第15話 おれが、すきなのか?
アレクシスは、尻餅をついたままのルリシアの前まで歩み寄り、手を差し伸べた。
「お手を、クリスティーノ嬢」
「……は、はい。失礼、いたします……」
断るわけにもいかず、ルリシアはその手を取って立ち上がった。触れた指先が冷たくて思わず息を呑んだ、その瞬間――アレクシスの紫の瞳が真正面から彼女を射抜いた。微笑みの奥に潜む冷たい視線が、背筋を凍らせるように這い上がる。
アレクシスは従者から小さな箱を受け取り、蓋を開けた。中には黒い石があしらわれた銀の小さな勲章が鈍く光っていた。
「魔導士の身で剣を取り、我が学院の首席に恐れず挑んだその勇気に、帝国から敬意を」
「え……そんな、皇太子殿下! 私は負けました! このような物を受け取れません……!」
ルリシアは慌てて両手を振った。謙遜ではなく、本心からの断りだった。届かなかった一戦に、誇れるものなど何もない。
「勝敗に対するものではない」
アレクシスは薄く微笑んだまま、有無を言わせず一歩詰めた。
「異国の地で、己の流儀を貫く勇気に対してだ。……それとも、帝国の敬意は受け取れないと?」
笑顔で喉元に刃を突きつけるような圧力。これ以上の拒否は許さない視線に、ルリシアは唇を引き結び、深く頭を下げた。
「……身に余る光栄です」
アレクシスの手が、ルリシアの胸元に勲章を留める。その一部始終を、少し離れた場所でヴォルガーが睨むように見つめていた。
敗者に贈られる帝国の勲章。勝者の自分は、名すら呼ばれなかった。
帝国生徒たちの同情するような視線と、ひそひそ声が耳に突き刺さる。握りしめた拳に、爪が食い込んだ。
アレクシスは不敵な微笑みを浮かべたまま、ルリシアを見つめる。優雅な所作の裏にある、得体の知れない圧に、言葉が出ない。
「ところで」
アレクシスはゆっくりと演習場全体を見渡した。
「イリヤ・クロウリーは、どうした? 是非とも首席同士の剣を見たいものだ」
一瞬、場がざわついた。両国の学院生たちの視線が、戸惑いながら観覧席の隅にいるスノウへと集中する。
(……やばっ!)
スノウの喉がひゅっと鳴った。背後に隠した小さな体を、さらに深く押し込もうとする。
アレクシスの紫の瞳が、観覧席の隅に止まった。そのまま悠然と歩み寄り、スノウの目の前で足を止める。
「体調でも崩してしまったか? なあ、スノウ?」
「あ〜……えっとぉ、イリヤくんは、そのぉ〜」
全力で視線を泳がせる碧い瞳。
「ト、トイレじゃないかな! ほら、朝からお腹壊してたし!」
「――こわしてない!」
幼い声が響いた。小さな体がずいとスノウの頭を押しのけて身を乗り出す。むっと眉を吊り上げ、銀髪を睨みつけた。
「うそをつくな、ぎんぱつ!」
――演習場の空気が固まった。
スノウの顔から表情が抜け落ち、ルリシアの心臓が凍りついたように縮んだ。
紺色の髪、赤い瞳の幼児。皇太子の紫の瞳が、ゆっくりとその小さな姿へと降りていく。
「…………ほう」
アレクシスの眉間に、わずかな皺が刻まれた。
「……子ども? 学院に、なぜ。――報告は、受けていないが」
静かな声音だった。しかし、その静けさの奥で空気が軋むように重くなる。
「あ、あー! その子ね!?」
スノウが裏返った声で割って入った。
「イリヤくんに、そっくりでしょ!? この間、街で迷子になってたのを保護したんだよ! あまりにも似てるからほっとけなくてさぁ! 家族が見つかるまで預かってんの!」
スノウのあまりにも苦しい言い訳に、リヒトはこめかみを押さえて、深く息を吐いた。
「……そうか」
アレクシスはすっと屈み、イリヤの脇に両手を差し入れて無造作に抱き上げた。
「っ……!」
ルリシアが声を上げかけたが、堪えた。
宙に持ち上げられた小さな体。紫の瞳が間近から赤い瞳を覗き込む。値踏みするような、魂の底まで検分するように、その小さな身体を見定める。
長い沈黙が流れ、誰もがその緊張感に息を止めた。
――ぽろっと、小さな雫が溢れた。
イリヤの大きな赤い瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
「……こわい」
ぽろ、ぽろ。後から後から、透明な粒が頰を伝う。
その場の全員が凍りついた。イリヤであることを知っているルリシアたちは言葉を失った。いくら幼き日に戻っているとしても、あの完璧で何事にも動じない彼が泣いている。
「…………」
アレクシスはしばらく泣き顔を眺めていたが、やがて興が削がれたようにイリヤを床へ降ろした。
小さな足がたたっと駆け、ルリシアの元へ飛び込む。彼女は膝をついてその体を抱き留めた。
「……申し訳ございません。この子、大人のひとが苦手みたいで」
抱きしめながら、精一杯の申し訳なさを表情に浮かべる。胸元に顔を埋めていたイリヤが、ほんのわずかに顔を上げた。
涙の残るその顔が、真顔に戻っている。
(……え?)
濡れた赤い瞳は、怯えた子どもの目ではなく、脅威を測り終えたような冷静な目だった。
瞬きを一つ刻むと、イリヤは再びルリシアの胸に顔を埋めて、小さな泣き真似の声を添えた。
(……い、今の……)
ルリシアは抱きしめる腕にそっと力を込めた。
「……とんだ興を挟んだな」
アレクシスは既に踵を返して、去り際にただ一人、ルリシアだけをその紫の瞳で捉えた。
(まあ、いい。――イリヤ・クロウリーは自ら私の元にくる)
すれ違いざま、スノウの横で足が一瞬止まった。
「……子守も結構だが。役目を忘れるな」
スノウにだけ届く声でそれだけを残し、皇太子は従者と共に去っていった。
演習場に、詰めていた息が一斉に漏れた。スノウはその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
「寿命、縮んだぁ……」
**
その夜、寮の自室。
ルリシアは細い銀の鎖を手に、イリヤの前に膝をついていた。鎖に通したのは、彼の指輪だった。
「……はい」
小さな首にそっとかけてやる。シャツの胸元で、銀の輪が小さく揺れた。
「指につけられるようになるまで、これでどうかな? ……イリヤには、肌身離さず持っていてほしいの」
イリヤは胸元の指輪をつまみ上げ、じっと眺めた。それからルリシアの左手の指輪を見て、おそろいであることを確認するように頷いた。
「……ルリシア」
「ん?」
「なんで、けんでたたかった?」
赤い瞳がまっすぐに見上げてくる。
「まどうしなのに、……ふなれなけんでたたかった、りゆうがしりたい。ルリシアは、おこってた。おれのためにおこった?」
純粋な疑問にルリシアの心が揺れる。
「そ、それは……その……」
「ルリシアは――おれが、すきなのか?」
イリヤは視線を一切逸らさなかった。
その言葉に、ぼんっと音がしそうな勢いで、ルリシアの顔が真っ赤に染まった。
「――っえ、あ、あの、それは、その……!」
もちろん大好きだ。世界で一番誰よりも。
だけど改めて問われると、今のこの子にどう伝えればいいのか、頭の中が真っ白になった。
あわあわと口を開閉させて、思わず視線を逸らしてしまう。
その時、こんこんと扉が鳴った。
「ルリー? 汗かいたでしょ、お風呂行こー!」
「い、行くっ! 今行く! すぐ行く!」
セナの明るい声に、ルリシアは弾かれたように立ち上がり、着替えを掴んで扉に向かった。振り返りながら慌てて言う。
「イリヤ、お風呂入ってくるね! その話の続きはまた今度っ!」
「……にげるのか」
小さな呟きが、ぐさりと背中に刺さった。
**
この不気味な館で、唯一の天国――それが、大浴場だった。
磨かれた広い浴槽。その底に敷き詰められた黒い結晶が、魔力を熱に変えて湯を温め続けている。湯の底からゆらゆらと立ち昇る淡い紫の光。魔力の細かな気泡が、しゅわしゅわと肌を撫でていく。
「あ〜〜……生き返る〜〜……エメラルド学院にもこの大浴場ほしい」
セナが湯に顎まで浸かって、蕩けた声を上げた。
「火も使わず一晩中この湯温を保つなんて、悔しいけれど、本当にすごい技術よね」
レイラが髪をまとめながら、しみじみと唸る。
その隣でルリシアは、湯に浸かりながら、さっきのイリヤの言葉を思い出していた。頬の熱は、湯のせいだけではない。
「――で、ルリ」
レイラの声に、びくんと肩が跳ねた。
ルリシアを見つめる、金色の瞳がふっと緩む。
「今日の試合、見事だったわ。あの受け流し、ちゃんとイリヤの教えを活かしていたわね」
「うんうん! ルリ、めちゃくちゃかっこよかった! 毎日、剣の訓練してた成果出てた!」
「……ありがとう。でも、負けちゃったから、イリヤへの言葉を撤回できなかった」
ルリシアは、眉を下げて笑った。
「勲章だって……本当は、受け取れる立場じゃないのに」
「まあ、あなたはそういう子よね」
レイラが、呆れ半分愛おしさ半分でため息をつく。
「王都を救った褒賞だって断って、代わりに『働かせてください』なんて言い出した子だもの」
「だ、だってあれは、本当に何もいらなかったから……」
「はいはい、知ってる知ってる」
セナがけらけら笑って、それからにんまりと目を細めた。
「……ところでさぁ、ルリ」
ずいっ、と湯をかき分けて距離を詰めてくる。
「さっき部屋に呼びに行ったとき、顔が真っっっ赤だったよね?」
「っ!?」
「何かあった? ねえ、何があった?」
「な、なな、何も!? 何もないよ!?」
「怪しい〜。ね、レイラも何かあったって思うでしょ」
「そうね。今も茹で上がる三歩手前の顔だわ」
じりじりと左右から挟まれて、ルリシアの目が泳ぐ。
「……そ、その……イリヤに、聞かれて……」
「うんうん」
「私が不慣れな剣を取った理由を……聞かれて……それで……」
「それで??」
「私がイリヤのこと……す、す……」
ぶくぶくと湯に沈んでいく。鼻の下まで浸かって、ルリシアは目だけ出したまま、真っ赤な顔で黙り込んだ。
「……ルリ?」
「…………ぶくぶく」
「ちょっと、沈んでる沈んでる」
「――ルリ!? 顔真っ赤……って、あなたのぼせてるじゃない!!」
その夜、大浴場から湯あたりした少女が一名、親友二人に両脇を抱えられて搬出された。
脱衣所の長椅子で火照った顔を扇がれながら、ルリシアはぼんやりと天井を見上げていた。
(……好きだよ、どんなイリヤでも)
**
同じ頃。闇魔導学院の鍛錬場に、剣戟の音が一人分だけ響いていた。
「……くそがっ!」
ヴォルガーの黒剣が、木人形の首を吹き飛ばした。抑えられない憤りを、動かない敵にぶつけるように幾度となく剣を振るう。
思い出すだけで、胸に秘めた炎が暴発するような熱さに息苦しくなる。
――敗者の胸に留められる、銀の勲章。勝者を素通りした、皇太子の視線。
(……なぜ、あの御方は俺を見ない)
魔力量が足りず、魔導士の道は閉ざされた。だから剣を取り、誰よりも振り、血の滲む適合訓練を経て首席まで這い上がった。
震える手に力を込めて、再び剣を振り翳したまさにその時――。
鍛錬場の魔導ランプが、一斉にすっと明かりを失った。
直後、そのひとつがバリンッと砕ける音が闇に響き、ヴォルガーは動きを止めた。
砕けたランプの残骸の中に――ぽ、と小さな炎が灯った。暖炉の残り火のような、静かで優しい色。
『――哀れなことだ』
声が、炎から直接、胸の内側へ流れ込んでくる。
「っ、誰だ!」
『それほどまでに焦がれながら。……借り物の闇で仕えるお前を、主は一度も見てくれぬとはな』
「黙れ……!」
『怒るな。私は嗤いに来たのではない。――迎えに来たのだ』
ぼんっと炎が大きくなる。
『お前の内に眠る、誰にも借りぬ力。……炎だ。その力は、闇をも焼き尽くす』
ドクンと胸の奥が疼いた。幼い日に閉ざした、自分だけの燃える色。
『お前を見ない主に尽くす夜が、いつか耐えられなくなった時――その胸の火を、思い出せ。私は、お前を見ている。ヴォルガー・ナイトレイ。お前の力は、お前のためにある』
名を呼ばれた瞬間、ふっと炎が消え、鍛錬場に残りのランプの光が何事もなかったように戻る。
……幻聴だ。疲れているだけだ。
剣を納め、踵を返す。その足元で、じゃり、と硝子の破片が鳴った。
蓋をした小さな炎が再び灯る気配がした。左胸の奥で、埋めたはずの何かが燠火のように熱を持ち始める。
(そうだ……俺の力は、俺だけのものだ)




