第16話 伸ばされた手
夜のバルコニーで、スノウは手すりに頬杖をつき、ぼんやりと帝都の夜景を眺めていた。
魔導灯の淡い光が瞬く美しい街並み。その裏側では、毎日のように禁呪がどこかで唱えられている。
「おや」
背後から声がした。
「今日は、お酒を飲まないのですか?」
リヒトが湯気の立つカップを二つ手に持ちながら、当然のように隣へ並び、片方をスノウの前の手すりに置いた。
「……なに、これ」
「蜂蜜入りの乳茶です。飲まない夜のあなたには、これくらいがちょうどいいかと」
「……子ども扱いしないでくれる?」
言いながらも、スノウはカップを受け取った。両手で包むように持つと、温かい湯気が視界を滲ませた。
しばらく、二人は黙って夜景を眺めていた。
「何か、お悩みですか?」
「……別に」
「では、当てましょう」
リヒトは眼鏡を押し上げ、何でもないことのように言った。
「あなたは今、自分がどうしたらいいのか、迷っている」
「……なにそれ、占い?」
「そして――イリヤくんに記憶消去を使ったことを、後悔している」
スノウの肩が、ぴくりと跳ねた。
「……なんで、わかるの」
「読むのが得意なので。当たり前です」
リヒトは涼しい顔で、自分のカップに口をつけた。
「それに、イリヤくんが小さくなってからというもの、あなたの魔力は乱れまくりです。管理者ともあろう者が、あんな粗い魔力を垂れ流して。……読むまでもありません」
「……うっわ、やだやだ。勝手に人の中、覗かないでくれる?」
スノウはへらりと笑ってみせた。いつもの軽い笑い方だったが、その碧い瞳は夜景から動かなかった。
「……リヒトはさ」
声から、笑いが抜け落ちていた。
「俺がしていること、どこまで知ってんの?」
夜風が、二人の間を通り抜けた。その問いにリヒトはすぐには答えない。カップの湯気の向こうで、藍色の瞳が静かに細められる。
「……そうですね」
そっとカップを手すりに置くと、ゆっくりと藍色の瞳にスノウを映した。
「私が知っているのは、視えているものだけです。あなたの魔力の乱れ。イリヤくんに絡んだ二つの禁呪。あなたの右耳のピアスに――ひどく、嫌な細工がしてあること」
スノウの指が、無意識に右耳へ伸びかけて、止まった。
「そして、視えないものがあることも知っています。あなたが何を命じられ、何を言えないのか。……それは視えない。あなたが話せないことも、含めて」
「…………」
「ですが、それを問いただそうとはしません」
リヒトは夜景に目を戻す。
「……いいの? それで」
「ええ。私は教師ですので」
いつもの台詞を、いつもの調子で。けれど続く声は、ほんの少しだけ誇るような声音。
「教師の仕事は、答えを決めることではありません。生徒が道を選ぶ時に、隣にいてその背を押すことです。……あなたが道を誤りかける、その前なら――いつでも、手を貸しますよ。スノウ」
スノウは、口を固く結んだ。
ただ、両手の中の乳茶を一口啜って――ぽつりと零した。
「……あっま」
「その甘さが、美味しいでしょう?」
「リヒトは甘党だもんね」
「よくご存知で」
リヒトが微笑むと、二人は同時に夜空を見上げた。この美しい帝都の夜景の上は真っ暗な闇が広がっている。
「この国って星見えないよね」
「街が明る過ぎるのですよ」
「見たいな……満天の星空。……綺麗なんだろうな」
遠くを見つめるスノウの横顔を、リヒトは静かに、けれどどこか切なげに見つめていた。
**
スノウはリヒトと別れたあと、回廊を歩いていた。曲がり角で、目の前に急に人影が現れた。
「あ、スノウさん」
乾ききっていない金髪を肩に流し、頬はまだ上気して赤い、湯上がりのルリシア。
「ルリちゃん……って、顔真っ赤だよ。どうしたの?」
「お風呂でのぼせちゃって……さっきまで脱衣所で休んでたんです」
「ふ〜ん?」
スノウの口元が、にやぁと持ち上がった。
「湯船で、イリヤのことでも考えてたの?」
「……っ、そ、そういうのやめてください!」
図星を突かれたルリシアが、真っ赤なままむっと頬を膨らませる。
「ははっ、ごめんごめん」
軽く笑ってみせると――その表情が、ふと落ちた。
「……本当に、ごめん」
夜の静かな回廊に、小さな声が落ちる。
「俺のせいで、イリヤは……」
ルリシアは、じっとスノウを見つめた。
魔導灯の淡い光の下、いつもへらへらと笑っている人の顔に、深い影が差している。思えばこの人は、あの日からずっと謝ってばかりだ。
「……スノウさん。手、貸してください」
「ん?」
きょとんとするスノウの両手を、ルリシアはそっと取った。目を閉じて、小さく息を整える。
――ふわりとルリシアの髪が浮き上がる。
繋いだ手から、温かなものが流れ込んできた。炎の熱が強張りをほどき、水の涼が疲れを流し、風が胸のつかえを軽くして、地の温もりが足元から支える。四つの色の淡い光が、スノウの体をゆっくりと一巡りして、消えた。
「……なに、今の」
「四属性の癒しのおまじないです。四つの力を調和させて巡らせるの。……まあ、気休めですけど」
ルリシアは手を離し、眉を下げて笑った。
「スノウさん、ずっと……泣きそうな顔してるから」
スノウの碧い瞳が、大きく見開かれた。
(泣きそうな顔……? 俺が……?)
喉の奥から込み上げてくるものを、奥歯を噛んでぐっと堪える。誤魔化すための軽口が、すぐには出てこなかった。
「……はは。……なにそれ。そんな顔してた?」
「はい。……今は、特に」
「……そっかぁ」
スノウは天井を仰いで、はーっと長い息を吐いた。
「……イリヤに見られたら、蹴られそうだなぁ……これ」
「あはは。……でも、イリヤも心配すると思いますよ」
「え?」
ルリシアは、柔らかな微笑みを浮かべる。
「あの人、自分からは手を伸ばさないけど……伸ばされた手を、理由もなく振り払うような人じゃないから。きっと、スノウさんの話を聞いてくれます」
迷いのない声。
「イリヤは、優しいんです」
どこか誇らしげなその顔を、スノウは眩しいものを見るように見つめた。
頭に浮かんだのは、「助けてよ」と軽口を叩いた夜のことだ。あの男は最後まで、こちらの真意を測ろうとしていた。呆れた顔をしながら、答えを急がせもせず、切り捨てもせずに。
夜交館で潰れた翌朝も、深いため息ひとつで、介抱しながら乱暴に引きずって連れて帰ってくれた。
そして――計画書を見られたあの時に向けられた、温度のない赤い瞳。
(……そうか、俺……あいつに失望されたくなかったんだ)
ルリシアの青い瞳がスノウの姿を優しく見据える。
「私も、同じです。話したくなったら、いつでも聞きますから」
「……ん。ありがと、ルリちゃん」
「いえ。……それじゃあ、おやすみなさい」
ぺこっと頭を下げて、ルリシアは回廊の先へと歩いていく。その背中を見送りながら――スノウは、自分の両手を見下ろした。
まだ温かい。四つの色の温もりが、掌に残っている。
(……ずるいよなぁ、あの子たち)
伸ばされた手を、理由なく振り払うような人じゃない。まだ、間に合うのだろうか。この汚れた手でも、あの二人なら――。
(……全部、話そう)
契約が、どこまで許すかわからない。バレたら終わる。だけど、このままじゃまた同じ過ちを繰り返す。
(それだけは嫌だ……一度くらい、誰かのために!)
「――ルリちゃん!」
スノウは顔を上げ、駆け出した。
**
角を曲がると、回廊の先に遠ざかる小さな背中が見えた。
「ルリちゃん、あのさ! 俺――」
声に反応することなく、彼女の足が自室へ向かう階段を素通りする。
「……ルリちゃん?」
迷わずにまっすぐに、回廊の奥へ。魔導灯の光が届かない館の深部へと歩いていく。
(……様子がおかしい)
あの子は、暗いのが苦手だ。この館を見上げただけで青ざめて、少し脅かしただけで飛び上がっていた。そんな怖がりの彼女が、灯りの一つも持たずに、迷いのない足取りで暗がりへ入っていく。
「――っ、ルリちゃん!!」
スノウは弾かれたように大きな声で呼びながら、駆け出した。
だが、ルリシアは振り向きもしない。回廊の突き当たり、地下へと続く古い階段を躊躇なく降りていく。
黴と埃の匂いが鼻を突く。二段飛ばしで彼女を追う。使われていないはずの地下倉庫、その最奥に――ぼう、と淡い光が見えた。
床に刻まれた、転移の魔法陣。
その陣にルリシアは躊躇うことなく足を踏み入れる。
「ルリちゃん!! だめだ、そこから離れ――」
腕に抱えた制服の胸元に留められたままの勲章が、ドクンと黒く脈打った。
「あの……っ、勲章! ルリちゃん、それ手放して――!」
届かない。勲章に呼応した魔法陣が目を覚まし、黒い光が渦を巻いて立ち上る。
「……イリ、ヤ待って……」
彼女は眠りの底から零れたような、力のない声で最愛の人を呼ぶ。
黒い光が弾け――魔法陣の上から、ルリシアの姿が掻き消えた。
「――ルリちゃん!!」
叫びが、誰もいない地下に反響する。
スノウは陣に駆け寄り、膝をついた。刻印を指でなぞる。座標紋様、構築の癖、この魔力の質――何度も見たことがある。
間違いなく帝宮の地下への転移陣。スノウは何度も使った。管理者の証を掲げれば、誰にも咎められずに通れる道だ。
(……最初から、そのための勲章か。イリヤだけじゃなく……ルリちゃんも)
迂闊だった。イリヤの幼児化を報告していなかったことで頭がいっぱいで、警戒が薄れていた。あの人の執念深さを誰よりもわかっていたはずなのに。
拳が、石の床を叩いた。
その瞬間、床に刻まれた魔法陣が淡い光を失い、するすると線が崩れて消えていく。まるで、ルリシアを飲み込んだ闇が証拠を隠すように。
スノウは咄嗟に陣の残滓へ手を翳し、後を追うように自ら転移魔法を展開しようとした。
――ずきんっと、左胸の奥で棘が心臓を突き刺すような痛み。息が止まり、冷たい汗が背を伝った。呼応するように右耳のピアスが焼けるような熱を帯びた。
「……っ、は……」
(今は、下手に魔力を使うのは危険だ。あの人に勘付かれる)
ルリシアを助けるために今すべきことは――。
(……イリヤ!)
スノウは床を蹴り、階段を駆け上がった。
**
同じ頃。ルリシアの部屋で、イリヤは一人、ルリシアの帰りを待っていた。
不意に水差しが、小さな音を立てた。
水面から、透き通った小さな体がするりと現れる。追跡に出ていた、水の精霊が帰ってきた。
「……おかえり」
差し出した掌に、精霊がちょこんと乗る。こくこくと喉を鳴らし、身の内に溜めた記録を震わせた。透明な体の奥で、光の粒がちらちらと明滅する。
イリヤは、じっとそれを見つめた。
「…………」
光は瞬いている。確かに何かを伝えようとしている。だが、その体に宿る記録を読むことが今のイリヤにはできなかった。
「……ごめん」
小さな指が、精霊の背をそっと撫でた。
「……いまの、おれじゃ……わからない」
精霊が困ったように、尾を垂らした。
(あとをおわせたのは……おれであって、おれじゃない……)
――ドクン。胸元で指輪が跳ねた。
「……?」
シャツの襟から、鎖ごとつまみ出す。
――ドクン、ドクンドクンドクン。
速い鼓動。だけど何かに不安を抱くような鼓動。それを伝えるように指輪が脈を打っている。
この音を、知っている気がした。悲鳴の上がる夜にしがみついてきた、怯えたあの心音。
「……ルリシア?」
ルリシアが怖がっている。
「……いかないと」
小さな足がベッドから降り、扉へ向かう。
――扉の前で足が止まる。
壁際に立てかけられた、大人用の剣。両手で握っても持ち上がらなかった剣だ。
柄に手を伸ばして――イリヤは、その手を下ろした。
(……おれに、なにができる)
この腕は剣を持てない。小さな身体は少し走れば息が上がる。行ったところで、足手まといにしかならない。
そして耳の奥で声がした。低く、抑揚のない、イリヤを支配するいつもの声。
『不要なことはするな』
朝の食卓は口をきいてはならない時間。
『お前はクロウリー家の跡取りだ。王国の標となる騎士となるために生まれてきた。それ以外は、余分だ』
(……いま、おれがしようとしていることは、よぶんなこと?)
ぎゅっと握りしめた指輪が、掌の中で熱い。速い鼓動が骨まで響いてくる。
――ばんっ!!
扉が、勢いよく開いた。
「イリヤ!!」
髪も服も乱れ、肩で息をした銀髪の男が駆け込んできた。いつもの間延びした軽さは、影も形もなかった。彼は部屋に転がり込むと、床に膝をつきながら小さな体の両肩を掴んだ。碧い瞳が、まっすぐに目線の高さに落ちてくる。
「ルリちゃんが、さらわれた!」
一度、呼吸を整えてスノウは続けた。
「俺じゃ、あの人の計画を止められない……頼むよ。もう、間違えたくないんだよ」
スノウは、ぐしゃりと顔を歪めて、喉から絞り出すような苦しい声で紡ぐ。
「イリヤ、覚えてないかもしれない。だけど……今度は本当に、助けてくれ」
目の前に、差し出される手。
「一緒に行こう。……ルリちゃんを、助けに」




