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第6.5話 君の視線

こちらの話は、イリヤの独白です。

 俺は、他人と関わりたくない。


 貴族社会の息苦しさ、派閥の駆け引き、血筋自慢、表の笑顔と裏の陰口──それらは、この学院でも毎日渦巻いている。


 俺がエメラルド魔導学院に入学したのは、伯爵家から一時的にでも逃れるためでもあった。

 剣術では敵なし、勉学では常にトップ──それが跡取りとしての義務であり、厳格な父の期待に応えるための最低条件。


 公爵令嬢レイラ・バーズフェルトを上回ることを、父は鼻にかける。


 だが、序列など俺には興味がない。

 この国は実力主義だ。だからこそ、この学院も平民と貴族が肩を並べて競い合う。


 身分など、二の次でいいはず。


 なのに、周りは「クロウリー家の跡取り」として俺を縛ろうとする。


 ……面倒だ。


 だから、誰とも視線を合わせない。

 寄せ付けない。必要最低限の言葉だけを交わし、距離を取る。それで十分だったはずだ。


 ルリシア・クリスティーノの視線には、数ヶ月前から気づいていた。


 魔法科の天才。四大属性を操るという噂は、嫌でも耳に入る。騎士科の連中が毎日騒いでいる。


 平民には珍しい、金色の長いストレートの髪に、青い瞳。歩くたびに髪が揺れて、周囲の視線を集める。

 騎士科の連中にとっては、憧れの象徴らしい。

 俺にとっては──ただ噂されている、魔法科の女子生徒でしかない。


 ……そう思っていた。


 彼女の視線は、食堂、廊下、中庭──どこにいても、俺を追ってくる。

 不思議で仕方ない。なぜそんなに俺を見る。

 見てるだけで、話しかけてくる訳ではない。

 少しだけ、鬱陶しかった。


 だが、何故か気になった──君の視線の理由を。


 だから俺も、彼女を観察することにした。

 気配を消すのは容易い。彼女が俺に気づかない時にだけ、静かに見ていた。


 彼女は誰に対しても笑顔を崩さない。

 困っている人間にはすぐ駆け寄り、手を差し伸べる。いつも周りに人が集まり、俺とは正反対の人間だ。


 だが、優等生のルリシアの「変化」は、彼女が一人でいるときにだけ現れた。


 ある日、中庭のベンチで本を読んでいると、彼女が横切る。俺には気づいていない。


 くすくすと笑いながら、ご機嫌そうに歩いている。何かいいことがあったのだろうか。


 次の瞬間、石畳みの隙間に足を引っかけた。彼女は慌てて両手を広げ、身体を大きく傾けてバランスを取る。

 金色の髪が一瞬、風に乱れて顔にかかった。

「あっ」と小さく声を漏らして、頰を赤らめる。

 よろめきながらも、何とか転ばずに耐えた。


(今日は耐えたな)


 彼女はよく転ぶ。物にぶつかることも多い。

 だが、必ず一人でいるときだ。


 周囲をキョロキョロと確認し、誰も見ていないと安堵したように髪を直して歩き出す。


 ──その仕草が、可笑しいとも、愛らしいとも取れた。


 いつも真面目な優等生の仮面の下に、こんなに危なっかしい一面があるとは思わなかった。


**


 別の日、演習場の端の木陰でルリシアが足を止めた。小さな黒い子猫が、草陰にうずくまっている。


「可愛い……!」


 彼女の声が、普段の丁寧な口調から一気に柔らかく、幼くなった。

 辺りをキョロキョロと確認し、誰もいないのを確かめてから、スカートの裾を丁寧に畳んでゆっくりしゃがみ込む。

 両手を差し伸べて、甘い声を出した。


「こっちおいで〜、怖くないよ〜。お腹空いてるのかにゃ? ……ふふっ……かわいい……きゅるきゅるだねぇ……」


 子猫は一歩後ずさり、彼女の指先を避けて逃げ出した。ルリシアの表情が、一瞬で曇る。


「え……待って……行かないで……」


 瞳がうるうると潤み唇を尖らせ、子猫の逃げた方向をじっと見つめている。


「私、嫌われちゃったのかな……」


 小さな独り言が、静かな空気に溶けた。

 ころころと表情を変える彼女から、何故か視線が離せなくなった。

 胸の奥に、何か小さなものが引っかかった。うまく名前のつけられない、奇妙な感覚だった。


**


 夜の演習場で彼女を見たのは、剣の稽古を終えて寮に戻る途中だった。

 魔力の気配を感じて覗くと、暗いグラウンドの中央に彼女が一人で立っている。

 四大属性の制御訓練をしていた。


 まず炎を掌に灯し、形を整える。

 次に水を浮かべて渦を作り、風で回転を加速させ、地の粒子を絡めて安定させる。

 四大属性を同時に制御するのは、並大抵のことではない。


 息を切らし、額に汗を浮かべながら、それでも手を止めない。

 炎が暴走しかけると慌てて抑え込み、水の渦が崩れそうになると、風で支える。地の粒子が散らばると、指先で丁寧に集め直す。


 何度も、何度も、繰り返している。


 力尽きてへたり込むと、炎の魔力が僅かに膨張し、手のひらに小さな火傷を負ったようで、赤く腫れた掌を、彼女は慌てて押さえた。


「あ、やっちゃった! またレイラに心配されちゃう……」


 痛む手を握りしめたまま、ひとりで話し出す。


「治癒魔法があればなぁ……なんで四大魔法はこんなに発達しているのに、治癒の魔法は未開拓なんだろう。治癒魔法、開発できないかな……できたら私、称号手に入る? 王宮魔導士の特別研究員とか……どうしよう、どうしよう……! でも、まずは制御を完璧にしないと……よし、もう一回やる!」


 彼女は立ち上がり、痛む手を握りしめ、再び魔力を集め始める。

 俺は、しばらく動けなかった。


 ただの「天才」で済ませていいのだろうか。

 彼女は「努力」している。


 誰も見ていない夜に、傷を負っても独り言を言いながら諦めない。

 皆からの期待に応えるために、ひとりで日々を重ねている。

 その姿が……あまりに眩しく見えた。


 変わらず、ルリシアからの視線は俺に向けられる。


 だが、栞を拾ってくれた時はすぐに逃げ出した。見ているくせに逃げる。


 ──不思議な奴だ、と思った。


 そしてあの学力テストで、彼女が俺の下に名前を並べた。俺の下に来たのは、初めてのことだったと思う。無意識に彼女を目で追ってしまった。

 また努力したのだろうか。


 そして、あの図書室での時──彼女の指と俺の指が重なった。剣術の歴史書に手を伸ばした瞬間だ。彼女は「あ……」と小さな声を漏らし、顔を赤らめて固まる。


 俺は視線を逸らさず、静かに言った。


「君が先にどうぞ。俺は後でいい」


 彼女は慌てて笑顔を作り、俺を見上げた。


「ありがとう……読み終わったら渡すね」


 今日は逃げない彼女が新鮮だった。

 いつもなら俺もすぐにその場を後にするが、自然と問いかける言葉が出てきた。


「……魔法科が、剣術の歴史書を?」


 突然の俺からの問いかけに彼女はびくりと一瞬身体を震わせた。


「うん、イリヤくんみたいに扱えたら素敵だなって……」


 彼女は顔を赤くしながら誤魔化すように、慌てて付け加えた。


「イリヤくんって有名だから。女の子たちがいつも噂してるよ? かっこいいって」


 噂で、俺を見ていただけか。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に薄い失望が広がった。皆と同じように、「クロウリー家の跡取り」として俺を見ていただけだったのか──。


 だが、俺が何かを言う前に、彼女の瞳が変わった。真っ直ぐで、静かな挑戦的な瞳。


「次のテスト、イリヤくんを抜かすつもりだから。見ててね」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。


 彼女が図書室を出た後、俺は静かに息を吐いた。あの「見ててね」という言葉が、頭から離れない。


 夜の演習場で見た、傷を負っても立ち上がるあの背中が重なって見えた。

 これは「嘘」じゃない。彼女は本当にやる気だ。


 そしてダンスの夜。


 緊張で固まっていた彼女が、仮面を脱いだ素の笑顔を見せた瞬間──。


「──そのままでいい」


 思わず零れたその言葉を口にした瞬間、胸の奥に静かな波紋が広がった。


 彼女の視線が、俺の赤い瞳に映り始めた。

 そして俺の視線が、彼女から離せなくなった。


 今、彼女は首席になった。

 満点ではなかったことを悔やんで、涙をこぼしている。 順位は結果にすぎないのに、誰かを目標に定め、その背中を追いかけ、限界まで自分を追い込んで、それでも足りないと泣く。


 俺はそんな風に誰かを追いかけたことがない。

常にトップでいることが義務で、誰かの背中を必死に追う必要などなかったからだ。


 だからこそ、彼女のその姿がどうしようもなく眩しい。


 彼女の頰の涙を拭いながら、俺は思う。

 君はまだ知らないだろう。

 俺がどれだけ負けず嫌いか。


 幼い頃から家の名誉のためだけに高みを目指すよう育てられ、自由も、望むことさえも許されなかった。いつしか期待すること自体を諦めてきた。


 なのに今、初めて誰かを他人に渡したくないと思った。


 ——それが何を意味するのか、まだうまく言葉にできない。


 だが、君の笑顔が俺の胸に刺さったことだけは、確かだった。

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