第10話 禁断魔法
「皇太子の、共謀者だったとはな」
赤い瞳には、一切の温度が欠けている。
その不穏な空気に部屋が静まり返った。
スノウは鉱石を握りしめたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。
乱雑に積み上げられた禁書の山が、微かな魔力の揺らぎに震えている。
やがて――ふう、と小さく息を吐く。
「……良くないなぁ、イリヤくん」
その声から、いつもの間延びした軽さが、すっと消え失せていた。
「人の秘密を、勝手に盗み見るなんてさ」
「お前が、言えた義理か」
イリヤが冷たく切り捨てる。人の懐に転移で忍び込んで部屋に居座り、四六時中つきまとってきた男が、何を言うのか。
スノウがゆっくりと顔を上げる。その碧い瞳から、へらへらとした色が完全に抜け落ち、昏い光だけが残っていた。
「こんなに早くバレるとは、思わなかったな」
鉱石を懐に押し込むと、銀の髪がさらりと揺れる。
「もっと、仲良くしたかったのに。……残念だよ」
悲しいのか、嬉しいのか、掴みどころのない瞳が、まっすぐにイリヤを捉えた。
「――イリヤ・クロウリー」
イリヤの名を呼ぶ声に呼応するように、部屋の空気が一変した。
スノウの右耳に揺れる紫色のピアスが光る。
どす黒い魔力が、スノウの足元から噴き上がり、禍々しい闇が渦を巻いて部屋全体を満たしていく。
積み上げられた禁書が、風もないのにばさばさと激しく震え、ページが勝手にめくれ始めた。空気は重く淀み、息をするだけで肺に粘つく闇が染み込んでくるようだった。
――闇の術式。
イリヤの直感が、鋭く警鐘を鳴らす。しかし腕輪に魔力を封じられている今、水の魔力を呼ぶことすらままならない。
黒い奔流が、イリヤめがけて一気に襲いかかる。
イリヤの赤い瞳が細まると、その肩から小さな影が滑り落ちた。
水の精霊。透き通った小さな体が、ふわりと宙に浮かぶ。そして――ぐん、とその身がみるみる膨れ上がり、小さなトカゲの姿がイリヤの半身ほどもある堂々たる水の獣へと変わった。
透明な鱗が光を弾き、煌めく水晶のような輝きを放つ。水の獣はイリヤとスノウの間に割って入ると、主を背に庇い、牙を剥いて低く唸った。
その身から水の障壁が形成され、淡い青の光を放つ。
黒い奔流が水の壁に激突し、闇と水が激しくせめぎ合った。部屋中に飛沫が飛び散り、禁書の山を濡らしていく。
「……へえ」
スノウがわずかに目を細める。
「精霊? この帝国でよく見つけてきたね?」
イリヤは無言で剣を構えた。水の獣がぐるりと身を翻し、その身をほどくと透明な水がするすると流れ、イリヤの抜き放った剣へと絡みついた。
――刀身が、青く輝く。
水の魔力が剣に宿った。腕輪に封じられていようと、この一振りだけは確かに水を纏っている。
(……連れてきて、正解だったな)
イリヤは剣を構え直す。精霊の乏しいこの帝国で、エメラルド王国から密かに連れてきた眷属。その備えが今、確かに活きた。
その姿を見て、スノウが心底うんざりしたように肩をすくめた。
「やだなぁ……こんな狭い部屋で、物騒なもの向けないでよ」
言うが早いか、スノウの周囲の影が一斉に膨れ上がり、鋭い影となってイリヤへと襲いかかった。
狭い室内は禁書や書類が山積みで足場も悪く、剣を大きく振るう余裕などほとんどなかった。
振り幅が大きく制限される。本来なら一閃で数体の影を断ち切れるはずの攻撃が、半分以下の威力にしかならなかった。
断ち切った影はすぐに再生し、新たな影が次々と迫ってくる。
イリヤは剣を鞘に納めた。
刀身を纏っていた水がほどけ、透明な水流が彼の腕を伝って掌に集まると同時に、鋭い水の奔流が前方へと放たれた。
室内の狭さを逆手に取り、剣を振るうより遥かに機敏に影を削り取っていく。
「……ふぅん」
スノウがわずかに目を細め、興味深げに口元を歪めた。
「剣士なのに魔法を扱えるって話、本当だったんだ。通りでアレクシスが執着するわけだ」
碧い瞳が昏く笑う。
「でも無駄だって――ここは、俺のホームなんだから」
その言葉を合図にするように、部屋中の影が一斉に蠢き出した。書棚の影、床の影、天井の影すべてが意思を持ったようにうねり、伸縮しイリヤへと殺到する。
「――っ!」
青い奔流が迫り来る影を次々と削り取っていく。しかし、断っても断っても影は湧き出て、尽きることがない。
この部屋そのものが、空間を支配する闇魔法の巣窟。まさにスノウの領域だった。
じりじりと、イリヤの背が壁際へと追い詰められていく。
――スノウの手が、すっと持ち上がった。
指先に、複雑で禍々しい術式が黒く浮かび上がる。それはこれまでの闇魔法とは明らかに位相の異なる、精緻でおぞましい紋様。
【記憶消去・術式】
スノウの唇が、ほんのわずかに動いた。
「……ごめん、イリヤ」
誰の耳にも届かないほどの、微かな呟き。黒い術式が放たれた、次の刹那――異変が起きた。
スノウの懐で、共鳴鉱石が強く光る。
腕輪の鍵の材料であるその石が、放たれたばかりの記憶消去の術式と真正面から共鳴した。
「――は?」
スノウの顔が引きつる。
術式がぐにゃりと歪み、制御を離れた魔力が暴走的に膨れ上がった。周囲の魔導書へと波及し、積み上げられた禁書のページが一斉にばぁっと開く。
そこに記されていた、もう一つの術式。
【人格形成・術式】
二つの禁断魔法が共鳴鉱石を媒介に絡み合い、混ざり合って逆流していく。
「まずっ――逃げろ、イリヤ!!」
スノウが、初めて悲鳴じみた声を上げた。
「――っ!!」
イリヤの眼前に光が弾け、部屋を目も眩む純白の閃光が完全に塗り潰した。
――そして。
**
寮の食堂では、ようやく落ち着きを取り戻したルリシアの姿があった。
目元はまだ少し赤いが、レイラとセナに優しく慰められ、表情はだいぶ柔らかくなっている。
「……私、ちゃんとイリヤと話すね」
ぽつりと、決意を口にする。
「ごめんね、って言いたい。ちゃんと話を聞かないで、怒っちゃったから」
「そうこなくっちゃ」
セナが明るく笑って、ぽんとルリシアの背を叩いた。
「ほら、探しに行こ! 今ならまだ寮にいるんじゃない?」
――数分後。
イリヤは、どこにもいなかった。
部屋にも、中庭にも、学院の教室にも。手分けして探し回っても、どこにも見当たらない。
「またいない……。イリヤ、どこ行っちゃったの……」
ルリシアが不安げに眉を寄せ、青い瞳を曇らせる。エリックもライルも、ただ首を振るばかりだった。
「悪ぃ、こっちにもいなかった」
「学院の方も、見当たりませんでした」
「……あの銀髪も、一緒にいないみたいね」
レイラが腕を組んでため息をつく。腕輪がある以上、二人は必ず一緒にいるはずだ。となれば――またあの男に、どこかへ連れ回されているのか。
ルリシアは胸をかき乱すような不安が消えず、辺りを見渡した。
「おや、皆さん。お揃いでどうしました?」
回廊の向こうから、リヒトが穏やかな微笑みを浮かべて歩いてきた。
「あ、リヒト先生! あの、イリヤを知りませんか?」
ルリシアがぱっと駆け寄る。
「ああ、イリヤくんなら――」
リヒトが何かを言いかけた、まさにその時――
バチンッ!
空間が弾けるような音とともに、目の前に黒い転移の魔法陣が乱暴に開いた。
「リヒトぉぉ! やばい、やばいって! こっちマジで、やばいこと――」
転がり出るように現れたのは、髪も服も乱れきったスノウだった。血相を変えてリヒトに縋りつこうとして――ぴたり、と動きが止まる。
目の前に、エメラルド学院の生徒たちがずらりと勢揃いしているのを見て。
「……げっ」
スノウの顔が引きつった。
「る、ルリちゃん!? っていうか、みんな揃ってんじゃん! なんで!?」
「何ですか、騒々しい」
リヒトが呆れたように眼鏡を押し上げた。
「それより、共鳴鉱石は? 持ってきたんでしょうね」
「あー、いや、それが、その……」
スノウがしどろもどろに口ごもる。額にはびっしりと脂汗が浮かび、青ざめた顔が引き攣っていた。
「あの、ね。ちょっと、事故というか、不可抗力というか……」
――と、その時。
「おい」
小さな幼い声がした。その場の全員が、きょとんとして声のした方を凝視する。
「……おい、ぎんぱつ」
スノウの背後から聞こえてくる声。小さな手がぐいと伸びて、スノウの後頭部を押しのけた。
「じゃま!」
――現れたのは、小さな男の子だった。
年の頃は四つか五つか。ぶかぶかの上着を引きずり、口元を引き結んでいる。
艶やかな紺色の髪に――ぱっちりとした、赤い瞳。
少年はぐるりと周囲を見回すと、不思議そうに眉を寄せた。
「ここは、どこ」
凛とした、けれどあまりにも幼い声で首を傾げた。
「――ちちうえはどこだ?」
回廊に静寂が落ちる。
ルリシアの唇から、震える声がこぼれ落ちた。
「……え?」
青い瞳が、大きく、大きく見開かれる。
「……イ、イリヤ……?」




