第20話 反転
殺気が熱波のように正面から押し寄せた瞬間、ライルは盆を抱えたまま皇太子の部屋から飛び出した。眼鏡の奥で視線が必死に泳ぐ。
演習場で見た闇の剣士――ヴォルガーの体からは、肌を灼くような熱が立ち昇っていた。
「聞いていたのか。ここで何をしてる」
地を這う声とともに黒剣が無造作に振り下ろされる。
「――秘密ですよ!」
銀の盆に紫色の魔法陣が瞬く。薄い金属が硬質化し、盾代わりに変貌した。
ガァンッ!!
衝撃が腕を突き抜け、ライルは後ろへ吹き飛ばされた。
「……地の魔法……魔導士か」
「盆って意外と優秀なんですよ!」
軽口を叩きながら距離を取る。盆の広い面が力をうまく散らしてくれる。
ヴォルガーの黒剣を握る手に、赤い光が集まった。その魔力に反応し、ライルは掌を突き出し、炎を放つ。
二つの炎が正面からぶつかった瞬間、ライルの炎は糸に引かれるように吸い込まれ、膨れ上がる。
「はっ! 弱いな。炎は従わせるものなんだよっ!」
ヴォルガーが指を握り込む。
――ドォンッ!
爆炎が視界を白く染め、ライルの体が激しく吹き飛ばされた。東棟の壁が内側から爆ぜ、外壁ごと夜空へ投げ出される。
(うっ……!)
冷たい夜風が全身を叩く中、ライルは落下の恐怖に息が詰まった。地面が急速に近づいてくる――その寸前。
純白の飛竜が急降下し、大きな口でライルの侍女服の背中をがしっと掴んだ。布がきしむ音とともに急停止し、息が一瞬完全に止まる。
飛竜の背から声がかかる。
「おい、大丈夫か?」
「……ぺ、ぺちゃんこになるところ……でした」
ライルが安堵の息を吐くと、飛竜が彼を地面近くまで降ろした。
その直後、東棟の崩れた壁の穴からヴォルガーが飛び降りた。
着地と同時に、白い騎士服の男が剣を抜き放ち、ヴォルガーを正面から迎え撃つ。
二本の刃が激しくぶつかり合い、火花が夜の闇に散った。
男はライルを背後に庇いながら、ヴォルガーと激しく剣を交え始めた。
白い騎士服の男の剣捌きは鋭く、重い。剣を交えるたびに、ヴォルガーの黒剣を握る手に力が籠る。
(……こいつ、強い……!)
ヴォルガーが瞬時に距離を取った隙に、ライルは魔力を感知した。再び炎を放とうとする気配。
「動かないで!」
掌を地面に押しつける。土石が盛り上がり、男を覆う防壁が瞬時に立ち上がった。男の姿がヴォルガーの視界から消える。
姿を見失ったその束の間――夜空から白い飛竜が急降下してきた。
巨影が月明かりを遮り、ヴォルガーの視線が反射的に頭上へ跳ね上がる。
――その影の中から。
飛竜の背を蹴った男が、音もなく舞い降りた。竜の巨体が目眩ましとなり、剣を振りかぶるその姿は、闇に紛れ捉えられない。
鋼が激しく鳴り響いた。
ヴォルガーは舌打ちを残し、剣を翻した。
「俺の相手はお前らじゃねえ!」
再び二人から距離を取ると、ヴォルガーは炎の残光の向こうへ姿を消した。
男は低く唸る飛竜の首を軽く叩き、剣を収めた。そしてライルに向き直り、手を差し伸べる。ずれたかつらを見て、深緑の瞳を丸くした。
「……ん? なんだ、お前。ライルか?」
「今気づいたんですか? ジルケットさん、お久しぶりです」
ジルケットは一瞬眉を上げ、自然と口元を緩めた。
「ははっ、随分とやんちゃな侍女だとは思ったが……」
「僕、意外といけてますよね!?」
「……いや? 別に?」
沈黙が落ちた。
ライルはむっと眉を寄せ、ポケットに手を差し込んだ。ハンカチに包まれた小さな硬いものを、そっと確かめるように握りしめる。
**
帝宮の玄関広間を飛び出したレイラは、夜の冷たい風に頰を叩かれながら外の石畳へ駆け出した。東棟の方向から上がる炎と黒煙が、空を赤く焦がしている。
(ライル……!)
あの轟音と炎の大きさからして、ただ事ではない。胸が締めつけられるような不安が込み上げ、レイラは迷わず東棟へと足を向けた。
しかし、数歩も進まぬうちに、背後から腕を強く掴まれた。
「――お待ちください、御令嬢」
振り返ると、そこに黒髪に紫の瞳を持つ皇太子が立っていた。悠然とした佇まいで、穏やかな微笑を浮かべている。
「……その手をお離しいただけますか?」
「いいえ」
「あなたの宮が、燃えているのですよ……!」
「ええ、そうですね」
紫の瞳は夜の湖のように深く、感情の揺らぎを一切見せない。
「では、なぜ……」
「……もう、隠す意味もないでしょう」
男は淡々と告げた。
「私の役目は儀式が終わるまで、あなた方をここに留めることです」
レイラの胸に、冷たい確信が落ちた。
「やはり、あなたは……皇太子殿下ではありませんね」
男は答えず、ただ微笑を深めた。その一瞬、レイラの腕を掴む手の力が緩む。その微かな隙に、レイラは素早く手を振り払って距離を取った。
迷わず剣を抜き放つ。
「ルリを害する者に、容赦はしないわ!」
レイラの剣が、男の肩口を狙って閃いた。
――だが、剣が届く寸前のこと。
男の周囲に闇が蠢いた。影が鞭のように跳ね上がり、レイラの体勢をわずかに崩す。
その隙を突き、偽皇太子は素早く剣を抜いた。
ガキィンッ!
鋼の激突音が夜気に響き渡った。
白い影が、二人の間に滑り込むように割って入った。白いフードを目深に被った男の剣が、レイラの剣と偽皇太子の闇を帯びた剣を、同時に受け止めていた。
三つの刃が一点で重なり、甲高い金属音が夜気を裂いて尾を引いた。
衝撃によろけるレイラの体を、白いフードの男の左手が優しく支える。
「やあ、レイラ嬢。ご機嫌はいかがかな?」
その穏やかで馴染みのある声に、レイラは息を呑んだ。
「なぜ貴方様がここに!?」
レイラが驚愕に目を見開くと、フードの奥で、翡翠色の瞳が微かに光る。
偽の皇太子が眉を寄せ、低く尋ねた。
「……貴様は誰だ」
その答えを告げるがごとく――上空で白い飛竜が旋回し、強烈な風が吹き荒れた。風圧がフードをはらりとはじき飛ばす。
現れたのは、金色の髪をふわりと靡かせ、翡翠の瞳を持つ気品ある顔立ち。
彼はレイラに向けていた優しい眼差しを解くと、ゆっくりと偽皇太子へと鋭い視線を向け、張りのある声で告げた。
「エメラルド王国国王陛下の名代として、シルヴァリス帝国皇太子が関与したとされる重大な容疑を追及するため、皇帝陛下への謁見を求める」
一拍置いて、彼はさらに声を低くした。
「闇の君主の封印解除への関与……並びに我が王国を陥れようとした行為は、単なる内乱の域を超えた、他国に対する侵略行為に該当する疑いがある」
その言葉は夜空に重く沁み込み、衛兵たちを凍りつかせた。
「……クロヴィス・ヴェルディア」
皇太子の姿に扮した男は、翡翠の瞳から目を逸らさなかった。男の瞳に、ほんの一瞬、心の底を映したような陰りが差した。
**
紫の魔法陣の上で、皇太子の姿が霞のように揺れていた。実体はなく透けている。
それでも声だけは、虚無の間に重く沈むように響いた。
「ずいぶんと小さくなったな。イリヤ・クロウリー」
イリヤは倒れたスノウの傍らに立ち、映し出されたアレクシスを真っ直ぐに見据えている。
「スノウは報告を怠っていたようだが……問題はない」
紫の瞳が愉しげに細まった。
「そなたを無力化できていれば、それでいい。……私に跪かない守護者は必要ない。障害でしかない」
アレクシスの手がすっと持ち上がると、間の空気が震えた。
光の膜が像を結び、巨大な鳥籠の映像が滑り落ちるように投影の背後へ流れ込む。
そして、アレクシスの後ろに――冷たい石の床に伏せ、荒い息を繰り返す金色の髪の少女が、映し出された。
「……ルリ」
イリヤの小さな体が、自然と一歩前へ出た。
「ここにいる彼女は違う」
声に、薄く熱がこもる。
「四属性を完全に調和させ、伝説の守護精霊まで単独で顕現させた。……こんな器は、二つとない。特別な素材だ」
映像の中の男が、鳥籠の黒い格子に、そっと指を這わせた。
「――そなたが私に膝を折らずとも構わん。だが、この娘が私の聖女となった時。……そなたは、どうする?」
アレクシスの唇が、笑みの形に歪んだ。
「愛しい者の前でなら、跪くのだろう? ……水の大精霊アクアリスの加護の使者よ」
イリヤの赤い瞳は、怒りも屈辱も滲ませることなく、値踏みを返すように静かに見据えている。その目を見て、アレクシスはふと興を失ったように視線を外した。
「時に、スノウ――喜べ。計画が変わった」
床に倒れたまま、スノウは荒い息の下から顔を上げる。左胸の棘が、心臓を内側から抉るように脈打っていた。
「……なに、が……」
「贄が要らなくなった」
「……いらな……い?」
「彼女のおかげだ。これほどの器があれば、数を揃える必要などない。数百の紛い物より、本物に勝る一つがあればいい」
スノウの息が止まった。
「……じゃあ、集められた人たちは――」
「不要だ」
紫の瞳がわずかに笑う。
「案ずるな。捨て置くだけだ。……お前が長年探していた者たちも含めてな」
声が優しく響く。
「良かったではないか、スノウ。これで、犠牲はお前一人で済む」
スノウの喉から、掠れた音が漏れた。
「……俺、一人……? 術者が、なんで――」
「術者?」
映し出されるアレクシスが、心底おかしそうに笑った。
「何を勘違いしている。……お前は、術者ではない」
空気が、ずしんと重くなる。
「闇を無限に通してなお壊れぬ器。それが、お前をあの日に拾い上げた理由だ。――お前はただの媒体だ。私の聖女に闇を流すための」
スノウの視界が白く霞んだ。存在の全てを否定されるような言葉に、碧い瞳に薄く水膜が張る。
「では、始めよう。刻限だ」
その言葉と同時に、紫の魔法陣が激しく明滅した。アレクシスの投影が、まるで水面に映った影を乱したように、揺らめきながら急速に薄れていく。声の余韻だけが空間に残り、次の瞬間には跡形もなく消えていた。
間の床が、一斉に光った。
何もなかったはずの虚無に、光の線が走る。円環が幾重にも重なり、複雑な紋様が編み上がっていく。壁、天井、床を埋め尽くして――巨大な術式が、脈を打ち始めた。
スノウは倒れたまま、動けなかった。棘が体の自由を奪い、指一本、思うようにならない。
(……みんなを、助けられる)
霞む思考の中で、それだけが浮かんだ。
(俺一人が犠牲になれば、あいつらは……見捨てられずに済むかもしれない。どうせ、誰も俺の命なんか――)
『スノウさん、ずっと……泣きそうな顔してるから』
不意に蘇る。湯あたりした青い瞳の少女。
(……ルリちゃんは?)
ドクンと胸が軋んだ。
(俺が諦めたら、アレクシスの聖女にされたルリちゃんは、どうなるんだ……?)
堪えていた熱いものが頬を伝って、冷たい床に落ちた。震える声で小さな彼を呼ぶ。
「……イリヤ。ごめん……ごめんな……」
顔を上げられないまま、スノウは呻くように吐き出した。
「俺は……アレクシスの共謀者なんかじゃ、ない」
犬でも、手下でもない。捨て駒ですらない。
「ただの……道具だ」
嗚咽が、喉を裂いた。
「ごめん。俺、あの時に……死んでいれば、よかったんだ」
帝宮地下。
巨大で精緻な術式が光り、脈を打っている。
――ドクン。
その脈とは違う速い鼓動が、ルリシアの意識を揺すった。誰かが、泣いている。
(……イリヤ?)
朦朧としたまま、彼女は左手を握りしめた。違う。指輪の鼓動じゃない。
これはもっと――苦しくて、悲しくて、壊れそうな鼓動。
泣きそうな碧い瞳が浮かぶ。
(……スノウさん?)
ルリシアの胸が締めつけられた。
(やっぱり……おまじない、効かなかったのかな……)
おまじない程度の気休めの魔法。それでも、少しでも軽くなればいいと思った。泣きそうな顔をしていたから。
――ルリシア、大丈夫よ。
ふいに、遠い声が聞こえた気がした。
背中を優しく撫でる手。母の胸から伝わってくる、包み込むような鼓動。
――四つの色が、めぐる、めぐる。
旋律が意識の中に溶け込んでくる。ずっと思い出せなかった続きが、迷いなく口をついて出る。
――二つの色は、ひっくりかえる。
――まわりに、まわって。ひとつの輪。
ルリシアは冷たい床に伏せたまま、震える手を胸に当てる。
(……スノウさん。どうして、そんなに泣いてるの?)
へらへら笑って掴みどころのない言葉の裏に、たくさんの後悔を抱えてる。
(もう、一人じゃないから……。だから、絶望しないで――)
帝国立図書館、地下。
嗚咽を漏らすスノウの傍らに、小さな影がかかり、幼い手が震える背中に触れた。
「……勝手なことを言うな」
幼い喉から出ているとは思えないほどの揺るぎのない声。
「イリヤ……」
「お前を見捨てたりしない。助けてやる」
小さな手に、力がこもる。
「――だから、絶望するな」
スノウの碧い瞳が、大きく見開かれると涙が止まらない。
イリヤは目を閉じる――首元の指輪を握りしめて、想いを込めた。
(――ルリ)
「力を、解放しろ! ……必ず、守ってやる!」
巨大な術式が脈打つ空間に、幼い声が響き渡る。
帝宮地下。
ルリシアの左手に熱が伝わってくる。薬指の指輪が、これまでにない熱を持って光輝いている。
――この光は。
「……ライアス」
二つに割れて、もう召喚できないと思っていた。あの温かくて眩い光。
「……もう一度、応えてくれるの?」
ルリシアの問いかけが小さく落ちると、答えのかわりに、光が溢れた。
――二つの色は、ひっくりかえる。
ルリシアは、熱で霞む視界の中で、青い瞳に光を灯す。指輪をぎゅっと握り締めて、祈りを込めた。
(……イリヤの声が近くに聞こえる)
離れた二つの陣が、同じ律動で脈打っている。二つの陣が魔力を繋ぎ合わせ、絡み合っていく感覚がルリシアとイリヤ、そしてスノウの中で満ちていく。
「殿下! 娘の数値が異常です!」
ルリシアの変化に研究員の一人が声を上げた。振り返ったアレクシスの紫の瞳を、ルリシアを包む光が射した。アレクシスの口元が僅かに開く。
「……何だと」
指輪が繋ぐ鼓動が、幾重にも折り重なって刻まれていく。
「――展開」「――氷華」
闇と、光。闇は還り、光は――。
「「――反転」」
二つの声が、離れた場所で重なった。
眩い光が弾けて、二つの場所を白く塗り潰してゆく。




