第17話 私のイリヤ
スノウと別れたルリシアは、自室へ戻るために薄暗い回廊を、周りを警戒しながら歩いていた。
悲鳴や足音が聞こえてきたらと、いつもより肩に力が入り、鼓動が速くなる。与えられた勲章が、静かに脈打っているような気がした。とくん、とくん、と心臓の音に寄り添うように。
「ルリ」
落ち着いた、聞き慣れた声に顔を上げると、回廊の先に彼が立っていた。
紺色の髪に赤い瞳。すらりと伸びた長身、見慣れた立ち姿。
「……イリヤ?」
声が震えた。そこにいたのは、彼女がよく知る大きな彼の姿だった。
「元に……戻ったの……?」
「ああ」
彼は柔らかく目元を緩めて微笑んだ。
「心配かけて、すまない」
その顔は、いつもルリシアにだけ向けられる優しい表情だった。青い瞳の奥が熱くなり、胸の中に安堵と喜びが一気に溢れ出す。
「……イリヤ、あのね。私、あなたに謝りたいことが――」
「ルリ。……お前に、見せたいものがあるんだ」
「……え? ……見せたいもの?」
「ああ」
彼が、ゆっくりと右手を差し伸べる。
「おいで、ルリ」
その声に、逆らえるはずがなかった。ずっと、「ルリシア」ではなく「ルリ」と呼んでほしかった。
ルリシアは、ふらりと足を踏み出した。
――ルリちゃん!
どこか遠くで、誰かが必死に呼んでいる気がした。知っている声が、遠くから響いてくる。
――でも、進み出した足は止まらない。
(……だってイリヤが、呼んでる)
ずっと会いたかった彼が、ここにいる。立ち止まる理由などない。今度こそ、見失わないために真っ直ぐ彼を見ていなくては。
彼が向かう先は真っ暗だった。でも怖くはない。彼の背中がすぐそこにあるから。彼が時折振り返って、「ルリ」と呼んでくれるから。
階段を降りて行くと、足元に光る紋様が広がった。
「イリヤ……待って」
「大丈夫だ。おいで」
黒い光が視界を包み込んだ。慣れない浮遊感に一瞬体が強張る。しかし彼の手がルリシアの手をそっと包み込むように握り、安心を与えてくれた。
世界が遠くなった。
目を開けると、そこは一面の花畑だった。
「…………きれい」
見渡す限りの、色とりどりの花々がさわさわと風に揺れている。空は高く、雲は薄く、柔らかな暖かい光が地上に注いでいる。遠くの木々のどこかで、鳥のさえずりが小さく聞こえてくる。
だけど、彼と繋いでいた手がいつの間にか離れていて、ルリシアは一気に不安になった。
「イリヤ、どこ?」
「こっちだ、ルリ」
穏やかな声に振り返ると、すぐそこに彼は立っていた。
「……ここは?」
「お前に、見せたかった」
イリヤは目を細め、花畑の向こうを指さした。丘の先に、小さな屋根がいくつか寄り添うように覗いている。
「この先に、小さな村があるんだ」
風が吹き、花の甘い香りがふわりと立ち上った。
「静かで、いいところだ。誰も、俺たちを知らない」
気づけば、彼女は彼の腕の中にいた。温かくて、すっぽりと包み込んでくれる腕。ずっとこうして欲しかった。
「……そこで、二人で暮らそう」
「……二人、で?」
「ああ」
抱きしめる腕に、力がこもる。
「もう、誰にも邪魔させない。家も、学院も、王国も……全部、置いていこう」
耳元で、低い声が囁いた。
「お前さえいれば、他は何もいらない」
……何かが、ちくりと胸の奥で引っかかった。
きっと気のせいだ。だって彼が自分だけを選んでくれる。二人で幸せになれるなら、もう彼は何にも縛られず傷つかない。
(イリヤが幸せでいてくれるなら……私は……)
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。ルリシアは、そっと目を閉じた――。
**
「一緒に行こう。……ルリちゃんを、助けに」
差し出された手を、イリヤはじっと見つめていた。身体が動かない。あの声が小さな体を目に見えない鎖でからめ捕る。
『不要なことはするな』
「……おれがいっても、なにもできない」
小さな呟きが零れた。俯いたイリヤの前で――スノウは、ふっと息をついた。
立ち上がり、壁際に立てかけられた剣を無造作に掴む。そして次の瞬間、イリヤの小さな体はひょいと宙に浮かんでいた。
「わっ……!」
気づけば、スノウの肩の上に乗せられていた。
「――何もできないわけ、ない」
スノウは前を向いたまま、いつもの掴みどころのない声で言った。しかしその芯は、一切揺るがなかった。
「剣は俺が持つし、足りない背丈は俺が足すよ。俺がお前の足になって、腕になる。……腕輪はもうないけどさ、俺たち一心同体だろっ!」
肩の上の小さな体が、僅かに震えた。
「ルリちゃんはさ。お前がいれば――それだけで、戦えるんだよ。あの子はそういう子だ。お前が一番よく知ってんじゃん。今は思い出せなくても、ルリちゃんに会えばわかる」
イリヤは、銀色の頭を見つめた。
「んじゃ、行きますか」
スノウが扉を開けた――その先に、見覚えのある人影が並んでいた。
レイラ、セナ、エリック、ライル。そしてその後ろに、困ったような顔をしたリヒト。
「……あれ? え? な、なんで!?」
間の抜けた声を上げるスノウに、リヒトがさらに困ったように眼鏡を押し上げた。
「あれだけの大声を上げながら廊下を走られて、何かあったと気づかない方が難しいかと」
「うっ……」
「それで?」
レイラが一歩前に出た。金色の瞳が、まっすぐにスノウを射抜く。
「ルリに、何があったの?」
「……ルリちゃんが、さらわれた。居場所は帝宮の地下だと思う」
息を呑む音が重なった。しかし狼狽えた者は一人もいなかった。
「――帝国自体が相手なんて……お父様に怒られるわね」
レイラは小さくため息をつきながらも、きっぱり前を向いた。
「だけど、どんな相手でもルリに手を出すなんて許さないわ。あの子は一人にするとすぐに無茶するから、早く行きましょう」
「あたしも! ルリの親友だもん、じっとしてらんない!」
セナが拳をぎゅっと握りしめ、エリックがばきばきと指を鳴らした。
「よしっ! ちょっと体が鈍ってたんだ! 暴れてやろうぜ!」
「真面目キャラは飽きましたから、そろそろ発散してもいいですよね?」
ライルが眼鏡の奥で目を細めた。
「あ、ちなみに私は、あくまで生徒たちの引率です」
リヒトがしれっと付け加える。
「夜間に生徒が出歩くのですから、教師が同行するのは当然の職務です。……行き先が、たまたま帝宮の地下だというだけで」
「リヒト、それ無理あるっしょ……」
「無理を通すのが、大人の仕事です」
肩の上で――イリヤは、並んだ顔をひとつひとつ見つめていた。
あの声が蘇る。ベッドの中で小さな頭を優しく撫でてくれた、あたたかい声。
『今のイリヤは、一人じゃないんだよ』
『仲間がいて、私がいるよ』
『それは、全部イリヤが築いたものなんだよ』
覚えていない。どうやって築いたのかわからない。いつも一人でいたから。
だけどあの強い光を放つ青い瞳を、確かに覚えている。
『二人でなら、どんな困難にも立ち向かえるよ。ずっと一緒にいる』
約束してくれた、真っ直ぐな青い瞳。
小さな身体の奥で、また何かが溢れた。……今度は堰を切ったように、小さな身体の中に溶け込んでいく。
(ルリがいたからできたことだ。ルリと出会わなければ、変わらず一人だった。それが一番楽だった。だが――)
ぎゅっと、指輪を握りしめた。
顔を上げた赤い瞳には、もう迷いはない。幼い顔立ちの奥に、騎士の眼差しが静かに灯る。
「……面倒なことは、不要ではないんだな」
小さな声が、夜の廊下に響いた。
「力を貸してくれ。――ルリを守るために」
声に宿る、皆が知る「彼」の灯火。
レイラが目を見開き――それから、ふっと不敵に笑った。
「ええ。……お帰りなさい、はまだ早いかしら?」
「半分だけ、お帰りって感じ?」
セナが涙目で笑い、エリックが親指を立て、ライルが力強く頷き、リヒトが静かに目を細めた。
「よーし、そうと決まれば――」
スノウが、イリヤを肩に担いだまま気合いを入れた。
「ルリちゃん救出ヒーロー作戦、開始!」
「「なにそれ、だっさ!!」」
夜の館に、セナとエリックのツッコミが響き渡り、七人は一斉に駆け出した。
小さな騎士の胸の指輪が、道標のように温かく脈を打ち続けていた。
**
彼の顔が、ゆっくりと近づいてルリシアは目を閉じた。
――瞼の裏に、小さな姿が浮かぶ。
『ルリシアは――おれのことが、すきなのか?』
幼い声が、耳の奥で響いた。
まっすぐな、赤い瞳。逃げるように部屋を出て、まだ答えていない。
唇が重なる寸前で、ルリシアは、ふと俯いた。
「……ルリ?」
大好きな声。ずっと聞きたかった彼の声が、穏やかな風に乗って響く。
「……私ね」
俯いたまま、ルリシアは囁くように言った。
「どんなイリヤも、好きだよ」
「ああ。……俺も、愛してる」
欲しかった言葉が、欲しかった声で降ってくる。なのに――涙が、一筋こぼれた。
「……馬鹿にしないでよ」
「ルリ……?」
「私、全てを投げ出すあなたを、好きになった覚えなんてない」
顔を上げる。青い瞳は涙に濡れながらも、まっすぐに彼を見据えていた。
「……どうした、ルリ。俺はただ、お前と――」
『……いいたくない』
『……あたたかいんだな』
脳裏に、幼い顔が浮かぶ。口を引き結んで、たくさんのものを小さな身体で一人で抱えていた、あの子。
(あの子が――イリヤが。抱えているものを全部捨てて、逃げることを選ぶわけない)
恋人になった翌日に、彼は言った。
――これから先、俺たちの進む道は決して楽なものじゃない。大精霊の加護に選ばれるということは、幸運なことではないんだ。お前を、危険なことに巻き込む可能性もある。
赤い瞳が、まっすぐに私を映していた。
――それでも、お前と一緒なら、乗り越えていける。隣に居てくれ、ずっと――。
どんな困難にも、全てを背負って、隣にいることを――彼は選んでくれた。一緒に戦うと約束した。そんな彼だから、ルリシアはその隣を選んだのだ。
「私のイリヤは、全てを捨てて私を選ぶ人じゃない」
ルリシアの青い瞳は強い光を宿し、目の前の最愛の彼を睨みつけた。
「私のイリヤを――馬鹿にしないで!!」
ルリシアの叫びに、風が止まった。花畑の色彩が褪せ、鳥の声が途切れる。
「……そうか」
目の前の「彼」の声から、温度が抜け落ちた。
「俺の想いを――お前は、踏みにじるのか」
ドン、と視界が反転した。
花々の中に押し倒され、首に大きな手がかかる。グッと気道が軋んだ。
「…………うっ……ぁ」
見上げた先の赤い瞳には、彼が決して浮かべない濁った、狂気の光が渦巻いていた。
(……苦し……でも……)
かすむ意識の底で、またあの声がした。
『……これ。おまえのと、おそろいだ』
『ずっと、にぎってた。……でも、おおきくてつけれない』
小さな掌の上で光っていた指輪。記憶を失っても、体が縮んでも、彼は手放さなかった――。
ルリシアは、震える手を持ち上げ、首を絞める腕に縋るふりをして、力を振り絞りその襟元を掴み開いた。
――ない。
「……そう……よ……」
潰れかけの喉から、声を絞り出す。
「あなた、は……私の、大好きな人じゃ、ない……! 私のイリヤは……指輪を、理由なく外したりしない、もの……!」
首を絞める力が、さらに増した。視界の端が黒く塗り潰されていく。それでもルリシアは、涙の膜の向こうから偽物を睨みつけ、ありったけの想いを込めて叫んだ。
「――消えて!!」
叫びと同時に、ルリシアの全身から魔力が迸った。押し倒された彼女を中心に、光の紋様が花畑を駆け巡る。炎の赤、水の青、風の緑、地の紫――四色の光が円環を描き、四大魔法陣が展開した。
偽物の顔が、初めて大きく歪んだ。
「――っ!!」
四色の光が柱となって噴き上がり、偽りの世界を飲み込んでゆく。
首を絞める腕が輪郭から崩れ、花畑が割れ、空が砕ける。――すべてを光の奔流が塗り潰す。
偽りの世界が、硝子のように砕け散る。
――視界がかすみ真っ白に染まる。
「……はっ!」
ルリシアは大きく息を吸い込んで、覚醒した。
冷たくて硬い、石の床。喉に手をやり、激しく咳き込む。首を絞められた感触が、まだ生々しく残っていた。
(……ここは?)
広大な地下空間。
見上げれば、自分を囲うように黒い金属の骨組みが弧を描いている――巨大な鳥籠のような檻。その足元の床一面に、見たこともないほど巨大で精緻な術式が黒々と刻まれていた。
ジャラと鎖が鳴り、足元に冷たい重みを感じて、視線を向けると足枷が嵌められている。
檻の外には、研究員らしき人間たちが幾人も立ち働いていた。誰一人こちらを見ない。計器を読み、術式を検め、記録を取る。まるで彼女が人ではなく実験物であるかのように。
そして、その中に一人だけ、こちらを見ている男がいた。
「――目覚めてしまったのか」
黒髪に紫の瞳。感情の読み取れない顔に、口元の微笑みだけが不気味に浮かび上がっていた。
「愚かだな。愛しい男と幸せな夢を見て、一生を過ごせばよいものを。……そなたは、悪夢をご所望のようだ」
アレクシス・ヴァルドリックス。
ルリシアは震える体を叱咤し、上体を起こした。喉はまだ痛み声は掠れる。
それでも青い瞳の光は消えていなかった。まっすぐに、檻の外の男を睨みつける。
「……皇太子殿下……これは……どういう、おつもりですか?」
「ほう」
アレクシスはわずかに眉を上げた。
「生意気な娘だ。……水の加護の使者と、同じ目をする」
ゆっくりと檻へ歩み寄り、黒い骨組み越しに紫の瞳で彼女を見下ろした。
「まあ、いい。光が強ければ強いほど――闇は、濃くなる」
そして、囁くように。
「せいぜい足掻き、輝くがいい。――そなたが放つ光の分だけ、我が『聖女』は、美しく仕上がる」
「聖女」という言葉に、ルリシアの表情に困惑の色が浮かぶ。
アレクシスは一度不敵な笑みを浮かべると、踵を返して、研究員たちの間を悠然と歩き去っていく。
「準備を続けろ。――刻限までに、一片の狂いも許さん」
ルリシアは、鎖の届く限り檻の格子に縋りつき、唇を強く噛んだ。
(……イリヤ)
巨大な冷たい鳥籠の中で、左手の薬指の指輪だけが温かく脈を打ち続けている。




