第19話 虚無の間
奥へ進むほど、壁を伝う青い光が濃くなっていく。その先に、重厚な鉄扉が行く手を塞ぐようにそびえていた。その前には、見張りが一人。
鋭い視線が歩み寄る三人を射抜くと、男は、制止の声を放った。
「――止まってください。この先は禁止区画です」
「知ってます! でも、聞いたんです!」
セナが目を輝かせて詰め寄った。
「この奥に、番犬がわりの魔獣がいるって! 見たいです!」
「俺も気配ビシビシ感じるんだよなあ! 絶対デケェやつに違いねぇ! この目で見たい!」
「い、いけません。あそこは本当に危険で――」
「ちょっとだけ! 見たらすぐ帰ります!」
「駄目です!」
見張りが両手を広げて立ちはだかる。
「困りましたねぇ。……好奇心旺盛な生徒ですみません」
リヒトが、実に困った顔で笑った。
「まったく、若いというのは……おや」
見張りの顔を見た瞬間、その微笑みが翳る。
「あなた、魔力が乱れていますね」
「……え?」
「夜勤続きでしょう。このままでは倒れますよ。エリックくん、お菓子をください。黒い小袋のお菓子」
「え? 黒いやつ?」
エリックは首を傾げながら持っていた袋を漁った。手のひらほどの黒い小袋が他のお菓子に混ざって入っている。
(……こんなの、入ってたっけ?)
リヒトはそれを受け取り、中から一粒つまんで見張りに差し出した。
「どうぞ。私が調合した、魔力を落ち着かせる菓子です」
「い、いえ。勤務中に、そのようなものは……」
「そうですか。……ですが、乱れた魔力のまま闇の気配の傍にいるのは、あまり感心しませんね」
見張りの顔に迷いが走る。それからリヒトの穏やかな微笑みを見て――息を呑み、肩の力を抜いた。
「……ノヴァリス先生が仰るなら」
リヒトから受け取った菓子を、男は口に運んだ。もぐもぐと味わいながら「あ、美味い」と小さく声が漏れた。
食べてから数秒後、見張りは壁に背を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちた。安らかな寝息が、通路に響く。
「さあ、行きましょうか」
リヒトが鉄扉に手をかざす。錠が音もなく外れた。あまりに淡々と進めるリヒトに、二人は顔を見合わせた。
「……ねえエリック。リヒト先生って、何者……?」
「さあ……知らねぇ」
**
鉄扉の奥は、天井の高い巨大な空洞だった。
中央に地下へと続く螺旋の階段。その手前に、凄まじい気配が立ち塞がっていた。
黒い巨躯に三つの頭が、喉の奥で赤く燃える光を吹きながら、こちらを睨みつけている。
「うっそ、ほんとにいた……!」
「三つ首かよ! 聞いてねえぞ!」
地響きのような唸り声が、空洞全体を震わせた。
「ケルベロスですね。この施設の番犬です」
リヒトは眼鏡を押し上げ、実にのんびりと言った。
「エリックくん、セナさん。あれを弱らせてください」
「「はい!?」」
「大丈夫、あなた方なら出来ますよ。……ああ、ですが殺してはいけませんよ。あの子も仕事をしているだけですから」
二人は冷や汗を流して顔を見合わせた。――だが次の瞬間、二人の顔に「待ってました」とばかりの闘志が宿る。
「……だってさ、エリック」
「おうよ! やっとだ! ずっと待ってたんだよ、やっぱり騎士は実戦あるのみだろ!」
エリックが剣を抜き放ち、地を強く蹴った。真正面から突っ込み、三つの顎が一斉に襲いかかる。その全てを紙一重でかわし、巨体の腹の下へ滑り込んだ。
「エリック、たまにはやるじゃん!」
「たまには余計だっ!」
エリックが剣の腹で前脚を強く打ち据え、巨体のバランスを崩す。動きを封じ込めながら脇腹を的確に打ち、隙を作り出した。
「セナ、今だ!」
「まっかせなさぁい! 風よ、絡め!」
セナの鋭い声とともに、強烈な風が渦を巻いた。無数の風の鎖が三つの首に素早く絡みつき、互いに引き合い、激しく動きを封じ込める。三つの首が絡まり合い、ケルベロスは苦しげに咆哮を上げながら体勢を崩した。
「うっしゃあ!」
「先生、見てください! やりました!」
肩で息をしながら、二人が誇らしげに振り返る。
「ええ。お見事です」
リヒトは静かに拍手した。
「さすが、イリヤくんとルリシアさんのご友人。素晴らしい実力です。……ですが――」
眼鏡の奥の藍色が、すっと細まる。
「――甘いですね」
背後で地面が爆ぜた。
沈んだはずの巨体が跳ね起き、絡みついた風の鎖を力尽くで引きちぎる。解き放たれた三つの顎が、二人の背中へと一斉に襲いかかった。
「「へっ?」」
――パチンと指を鳴らす音。
小さな音が響くと、闇が走った。
黒い帳が二人の眼前を覆い、視界ごと世界を塗り潰す。ケルベロスの動きが、ぴたりと止まった。視覚と嗅覚を奪われて、三つの頭が混乱したように空を掻く。
「いい子ですね、おやつのお時間ですよ」
リヒトは大きく開いた三つの顎それぞれに、無造作に黒い小袋から取り出した一粒ずつを放り込んだ。
ケルベロスが二度、三度と首を振り――やがて、どすんと横倒しに崩れ落ちた。三つの頭が揃って、幸せそうな寝息を立て始める。
「さあ、行きましょうか」
闇が霧散し、リヒトはもう螺旋階段の方を向いていた。
「り、リヒト先生……」
「はい?」
「……いえ。なんでもないです」
二人はよろよろと後を追いながら、そっと囁き合った。
「……ねえエリック。リヒト先生のお菓子まだある?」
「お、おう。あるけどさ……」
「ちょっと食べてみてよ」
「やだよ! お前が食えよ!」
押し付け合う二人の脳裏には、同じ光景が浮かんでいた。安心しきった顔で菓子を口に運び、数秒後には床に崩れ落ちた見張りの姿。
「お二人とも、ここは飲食禁止ですよ」
「「はいっ! 絶対に食べません!」」
((……リヒト先生からもらったものを口にする時は、慎重に……))
螺旋階段の底から、冷たい風が吹き上がってくる。三人は、地の底へと降りていった。
**
帝宮の東棟。人気のない上階へ続く階段を、眼鏡の侍女は盆を抱えたまま迷いなく上っていた。
甘栗色の癖っ毛を隠すようにまとめたお下げのかつらと、控えめなメイク。少し大きめの眼鏡が、中性的な雰囲気を醸し出している。
(炎の気配……イリヤさんの言う通り、確かに強い)
眼鏡を小さく押し上げて侍女に扮したライルはイリヤの言葉を胸に刻みながら、闇に満ちた廊下を進んだ。
この帝宮はどこもかしこも重い闇の魔力に覆われているはずなのに、炎の気配だけが不自然に濃く、まるで生き物のように漂っている。
――でも、少し前からその気配が、ゆっくりと移動している気がする。……おかしい。
最奥の部屋の前で足を止めたとき、背後から声がかけられた。
「そこにいる侍女。こんな時間に何をしている」
見回りの騎士だ。ライルは慌てて振り返り、侍女らしい柔らかい仕草で頭を下げた。
「申し訳ありません。わたし、先日から働き始めたばかりでよくわかっていなくて……アレクシス様のお部屋の掃除を頼まれまして、お部屋がわからなくて迷ってしまいまして……」
騎士の眉が寄る。
「アレクシス様が? あの方は自室に侍女であろうと、側近の執事以外は近づかせないはずだ。しかもこんな夜中に……お前、怪しいな」
ピンチだった。ライルは心臓が早鐘のように鳴るのを感じながらも、平静を装って微笑んだ。
騎士はじっとライルの顔を見つめ、しばらく無言でいた。
やがて、ぼそっと呟く。
「……君、よく見るとかわいいな」
眼鏡の奥でライルの目が丸くなった。
「とにかく、侍女室に戻りなさい。東棟は今夜立ち入り禁止だ」
騎士に肩を押され、ライルは素直にその場を離れた。角を曲がり、誰もいなくなったところで壁に背を預ける。
近くの窓に、自分の姿が映っていた。
「……僕って、意外といけてる?」
軽く頰を押さえ、思わず小さく笑ってしまう。だがすぐに表情を引き締めた。
(いやいや、そんなこと思ってる場合じゃない。目的を果たさないと)
その瞬間――東棟の上層、一室の窓から強い炎の気配が再び脈打った。
ライルは盆を抱え直し、急いでその部屋へと駆け上がる。
最上層の突き当たりには、重厚な黒檀の両開き扉があった。金と紫の帝国紋章が彫り込まれ、威圧感のある皇太子の私室らしい扉だ。
ライルは息を潜めて手をかざすと、意外にも錠はかかっていなかった。わずかに開いている。
(……ついてる)
意気込んで室内に入ると、そこは豪奢な私室だった。黒大理石の床、革張りの椅子、そして正面に冷えきった暖炉。
炎の気配が残った暖炉の前にライルは迷わず駆け寄った。膝をつき、灰の中に手を差し入れると、指先が何か硬いものに触れる。
つまみ上げたのは、黒く焦げた指先ほどの結晶の欠片だった。炎の魔力では燃えきらなかったらしい。
(これ……闇の魔力の残滓。間違いない)
素早くハンカチを広げ、欠片を丁寧に包み込む。証拠を手に入れた安堵が一瞬胸をよぎった。
(よしっ、早くレイラさんと合流しないと)
――その直後。
ぼぼっ、と。薪も火種もない灰の上で、突然炎が灯った。
みるみる大きくなり、赤い光がライルの横顔を舐め上げる。
「……え」
――熱い。息が詰まるほどの熱気。
そして、床に伸びた自分の影が、二つに増えていることに気づいた。
ライルはゆっくりと振り返った。真後ろに、いつの間にか男が立っていた。
癖のある焦茶の髪。腰の黒剣は既に抜き放たれている。
ヴォルガー・ナイトレイ。
「お前はここで何してる」
男の低い声が響いた瞬間、凄まじい殺気がライルを正面から押し包んだ。
**
同じ頃、玄関広間。
「――ですから、わたくしは記録に残る形でと申し上げて」
レイラの声を遮ったのは、地を揺るがす轟音だった。
ドォンッ!!
東棟の上階から響いた爆音に、窓ガラスが一斉に震えた。遠くで何かが崩れる音が続き、夜空に赤い光が跳ね上がる。
「なっ……!?」
レイラが弾かれたように振り仰いだ。衛兵たちが血の気を失い、侍女たちの悲鳴が広間に広がった。
「東棟です! 殿下、火の手が――!」
叫ぶ衛兵の声を聞きながら、レイラの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
東棟。ライルが向かった方角だ。
(……ライル!?)
思わず駆け出しかけた足を、ぐっと踏み止める。ここで動けば、彼が忍び込んだことを自ら明かすようなものだ。奥歯を強く噛みしめ、必死に平静を装う――そのとき、レイラは違和感に気づいた。
目の前の皇太子は、微動だにしていない。
自分の宮が燃えているというのに。その紫の瞳は表情ひとつ変えず、真っ直ぐにレイラだけを見つめていた。
「……殿下?」
呼ばれた男の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「……足止めは、もう宜しいのですか?」
**
地下に、術式の駆動音が低く響き続けていた。
「――なあ、地上、なんか騒がしくないか?」
「気にするな。刻限までに終わらせないと、殿下がなんて仰るか」
黒いローブの男たちが、計器を検めながら言葉を交わしている。誰も、檻の中のルリシアを見ようとはしなかった。
――ごほ、ごほっ。
ルリシアは冷たい石の床に伏せたまま、激しく咳き込んだ。喉が焼けるように痛み、体の芯は熱いのに指先だけが氷のように冷たい。視界が絶えず霞み、揺れていた。
「……あの……大丈夫ですか」
ずいぶん経ってから、それが自分に向けられた声だと気づいた。
のろのろと顔を上げる。滲んだ視界の向こう、格子のすぐ外に、黒いローブの人影がしゃがみ込んでいた。フードを深く被っていて、顔は見えない。
格子の隙間から、水の入ったコップがそっと差し入れられた。
「これ、飲んでください」
若い声だった。ルリシアは震える手を伸ばしかけて――ふと止めた。
(……だめ。この人も、あの人たちの仲間だ)
ここにいる人を信用しては駄目だ。何が入っているかわからない。ルリシアは唇を強く噛み、ゆっくりと首を横に振った。
「……っ、あ、あの、何も入っていません! 本当です。ただ、苦しそうだったから……それで――」
「おい! お前、何をしてる!?」
怒号が飛んだ。
フードの人影が、慌てて立ち上がる。
「い、いえ、その……苦しそうだったので、水くらいは、と……」
「余計なことをするな。触るなと言われているだろう」
「で、ですが、健康状態が良好でなければ、術式が失敗する可能性も」
「――はっ」
年嵩の男が、鼻で笑った。
「心配いらん。あの銀髪がやるんだからな」
(……銀髪)
霞む意識の底で、ルリシアの思考が、ぴくりと動いた。
「闇の精霊の加護を持つ男だ。失敗なんてするわけない。余計なことせずに持ち場に戻れ」
(……闇の精霊の加護?)
足音が遠ざかっていく。
格子の中に残されたコップだけが、揺れる視界の中でぼんやりと光っていた。何かを考えている間もなく、思考が熱に溶けて散っていった。
**
薄暗い地下への階段。イリヤが先頭に立ち、小さな背中で淡い水の光を灯しながら進む。
スノウはその後ろを、剣を握りしめてついていった。足音だけが、湿った石壁に反響する。
スノウは小さな後ろ姿を見つめながら、ぽつりと問いかけた。
「イリヤって……何者?」
「エメラルド王国の学生だ」
「いや、そうだけどさ〜。違くて……さっきの氷の魔法に、精霊を使い魔みたいにしてさ。アレクシスから剣と魔法を扱う異例の存在とは聞いていたけど……普通じゃないよね?」
イリヤは足を止めず、淡々と答えた。
「今、話すことじゃない」
「ケチ〜」
「お前こそ、秘め事だらけだろう」
「……うっ。ごめん」
スノウは肩を落とした。イリヤは振り返ることなく真剣な声で続けた。
「今は……ルリを助けると言ったお前を信じてやる。だから裏切るな」
その言葉に、スノウの記憶が蘇った。
『助けてくれるって言った、お前を信じた俺が馬鹿だった! この裏切り者!』
悲痛な声が胸を抉る。端正な顔が歪み、碧い瞳が激しく揺れた。左胸の棘が、ずきりと疼く。
イリヤは足を止めて、石扉を前に告げた。
「着いたぞ」
スノウはハッとして思考を振り払う。
イリヤが小さな手を石扉に押し当てるが、扉はびくともしない。すかさずスノウも扉に手を押し当てた。
軋みながらゆっくりと開いた。扉の先は開けた空間が広がっていた。
しかし、そこには――何もなかった。
ただの無。陣の痕跡も、闇すら感じられない、虚無の空間。
イリヤの小さな背中が、ぴくりと強張った。
「なぁ……イリヤ。これどういう――があっ」
突然、激痛が心臓を突き刺した。
「ぐっ……!」
スノウは膝をつき、その場に崩れ落ちた。剣が床に落ちる乾いた音が響く。
「これはこれは、よく我が術者を連れてきてくれた」
無の空間に、アレクシスの声が低く響いた。
紫の小さな魔法陣が床に刻まれ、霞んだ皇太子の姿がゆらりと現れる。
「準備の手伝いをしてくれて感謝する。――なあ、イリヤ・クロウリー」




