てるように言った。
組み替えられていく陣の光を凝視している、その瞳から初めて余裕が抜け落ちていた。
**
エーテル・コア、最深部。
螺旋階段を降りていく三人。突然、足を止めたリヒトにセナが声をかけた。
「……先生? どうしたんですか?」
リヒトは、黙ったまま動かない。
銀縁眼鏡の奥の藍色の瞳が細まる。何かを感じ取ったように、リヒトは背後を振り返った。
常の柔らかな微笑みが、消えていた。
「せ、先生? なあ、本当にどうしたんだよ」
エリックが一歩踏み出すと、リヒトはゆっくりと二人に視線を向けた。その表情に、いつもの微笑みを丁寧に貼り直す。
「セナさん、エリックくん。あとは、頼みます」
「……えっ」
「この先に居る人たちの側にいてあげてください。後ほど応援が来ます。私は行かねばなりません」
「は? ちょ、待てよ先生! どこ行くんだよ!?」
リヒトは問いに答えずに、眼鏡の位置を直した。
「ルリシアさんは、もう大丈夫でしょう。二人は二人の役目を全うしてください」
ふわりと口元が緩んだ、その顔には少しだけ嬉しそうな色が混じっていた。
「ようやく、決着の時が来たのです。――見届けないと」
リヒトは降りてきた螺旋階段を、今度は反対に登っていく。その背を、セナとエリックは戸惑いながらも見送った。
帝国の心臓がドクンと強く脈を打つと、地下の空気がわずかに揺れた。




