第14話 私にしかできない剣
湯上がりのルリシアが部屋の扉を開けると、小さな唸り声が聞こえてきた。
部屋の隅で、イリヤが大人用の剣と格闘していた。両手で柄を握り、必死に持ち上げようとするが、幼い体が大きく傾いている。
「ぐぬぬ……」
「わっ、イリヤ!? 危ないよ!」
ルリシアは慌てて駆け寄り、傾いた剣を一緒に支えた。刃は鞘に入っているとはいえ、幼い彼には凶器も同然の重さだ。
「怪我したらどうするの? これは今のイリヤには大きすぎるよ」
「……でも、けいこをしないと」
イリヤは唇をきゅっと結んだ。
「けんのけいこは、まいにちかかさずやらないと……おこられる」
また、それだ。ルリシアの胸が痛んだ。誰も怒らないと言っても、幼いイリヤの心に刻まれた決まりごとは、そう簡単には消えない。
それでも彼は諦めず、小さな手で柄を握り直し、「ふぬぬぬ」と眉間に皺を寄せて剣を構えようとする。その姿は、どう見てもまだ幼い子どもそのものだった。
不意に、昼間の路地裏の記憶が蘇った。
幌馬車が見えなくなり、路地裏からは人気が引いたあのとき――。
『……ねえ、イリヤ。あの子たちはどうなるのかな?』
ルリシアが切り出すと、イリヤはゆっくりと振り返り首を横にふる。
『いまはわからない……せいれいが、ばしょをつきとめる。もくてきも、あいてもわからないうちは、むやみにてをだしちゃ、だめだ』
あの時の返ってきた答えは、幼い子の言葉じゃないと思えた。
――でも今、一生懸命に剣を持とうとする幼い彼の行動は自分が知っている彼ではないとも思える。記憶が混合しているのだろうか。
ルリシアは、そっと膝を折って目線を合わせた。
「イリヤは……本当に、私のことを覚えてないの?」
赤い瞳が、じっとルリシアを見つめた。
「……おぼえてない」
覚悟はしていたけど、胸が軋んだ。
「でも……もう、わすれない」
迷いのない、まっすぐな声。ルリシアは、どこか甘くて切ない想いをぐっと堪えて、ある疑問を投げかけた。
「ねえ、イリヤは今、魔法……使えるの?」
イリヤの目がまん丸になった。その後にじー、と自分の両手を見下ろす。
「……まりょく、もれてる?」
「う、うん。まあ、そうかな」
違う。――ただ、イリヤが剣士でありながら魔法を使えることを知っているだけだ。
「……まだ、くんれんがたりない。ちちうえに、まほうはつかうなって、きびしくいわれてる」
だから隠している。幼いころから、ずっと。ルリシアはそっと息を呑み、もう一歩だけ踏み込んでみた。
「じゃあ……氷の魔法は?」
「……こおり?」
きょとん、と首が傾いた。
心当たりのない顔にルリシアは悟る。
(もしかして……この頃のイリヤは、まだ加護を受けていないのかな。でもなら――)
「さっきの水の精霊は、どうしてイリヤに懐いてるの……?」
「あれは、ははうえの――」
言いかけて、ぴたりと口が閉じた。
「……いいたくない」
「うん。ごめんね。言いたくないことは、無理に聞かないから」
イリヤはしばらく黙っていたが、やがて上目遣いに尋ねた。
「……ルリシアにも、ある? いいたくないこと」
「う〜ん……言いたくても言えないことなら、たくさんあるけど……イリヤには、ないかも」
「ないのか?」
「うん。イリヤにだけは、私の全部を知ってほしいから」
ぼっ、と小さな耳が真っ赤に染まった。隠すように逸らされた横顔に、ルリシアも頬を染めて微笑む。
両腕を彼に向けて広げる。
「今日も、一緒に寝てくれる?」
イリヤは視線を彷徨わせてから――恥ずかしそうな顔のまま、素直に腕の中に収まってきた。
(どんなイリヤでも、大好きな気持ちは変わらないから……)
今日もまた、悲鳴の上がる館の一室で二人は寄り添い合いながら夢の中に落ちていった。
**
翌日。闇魔導学院の演習場に、両学院の生徒たちが集められていた。
「本日は実演です。我が帝国の『闇の剣士』についてご紹介します」
リヒトの言葉に、エメラルド側がざわりと揺れた。
剣を極めた者は魔力を行使できない。それは国を越えた、世界共通の理。エメラルド王国の騎士たちが魔導士とペアで戦うのは、そのためだ。
「もちろん、剣士は魔法を使えません。それはこの帝国でも変わらない。――ですが、剣に闇の魔力を溜めておけるとしたら?」
リヒトは、一振りの剣を掲げる。黒い刀身の根元に、深い紫の鉱石が埋め込まれている。
「この蓄魔鉱は、闇の魔力を貯蔵できる。剣士は己の魔力を使うのではなく、剣に蓄えられた闇を『引き出して』振るうのです。皆さんの国で、騎士が魔導士から付与を受けるように、我が国の剣士は剣そのものから借り受ける」
「で、でも先生、それって……」
ライルが食い気味に手を挙げた。
「引き出すのだって、制御が要りますよね? 剣士に、そんな繊細な魔力操作が……」
「ええ。だから、極めて難しい」
リヒトは生徒たちの顔一人ひとりを見渡しながら続けた。
「そもそも――誰もが潜在属性を持ちながら、誰もが魔導士になれるわけではありません。魔力量が基準に満たなければ、王国でも学院の門はくぐれないでしょう? 帝国も同じです。その中で闇への変換に適合する者は、さらに一握り。そして剣を極めた身で、外から闇を引き出し御しきれる者となると――帝国全土でも、数えるほどしかいません。ゆえに闇の剣士は、特殊な訓練を潜り抜ける必要があり、帝国の至宝と呼ばれます。無論、闇は外から借りようと心身を蝕む。彼らもまた、媒体を身につけています」
リヒトが視線を送ると、演習場の中央へ、一人の生徒が進み出た。
癖のある焦茶の髪の青年。腰の黒剣に、指には無骨な黒い指輪。口元には、隠しもしない不遜な笑みが浮かんでいる。
「この学院の首席であり、闇の剣士の一人、ヴォルガー・ナイトレイです。実演をお見せしましょう」
ヴォルガーは黒剣を抜き放った。刀身の鉱石が紫に明滅し――どろりとした闇が、刃に沿って噴き上がる。
一閃。
振り抜かれた黒い斬撃が、離れた場所の演習用の岩を、いとも簡単に両断した。断面から、黒い靄がじゅうと立ち昇る。
「「「……!!」」」
エメラルドの生徒たちが息を呑んだ。剣士が、魔法に等しい力を単独で振るう。自分たちの常識の、完全に外側だった。
ヴォルガーは剣を肩に担ぐと、つまらなそうに一同を見渡した。
「――で?」
ぎろり、と視線がエメラルド側を舐める。
「エメラルドの首席サマは、どこだよ。『闇の君主』を斬った英雄がいるんだろ? 王の執行者――ご大層な二つ名はここまで届いてるぜ」
観覧席の隅で、スノウの肩がびくりと跳ねた。隣に座るイリヤを、ちらっ、ちらっ、と冷や汗まじりに盗み見る。当の本人は、他人事のような顔で演習場を眺めている。
「俺はそいつと殺り合うのを楽しみに待ってたんだ。なのに蓋を開けりゃあ、姿もねえ。……あれか? 帝国の噂にビビって、国に隠れたか? 英雄サマってのは、ずいぶんと立派な足で逃げるんだな」
「――てんめぇ!!」
真っ先に弾けたのは、エリックだった。
「イリヤを馬鹿にすんじゃねえ! あいつはなぁ――」
「エリック、抑えなさい」
レイラが腕で制した。だがその金色の瞳にも、冷たい怒りが燃えている。
「……ああいう手合いには、格の違いを教えるのが一番よ。私が――」
「待って、レイラ」
ルリシアの静かな声が、割って入った。
「当学院の首席の代わりに、私がお相手しても宜しいでしょうか?」
ルリシアは訓練用の剣を手に、まっすぐに歩み出る。いつもの穏やかで柔らかな表情が、その横顔から消えていた。
「ルリ!?」
「ちょっと、あなた……剣で受ける気!?」
セナの動揺と、レイラの制止にエメラルド側が大きくざわめいた。
「ルリシアさんが……剣!?」
「無茶だよ、相手は剣の首席なのに……!」
ざわめきは、帝国側にも広がっていた。
「魔導士が、剣?」
「はっ、何かの冗談か?」
当然の反応だ。四属性の使い手が、わざわざ不利な土俵に上がる理由などない。
ヴォルガーが、ぷっと吹き出した。
「へえ……? 可愛いね、お前。魔導士のくせに、剣で来るんだ?」
黒剣を肩に担いだまま、値踏みするように眉を上げる。
「……いいぜ、乗ってやるよ。お前が負けたら、その勇ましさを讃えて、俺の彼女にしてやろうか?」
「結構です」
「ふーん、見た目と違って素直じゃねえな」
ルリシアは即答し、青い瞳でヴォルガーを射抜く。
「だけど、あなたが負けたら――イリヤへの言葉、ぜんぶ取り消してください」
怒りを含む声が、わずかに震える。
観覧席で、スノウが青ざめる。
「うわぁ……ルリちゃん、ブチギレてるじゃん……危なくない?」
その隣で、剣を構えるルリシアの姿を、イリヤの赤い瞳が食い入るように見つめている。
「これはおもしろ――」
リヒトはにこやかに言いかけてから、ごほんとわざとらしい咳払いをした。
「両国の親善試合ですね。では、模擬戦の作法でお願いします。魔法の使用はどうしますか?」
「もちろん、ありで。じゃないと彼女に怪我させちまうかもしれないからな。ま、俺は使わないけど。使わせたかったら、本気にさせてみろよ」
舐めるようなヴォルガーの口振りに、ルリシアの瞳に火が灯る。
「寸止め、または戦闘続行不能で決着です」
審判位置に立ったリヒトが、涼しい顔で宣言した。
「――始め」
合図と同時に、ヴォルガーの黒剣が閃いた。
最初は一方的な攻防だった。ヴォルガーは片手だけでルリシアの剣を軽々と受け、弾き、流していく。剣速も、太刀筋も、経験も、何もかもが上だった。
「そらよっ」
打ち合った瞬間、手首を返され、ルリシアの体勢が崩れた。蹴りの間合いに入られ、風の力で無理やり飛び退がるも、着地は大きく乱れた。
「はっ、逃げ足だけは一人前だな!」
明らかに弄ばれている。演習場に嘲るような笑い声が響いた。
(……落ち着いて)
ルリシアは荒い呼吸を深く整え、剣を構え直した。
――力でも、技術でも勝てない。なら、私にしかできない剣で――。
刀身に薄く水の膜を纏わせ、ルリシアは再び踏み込んだ。
ヴォルガーが面倒くさそうに剣を払う。触れた瞬間、ルリシアの刃がぬるりと滑り、力の芯を外して流れた。弾いたはずの手応えがない。
「あ? んだよ?」
勢いのまま体を回転させ、返す一撃。ヴォルガーは咄嗟に受け止めたが、腕に岩のような衝撃が走った。
「……重力か!」
軽かったはずの剣が、打ち合う刹那だけ地の魔力を帯びて重さを増していた。骨まで響く一撃に、ヴォルガーの顔から嘲りが消えた。
風が吹き、ルリシアの剣速が跳ね上がる。斬撃の合間に足元で炎が走り、黒い煙幕が噴き上がった。水で床を滑らせ、煙で視界を奪う。
「……ああもう、うっぜえなあ!!」
ヴォルガーの堪忍袋が、切れた。
蓄魔鉱が強く明滅し、闇が刃から奔流となって噴き上がる。
ヴォルガーが、ひとつ深く息を吸う。
横薙ぎの黒い斬撃が、煙幕ごと世界を薙ぎ払った。
ルリシアは風で床を這うように伏せ、頭上を黒がかすめるのを感じた。
(――イリヤの、言った通りだ)
脳裏に、マナレールで聞いた彼の言葉が蘇る。
◇
窓の外を流れる景色を眺めていたイリヤの隣に座り、ルリシアは気になっていたことをそっと切り出した。
「……ねえ、イリヤ。闇魔法は、私たちの四大魔法をすべて飲み込んでしまうでしょう? だからこそペアで戦うけど、魔法だけでは帝国に敵わないのかな……?」
声がだんだんと細くなっていくルリシアに、イリヤは窓の外を見つめたまま答えた。
「確かに、闇はあらゆる属性を喰う。まともにぶつければ、四大魔法に勝ち目はない」
「……うん」
ルリシアの肩がわずかに落ち、青い瞳に不安の色が濃く浮かんだ。
「だが、闇には決定的な弱点がある」
「弱点?」
イリヤはゆっくりとルリシアへ視線を向けた。
「闇魔法は強力だが、連発が利かない」
その言葉に、ルリシアの顔に希望と驚きが入り混じった表情が浮かんだ。
「対して四大魔法は即時発動が可能で、魔力が尽きるまで、いくらでも撃てる。手数と持続力では、こちらが上回る」
イリヤの赤い瞳が、ルリシアをまっすぐに映す。
「技術で先を行く帝国に、エメラルド王国が引けを取らない理由だ」
「一撃の闇と、手数の四大……」
「ああ。だから、闇と対峙する時は一撃を絶対にもらうな。奴らが『放つ』瞬間には、必ず溜めか、その後の隙がある。――それを、見極めるんだ」
◇
跳ね起きたルリシアの視線の先で、ヴォルガーの動作がわずかに鈍っていた。呼吸も一拍重い。
(……今しかない!)
ルリシアは全てを懸けて踏み込んだ。地が最後の歩みを押し上げ、風が剣速を加速させ、重さを乗せた渾身の一撃がヴォルガーへと迫る。
「――舐めんなっ!」
ヴォルガーが嗤った。
振り下ろされる剣を最小限の半身で外し、素の刃で絡めてねじ伏せる。ぐるりと手首が回った瞬間、ルリシアの剣が宙を舞い、遠くで硬い音を立てて落ちた。
「あっ――」
突き飛ばされ、尻餅をついたルリシアの眼前に、黒剣の切っ先がぴたりと突きつけられた。
「――勝負あり」
リヒトの静かな声が、決着を告げた。
(惜しかったですね。ですが、我々の弱点を彼女はよくご存じのようだ。媒体を通す我々と直接行使を行う彼女らの「差」を)
審判席のリヒトが、感心したように眼鏡を押し上げた。
演習場は、静まり返っていた。
「……ふん」
ヴォルガーが剣を鞘に納める。その手が、わずかに強張っていた。
当然の結果だ。剣歴の差は明らかだ。……なのにヴォルガーの胸の奥に渦巻くざわめきが消えない。
(魔導士の小娘に……隙を突かれただと……)
弄んで、格の違いを、見せつけるはずだった。それが気づけば本気で潰しにかかり、切り札を引きずり出され、その隙まで正確に狙われた。ルリシアの剣があと少し速ければ、結果が覆っていたかもしれない。
ヴォルガーは胸のざらつきを抑え、へたり込むルリシアを見下ろした。
「俺は、闇魔法がなくても剣で首席なんだ。誰がお前みたいなひよっこに負けるかよ……当てる気の一撃ってのはなあ、一番読みやすいんだ。覚えておけ」
座り込んだままのルリシアは、悔しさに唇を噛み締めた。その言葉に答えられない。あと、ほんの少しで届いたのに。
パチ、パチ、パチ――。
乾いた拍手の音が、静寂を破った。全員が、音の方を振り返る。
演習場の入り口。従者を引き連れた長身の男が、ゆったりと手を打ち鳴らしながら歩いてくる。黒髪に、紫の瞳。その口元には、優雅な、けれど一切の温度のない微笑み。
「――お見事」
シルヴァリス帝国皇太子、アレクシス・ヴァルドリックス。
その紫の瞳は、勝者のヴォルガーを――素通りした。
「四属性を自在に扱える以外に、剣までとは――噂以上だ。……実に見事だった、ルリシア・クリスティーノ嬢」
讃えられているのは、敗者だ。
ヴォルガーの顔が、屈辱に強張る。皇太子殿下の御前で勝利を収めた首席には、一瞥すらない。拍手はただ、尻餅をついた小娘のためだけに、鳴り続けている。
――ぎり、と。誰にも聞こえない音で、ヴォルガーの奥歯が軋んだ。
観覧席の隅で、スノウの顔から音を立てて血の気が引いていく。彼はさりげなく、小さな体を自分の背に隠した。
(……なんで。なんで今、来るかな……!!)
拍手の音だけが、演習場に響き続けていた。




