第21話 ひとりぼっち
誰かが、泣き叫んでいる。
その声に引きずり上げられるように、ルリシアは目を開けた。
――熱い。
立ち昇る黒煙に崩れ落ちる屋根。悲鳴と怒号の中を、人々が逃げ回っている。夜だというのに、あたりは炎で昼のように明るかった。
(……ここ、どこ?)
先ほどまでいた、地下ではない。確かめるように地面の土を撫でる。見渡すと、見覚えのない小さな村が炎で覆われていた。
「おいっ! こいつはどうだ!?」
縄を手にした男たちがルリシアの元に駆けてくる。
「――っ!」
伸びてきた手に、ルリシアは思わず目を閉じる。
だが、何も起こらない。恐る恐る目を開けると、男の手はルリシアの真横を通り過ぎていた。
背後で、短い悲鳴が上がる。
「見ろ! 銀髪だ! しかも目は碧い! これは高値で売れるぞ!」
小さな少年が、髪を掴み上げられていた。
涙と煤で汚れた顔が痛みに歪んでいる。
「はな、せっ……! 離せぇ!」
「やめて!」
ルリシアは飛び出し、男の腕を掴もうと両手を伸ばした。
――だが、するんっと身体がすり抜けた。
人に触れる手応えが何もない。もう一度掴もうとするが、やはりすり抜けてしまう。
(……どうして?)
足元の土には触れられたのに、人には触れられない。
少年は男たちに引きずられていった。何度も何度も「父さん」、「母さん」と叫び続けている。
叫びも虚しく少年が、荷物のように幌馬車へ押し込まれると、ルリシアは考えるより先に駆け出していた。
**
ガタン、ガタンと車輪が跳ねる。
荷台に、小さな体が身を寄せ合っていた。不安げな顔がいくつも並んでいる。幼い子から、十歳前後だろうか。誰も彼も痩せていて、あちこちから嗚咽が漏れている。
銀髪の少年は、隅で膝を抱えて泣いていた。
(……この子、もしかして)
「うるせぇ! 泣くな!」
突然、幌の外から怒鳴り声が飛んだ。
「お前たちは選ばれたんだ! 運が良ければ、この先も生きていける。奴隷としてな!」
嗤い声とともに、幌が乱暴に閉じられる。
ルリシアの握った拳が震えた。言い返してやりたいのに、自分の声は届かない。
「……なあ」
暗がりで、少し年長の少年が口を開いた。黒髪に黒い瞳。その目には小さな光が差していた。
「奴らは闇商人だ。この先に未来なんてない」
子どもたちが、のろのろと顔を上げる。
「俺はアゼル。力を合わせて、逃げようぜ」
アゼルと名乗ったその少年の声には、不思議な強さがあった。
銀髪の少年が、初めて顔を上げる。その幼いながらも綺麗な顔立ち。涙で濡れた、碧い瞳を見てルリシアは確信した。
(……やっぱり、スノウさんだ)
**
――こほ、こほ。
荷台の奥で、小さな咳が上がった。アゼルの隣にいた、黒髪の女の子だ。
咳が止まらない。細い肩が跳ねるように震えていた。
「……っ、なあ! 水をくれ!」
アゼルが幌に向かって叫んだ。
「妹が、苦しんでる! このままだと死んでしまう!」
舌打ちが返る。それでも、しばらくして馬車が止まった。
「ちっ……商品が使い物にならなくなっても困る」
水の器が、乱暴に差し入れられる。
「早く落ち着かせろ! じゃないと捨てていくぞ!」
子どもたちが立ち上がり、心配するように女の子に群がった。男の視線がそちらへ向く。
子どもたちの体で隠すようにスノウが動いた。荷台の縁から音もなく身を乗り出している。細い腕が、車輪の付け根へ伸びていく。
小さな指が、軸に差し込まれた留め具をつまんだ。ゆっくりと、少しずつ引き抜いていく。
ルリシアは、息をするのも忘れていた。
カチン、と微かな音を立てて、留め具が抜けた。スノウはそれを袖に隠し、何事もなかったように隅へ戻る。俯いて、また膝を抱えた。
(……スノウさん。怖くて、ずっと泣いてたのに)
**
再び走り出した幌馬車が、荒れた道で大きく跳ねた。
ガタン、と重い衝撃と共に外れた車輪が、道の脇へ転がっていく。
荷台が傾き、悲鳴とともに子どもたちが投げ出された。
「今だ! 散れ!」
アゼルが叫び、馬車から投げ出され倒れた男から棍棒をもぎ取ると、もう一人の男に果敢に立ち向かっていく。スノウも足元の石を投げつけた。
「舐めるなよ! ガキ共が!」
男の掌から、どす黒い影が噴き上がった。地を這い、鞭のようにしなって子どもたちを薙ぐ。
「――逃げろ! バラバラにだ!」
吹き飛ばされながら、アゼルがさらに叫んだ。その声に従って駆け出すスノウをルリシアは追った。
**
森の奥。倒木の陰で、スノウは膝を抱えて震えていた。
「…………うっ、う」
口を必死に押さえている。それでも嗚咽は止まらない。葉の擦れる音ひとつに、小さな体がびくりと跳ねた。
「こわい……こわいよ……」
ルリシアは、その前にしゃがみ込んだ。
「……大丈夫」
届かないとわかっている。それでも、声をかけずにはいられなかった。
「大丈夫だよ。……ここにいるから」
伸ばした手が、銀の髪をすり抜ける。何度やっても、頭を撫でることは叶わなかった。
ルリシアの目から、涙がこぼれ落ちた。
――ガサッ!
草を掻き分ける音に、スノウの肩が跳ね上がった。顔を出したのは、アゼルだ。頬に擦り傷を作り、肩で息をしている。
「……力を貸してくれ」
いきなり、そう言った。
「妹とはぐれた。逃げるとき、他の奴に頼んだんだ。……見つけられない」
力強い声が震えていた。スノウは袖で顔を拭うと、こくんと頷いた。
**
二人は、夜通し名前を呼び続けたが、あの咳をしていた女の子は、どこにもいなかった。
空が白み始めた頃、アゼルは膝をついた。
「……先に行け。俺は、残る」
「でも……」
「残るって言ってんだろ!」
怒鳴られて、スノウが体を強張らせる。ルリシアは二人の間に立って、胸を押さえながら見守っていた。
合流できた他の子どもたちが、森を抜けるために歩き出す。スノウも、何度も振り返りながら、その列に加わった。
――そして、途中で足を止めた。
列から外れ、来た道を駆け戻っていく。
(……戻る気だ)
ルリシアもスノウの後を追う。
やがて、アゼルがいたはずの場所に辿り着くと、スノウの足が止まり、小さな身体が震え出した。
草の上に、見覚えのある上着が落ちていた。その周りの土が黒く染まっている。
「……あ」
小さな声が漏れた。
「……あ、あ」
スノウは上着に触れようとして、途中で手を止めた。震える指が宙で行き場を失う。
やがて、その手はゆっくりと下ろされた。
**
それから彼は、森の奥へ歩いていった。
抜けるためではない。ただ、深い方へひたすらに進んでいく。
どこかで魔獣が呻き、枝が軋む。それでもスノウは足を止めなかった。幼い顔から表情が抜け落ちていた。
「……だめ」
ルリシアは、その背中に追いすがった。
「だめだよ、そっちは……!」
無意味だとわかっていても、喉が痛くなるほど叫んだ。
――より深い森の中で、途端に月明かりが消えた。
空は晴れているのに、あたりが真っ暗になる。木も、土も、自分の手さえ見えない。
その塗り潰された闇の中に、深い紫の光が灯った。
『――ずいぶんと、重いものを抱えているな』
不思議な声に、スノウがぼんやりと顔を上げる。
「……だれ?」
『我が名を、ノクティスという』
光が、静かに揺れる。
『人の子よ。何を望む』
「……しにたい」
ルリシアの胸が、鋭く痛んだ。
「もう、いやだ。ぜんぶ、いやだ。……父さんと母さんもころされた……アゼルも。ぼくが……ぼくが……」
『……なるほど』
紫の光が、少年の前まで下りてくる。
『ならば、私と結ぼう』
闇が、そっと少年を包み込んだ。
『我々精霊が加護を人に与えるは、四大のみ。私は与えぬ。――結ぶのだ』
光が、少年の胸のあたりで脈打つ。
『そなたの絶望を、私が引き受けよう。代わりにそなたは、生きる糧を受け取れ』
「……いき、る」
『そうだ。そなたの死を願う心は、私が預かる。されど、そなたは死ねぬがな』
スノウは、長いこと動かなかった。
やがて、震える手を持ち上げる。
「いきれば……」
小さな掌が、紫の光に触れた。
「きみが、そばにいてくれるの?」
――その瞬間、スノウの中から何かがすうっと抜けていくのが見えた。
ルリシアは息を呑んで、その光景を見ていた。
(……人を生かす、闇の精霊)
景色が霞んでいく。
**
次に目を開けたとき、そこは石造りの街の裏側だった。
「――ほら、分けろ分けろ!」
明るい声が響く。
路地の奥で、少年が布包みを広げていた。硬そうなパンと、少しの果物。群がる子どもたちに、てきぱきと配っていく。
銀色の髪に碧い瞳。十二、三歳ほどだろうか。背が伸びて、あの震えていた面影はもうない。
「これ全部、スノウが獲ってきたの?」
「今日は上出来だろ? 俺を誰だと思ってんの〜」
「すごーい!」
誇れる稼ぎ方ではない。盗んで、掠め取って、それを分けている。それでも彼は笑って、小さい子の頭を撫でて、明日も大丈夫だと言い聞かせていた。
(……今のスノウさんみたいに、前向きになってる)
胸が、じんと熱くなる。
あの日の絶望した表情は消え、生きる希望に満ち溢れていた。
**
ある夜、路地に入ってきた幌馬車が子どもたちを捕らえ始めた。闇商人たちだ。
「――走れ!」
真っ先に叫んだのは、スノウだった。子どもたちを背に押しやり、自分から男たちの前へ躍り出る。
「こっちだよ、おっさん! 鈍いなあ!」
挑発しながら、逆方向へ走った。けれど、彼は小さな子を庇って捕まった。
**
薄暗い、天井の高い建物だった。
煌びやかな壇上に照明が当たり、広々とした広間のその裏手に、いくつもの檻が並んでいた。
スノウは連れて来られたとき、【オークション】と書かれた垂れ幕を目にしていた。隅の檻で膝を抱えていたが、視線を泳がせ、ふと隣の檻に目を止めた。
息を呑む音がした。
「……アゼル?」
返事はない。
「アゼルだろ!? なあ、生きてたのか!」
格子を掴んで、身を乗り出す。
隣の檻の中で、黒髪の少年がゆっくりと顔を上げた。その目に、あの日に差していた光はなかった。
「死んだふりしただけだ……すぐ、見つかった」
抑揚のない声で呟くと、彼はまた俯いてしまう。
ルリシアは、思わず口元を押さえた。
あの夜、迷わず立ち上がって、みんなに逃げろと叫んだ人が――生きる希望を失っている。
「……アゼル」
スノウの声は震えていたが、碧い瞳には強い光が灯る。
「今度は、俺が助けるよ」
**
オークションが始まると、会場を異様な空気が支配した。仮面を被った人々が席に並び、素性を隠したまま獲物を値踏みする視線だけが交錯する。生ぬるい拍手が、空虚に響いた。
檻の中で、スノウは目を細めた。
(……この力で、めちゃくちゃにしてやる)
唇を引き結び、碧い瞳に冷たい光が宿る。決意だけが、その表情を硬く引き締めていた。
ノクティスと契約した日から、彼は魔導書を盗んでは隠れて読み、独りで闇を手に馴染ませてきた。
そして、その時が来た。
壇上の照明が割れ、影が這い、悲鳴が上がる。檻の錠が次々と弾け飛び、子どもたちが逃げ出す。
混乱が爆発した。仮面の男たちが立ち上がり、小さな影と追手が入り乱れる。スノウの闇は子どもたちを守り、道を切り開いていく。
やった――と、ルリシアは拳を握った。
だが、次の瞬間。
「……これは、これは」
その一言に、スノウの闇が震え、怯えたように彼の中に引き返した。
「力が有り余っているようだな」
悠然と歩いてくる長身の影。深くフードを被り、顔には煌びやかな仮面。覗く紫色の瞳は異様な光を帯び、逃れようのない圧でスノウを捉えていた。
男はスノウの前に膝を折り、白い手袋で彼の顎を持ち上げた。
「素晴らしい。……これほどの器を、こんな場所で腐らせていたとはな」
視線だけで、スノウは指一本動かせない。
「私と共に来い」
ルリシアの背筋が凍りついた。少し若い響きだが、その声を彼女は知っている。
混乱の中、逃げた子どもたちも、アゼルも、スノウにはどこへ消えたのか分からなかった。
**
「――スノウ」
柔らかな絨毯に窓から差し込む陽の光。
与えられた部屋は暖かく、食事はいつも温かかった。それでも、味がしなかった。
紫の瞳が、穏やかに少年を見下ろしている。
「石を持っているな」
スノウの肩が跳ねた。
「……なんの、こと?」
「隠さずともよい。……見せてみろ」
言葉は柔らかいのに、拒める種類の柔らかさではなかった。
長い沈黙のあと、スノウは懐に手を入れた。取り出したのは、小さな結晶石。深い紫の、静かな光を湛えている。
「美しいな」
白い手が、それを摘み上げた。
「――預かろう」
「っ、あの!」
伸ばしかけた手が、途中で止まる。
スノウはそれ以上何も言えずに、空になった掌をゆっくりと握り込んだ。
ルリシアの指が、無意識に動いていた。左手の薬指の銀の輪に埋まった、小さな石。
――そして、幾日か後。
「スノウにプレゼントだ」
鏡の前に立たされたスノウの耳に、細い針が通された。小さな痛みに震えた耳朶に、深い紫の石が揺れる。
「私と、お揃いだ」
アレクシスは、自分の耳元にも同じものを飾っていた。
「友情の証だな」
鏡の中で、スノウがぎこちなく笑った。
一つの石から作られたお揃いのピアス。
自分たちの指輪と同じ。なのに――。
(……どうして)
喉が詰まった。
(どうして、こんなにも違うの)
まるで、支配の楔。
**
再び、景色が変わった。
(……帝宮の、地下だ)
黒いローブの男たちが行き交う奥に、簡素な寝台が並んでいた。番号の振られた札が下がっている。子どもも、大人もいた。
少し背の伸びたスノウが、書類を抱えて俯きがちに歩いていく。
――ふと、足が止まった。
「……アゼル」
寝台のひとつに、黒髪の少年がいた。
「アゼル! 生きてたのか! 俺、ずっと……!」
駆け寄ろうとした足が、その視線を受けて止まる。憎しみを宿す黒い瞳。
「……お前も」
掠れた、怒りを帯びた声が落ちた。
「お前も、こいつらの仲間かよ。騙してたのかよ!」
スノウの顔から、血の気が引いた。
「ちが……違う」
何度も首を振った。
「いや、今は違わないけど。……あの時は、違うんだ」
言い終わらないうちに、アゼルが跳ね起きた。
「黙れ!」
叫び声が、地下に響き渡る。
「助けてくれるって言った、お前を信じた俺が馬鹿だった! この裏切り者!」
ルリシアは、両手で口を押さえた。スノウは裏切っていない。
けれど、その声は誰にも届かない。
暴れるアゼルに、ローブの男たちが群がった。押さえつけられ、別の区画へと引きずられていく。
スノウは、動けなかった。抱えていた書類が指の間から滑り落ちて、床に散らばった。
**
禁書の積み上がった、薄暗い部屋。
スノウは床にへたり込み、静けさの中で片手を耳元へ持っていく。
指先が、紫の石に触れた。
「……このピアスを付けた日から、心臓が痛い」
独り言が、ぽつりと溢れていく。
「でも、もっと痛いのは……」
ルリシアは、思わず手を伸ばした。
――そのとき。
ルリシアの視界が反転した。足元に闇が広がり、身体が落ちていく。
(――あっ、だめ! 待って!)
落ちながら、地下の薄暗い空間に小さなイリヤの姿と力尽きたように倒れるスノウの姿を捉えた。
『力を、解放しろ! ……必ず、守ってやる!』
「イリヤッ! スノウさん!」
ルリシアの呼び声は届かない。
イリヤの声が反響する。
『――反転』
さらに深い、真っ暗闇の中へ、ルリシアは吸い込まれるように落ちていく。




