第12話 孤独とぬくもり
寮の自室に戻ると、ルリシアはようやく一息ついた。視線をベッドに移すと、小さなイリヤがちょこんと縁に腰掛けている。
その傍らには、スノウから押し付けられるように持たされた紙袋がひとつ。中身は、ドクロの刺繍と紫のフリルが派手な洋服だった。
「……ださい」
紙袋を一瞥して、イリヤがばっさりと切り捨てた。
「あ、あはは……ちょっと、個性的だよね。スノウさんのセンス……」
眉間に、幼いながらも深い皺が刻まれている。あの銀髪への評価が、着実に地の底へ沈んでいくのがわかった。
「着たくない?」
「きたくない」
即答だった。
「じゃあ……今日はとりあえず、私のシャツでどうかな? イリヤのシャツよりは、大きくないから」
言いながらクローゼットから白いシャツを取り出して――ルリシアは、はたと固まった。
お着替え。着替えるってことは脱ぐわけで。相手は幼児でも、中身はイリヤなわけで。
(……っ、な、なに考えてるの私!)
ぶんぶんと首を振る。子ども相手に何を意識しているのか。
「イリヤ。一人でお着替えできる……?」
「できる」
むっとした顔。子供扱いされたことが不服らしい。
「だよね。じゃあ、はい。……終わったら教えてね」
シャツを手渡して、ルリシアはくるりと後ろを向いた。背中越しに、衣擦れの音と、時折「んっ……」と苦戦するような小さな声が聞こえてくる。手伝おうか、と何度も喉まで出かかったのを、ぐっと堪えた。
しばらくすると、背中に声がかかった。
「……できた」
振り返ると――ルリシアは、思わず口元を両手で覆った。
だぼだぼの白いシャツに、裾は膝まであり、袖の先はだらんとしている。
そして胸元のボタンは、上から下まで、見事に全部掛け違えられていた。
斜めに歪んだ襟元のまま、イリヤは無言で立っている。
(……っ、か、かわいい……!!)
だめだ。可愛い。可愛すぎる。あの完璧なイリヤが、ボタンを全部掛け違えて、しかも本人はまったく気づいていない。
ルリシアは声にならない悲鳴を噛み殺し、その場にしゃがみ込みたくなるのを必死に堪えた。
「イリヤ、ちょっとだけごめんね」
膝をつき、一つずつボタンを外して掛け直していく。イリヤは黙って手元を見下ろしていたが、やがて自分の失敗に気づいたのか、じわりと耳が赤くなった。何も言わず、ふいと顔を横に背ける。
(~~~っ!!)
無言で赤くなるところまで可愛い。ルリシアは唇を引き結び、震える手で最後のボタンを留めた。
**
その後、食堂での夕食は騒がしかった。セナが構い倒し、エリックがおかずを取り分け、レイラがさりげなく野菜を小皿によそってやる。
すると、イリヤの小さな手がこっそりと動いた。よそわれた野菜の中から豆だけをスプーンで器用に選り、皿の端に並べていく。綺麗に選り分けられた豆の小さな山ができる。
(……あ)
ルリシアは思わず笑みを零した。豆が苦手なのは、大きいイリヤも変わらない。昔からそうだったのだと知って、なんだか胸がくすぐったくなった。
「イリヤ、豆はもらうね」
豆の山を自分の皿へ移してやると、イリヤは少しばつが悪そうに、視線を逸らした。
(ふふ……やっぱり、イリヤだ)
**
部屋に戻る頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。イリヤが、壁の時計をじっと見上げていることに気づく。
「……いえに、かえらないと」
ぽつりと、呟く。
「おこられる」
「怒られる? ……誰に?」
「みんなだ」
イリヤは時計を見上げたまま、静かに言った。
「クロウリーのにんげんは、ただしくないと、だめなんだ」
幼い声が、決まりごとのように続ける。
「おれが、ちゃんとしないと……エレノアが、きずつく」
「……エレノア?」
初めて聞く名前だった。
「エレノアって、だれ?」
イリヤは口を引き結んだ。長い沈黙のあと、小さく首を振る。
「……いいたくない」
それきり、口を閉ざしてしまった。
――ああ、と思う。この子は、この歳にしてもう多くを語らない。この小さな体でたくさんのものを抱えている。
よく知っているはずの恋人との間に、知らない距離が横たわった気がして、ルリシアは胸の奥がしんと冷えるのを感じた。
「……大丈夫だよ」
ルリシアは膝を折り、視線を合わせて、できるだけ柔らかく笑った。
「今日はね、誰も怒らないから。ここには、イリヤを怒る人はいないよ」
「……」
「今日はもう寝よう?」
**
部屋にはベッドが二つ。セナのベッドは、今夜は空いているのだから、別々に寝るべきなのだろう。
「あ、あのね、イリヤ……。よかったら、その……い、一緒に寝ようか?」
頬を染めながら声をかけると、イリヤは不思議そうに首を傾げた。
――その直後。
だだだだだっ!!
回廊の向こうを、何かが走り回る音が響き渡った。
「ひっ……!」
ルリシアの肩が大きく跳ねる。この館、夜になると「出る」のだ。
「……ルリシアは、こわいのか」
赤い瞳が、見上げてくる。図星を突かれて、ルリシアは真っ赤な顔のまま、こくこくと頷いた。
「……ごめんね。な、情けないよね……」
「べつに」
イリヤは先にベッドへ上がると、隣をぽんと叩いた。
「こわくない。おれが、いる」
(~~~っ、小さくても騎士様だ……!)
ルリシアは真っ赤な顔を両手で覆い、鳴り止まないときめきを堪えた。
灯りを落とし、二人でベッドにもぐり込む。
どこか遠くで、悲鳴のような声が上がった。ルリシアは声にならない声を上げ、小さな体をぎゅうっと抱きしめて耐える。腕の中のイリヤは、身じろぎ一つしなかった。
やがて、館は静かになった。
緊張が解けた途端、どっと眠気が押し寄せてくる。そういえば――昨日の夜から、一睡もしていない。
とろとろと意識が溶けかけたとき、腕の中から向けられる視線に気づいた。
暗がりの中、赤い瞳がじっとこちらを見つめている。
「……あ、ごめんね。苦しかった? 眠れない?」
「……なれない」
イリヤは瞬きもせず、小さな声で言った。
「だれかと、ねたことない。いつも、ひとりだから」
もぞ、と布団の中で身じろぎをして。
「……あたたかいんだな」
その一言が、ルリシアの胸を刺した。
「……いつも、一人でいるの?」
イリヤは、ふるふると首を振った。
「あさごはんは、ちちうえがいる」
だけど、と続ける。
「はなしちゃ、だめだ。しょくじちゅうにくちをきくのは、おぎょうぎがわるい。マナーをまちがえると、せんせいにたたかれる」
淡々と、当たり前のことのように。
「それいがいは、ひとりだ」
赤い瞳がじっとルリシアを見つめ続ける。
「だから……さっきのごはん、おどろいた」
ぽつり、ぽつりと。
「みんなと、あんなふうにたべたことない。うるさくて、あたたかかった」
――眠気は、どこかへ飛んでいた。
ルリシアはそっと手を伸ばし、小さな頭を撫でた。紺色の髪を撫でるのは、初めて。いつもは撫でてもらってばかりだったから。
自分を見つめるときにだけ、そっと柔らかい光を帯びる彼の表情を思い出し、心の真ん中がきしんだ。
「……そっか」
声が震えないように、ゆっくり紡ぐ。
「今のイリヤは、一人じゃないんだよ」
「……ひとりじゃない?」
「うん。仲間がいて、私がいるよ」
赤い瞳が、わずかに見開かれた。
「それは、全部イリヤが築いたものなんだよ」
青い瞳に、光を宿して見つめ返す。
「誰にも壊させない。私が守るから」
やがてイリヤは、もぞもぞとほんの少しだけルリシアに近寄って、目を閉じる。小さな手が、きゅっとルリシアの服を掴んだ。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始めた。
あどけない寝顔。すっかり安心しきった無防備な顔だった。ルリシアはその頭をもう一度だけそっと撫でて微笑む。
そのままイリヤの顔を見つめていると、彼の肩のあたりが、ほんのりと青く光った。
とぷん、と水面から顔を出すように、透き通った小さなトカゲの姿をした精霊が現れた。水の精霊は寝息を立てる主をしばらく見つめると、安心したように、その傍らにくるりと丸くなった。
「……君が、イリヤを守ってくれているんだね」
囁くと、精霊は答えるように尾の先を揺らした。透明な体が、月明かりを受けてきらきらと淡く瞬く。
「ありがとう。……これからも、よろしくね」
小さな騎士様と、小さな守り手。
二つの寝息のような静けさに包まれて、ルリシアもゆっくりと目を閉じた。
長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
**
帝宮の最奥。灯りを絞った執務室に、重い沈黙が満ちていた。
「――腕輪が、外れたそうだな」
執務机の向こうで、紫の瞳が冷たく光る。手元には、開かれた報告書が一枚。
「それも、貴様の右耳が記録した魔力波形は――禁断魔法のもの。イリヤ・クロウリーに、使ったな?」
ピアスの細工。魔力の行使は、すべて筒抜けだった。スノウは観念したように、へらりと肩をすくめた。
「……使ったよ。計画書を、見られちゃってさ。予定より早いけど、記憶消去を実行した」
「ほう」
アレクシスは書類を一枚めくった。紙の擦れる音だけが、静寂に落ちる。
「なら、何故――全ての記憶を消さなかった?」
「共鳴鉱石が反応して、妨害されたんだ! あんな偶然、俺にだって――」
「噓をつくな」
声は、少しも荒げられていなかった。それがかえって部屋の温度を下げた。
「……いや。噓ではない、か。鉱石の干渉は事実なのだろうな。だが」
紫の瞳が、すっと細められる。
「波形を見れば分かる。貴様が起動したのは、記憶消去の単式のみ。――余地を、残したな?」
スノウの喉が、ごくりと鳴った。右耳のピアスが微かな熱を持つ。
「情でも、湧いたか」
「……まさか」
「貴様の力なら、人格形成と記憶消去を無理にでも組み直し、新たな人格を構築できたはずだ。この帝国で、それが出来るのは貴様だけだ。そのために私はお前を側に置いている」
アレクシスは椅子の背に身を預け、指を組んだ。
「だが貴様は、わざとそれを回避した。……違うか?」
沈黙。ピアスの熱がより強くなる。明確な否定は――噓になる。
「…………」
「答えんでいい。顔に書いてある」
アレクシスは、つまらなそうに息を吐いた。
「お前に与えた役目を、忘れたか」
「……忘れてない」
「言ってみろ」
スノウは、ゆっくりと顔を上げた。碧い瞳から、いつもの軽さが抜け落ちている。
「……イリヤ・クロウリーの監視。奴の人格を全て消去し――新たな『守護者』を、形成すること」
「そうだ」
アレクシスの口元だけが、薄く笑った。
「加護の使者。あれほどの器は、二つとない。あの男が自ら膝を折らぬのなら――折れる人格を、造ればいいだけのこと」
喉の奥に毒を含んだ声が、静かな部屋に静かに染み込んでいく。
「聖女に、守護者。……揃えば、ルーメンシアなど恐るるに足らん。エメラルドも容易く落とせる」
スノウの拳が小さく震えた。
「期日までに、やり直せ。次の失敗は許されん」
アレクシスは報告書を閉じ、最後にちらりとスノウを見た。
「私を裏切る時には――どうなるか、分かっているな?」
スノウの左胸の奥で、何かが軋むように疼いた。心臓に食い込んだ、あの日の感触。忘れたくても体が覚えている。
「……はい」
絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「下がれ」
――執務室を辞して、長い回廊を歩く。
窓の外は、もう深い夜。スノウは足を止め、左胸をゆっくりと押さえる。
(……記憶を消したら、あいつは別人になる)
脳裏に浮かんだのは、「助けてよ」と告げたあの夜に見たイリヤの顔。
まっすぐな、真意をはかろうとする赤い瞳。
(……俺はあいつに、何を期待してるんだろうな)
スノウは、ふっと自嘲気味に笑う。
「俺は、いつだってひとりだ……」
真っ暗な闇に小さな独り言が、じわりと溶け落ちる。孤独を刻む足音が静かな回廊に響いた。




