第8話 香水の匂い
視界が歪み光が弾けたとき、イリヤは見慣れぬ路地に立っていた。
スノウが転移で連れてきたのは、寮とはあまりにかけ離れた場所だった。
夜の帝都。薄暗い裏通りに妖しく灯る紅い明かり。甘い香りと酒の匂いが漂い、どこからか女たちの嬌声と弦楽器の音が漏れ聞こえてくる。
目の前には瀟洒な造りの店が一軒、夜の通りに沈むようにひっそりと客を待っていた。
イリヤは隣で機嫌よく笑う銀髪を冷たく睨んだ。
「……説明しろ、スノウ。なぜここが――」
引きつけ合う腕輪を鬱陶しげに引く。
「お前と俺の目的が、一致するんだ」
**
時は少し遡る。
寮の部屋で、合鍵で入り込んだスノウが「助けてよ」と持ちかけた、あのとき。
「何から助けると?」
イリヤが警戒を露わに問うと、スノウはベッドに寝転んで天井を見上げた。
「……この帝国から」
ぽつりと落ちたその声が、いつになく静かだった。
「俺、自由が欲しいの。ここじゃないどこかへ行きたい。誰にも縛られずにさ」
その顔には、いつものおどけた色がなかった。だがすぐにへらりと笑って身を起こす。
「ずいぶんと壮大な手助けだな」
イリヤが冷ややかに返した。
「情報が足りなさすぎる。お前が何者で、何に縛られているのかも分からないまま、手を貸せるものか」
「だよねぇ」
スノウは悪びれずに頷き、それからにっと笑った。
「でも、こう考えてよ。イリヤには、まず情報が必要だろ? アレクシスの狙いとか、この帝国の裏側とか。で、実は俺にも知りたいことがあってさ」
碧い瞳が意味深に細まる。
「その両方が一度に手に入る場所があるんだ。悪い話じゃないでしょ? だからさ! まずは、ちょっと付き合ってよ」
**
――そして、冒頭に戻る。
「ここ、俺の行きつけのお店『胡蝶』! 帝都一の社交館!」
スノウが店を見上げてにんまりと笑った。
「外交官やらお偉いさんやらが、こっそり通う店。酒と女の子と、そして『情報』を買える場所」
「……情報を?」
「そ。ここには腕利きの情報屋がいるんだ。金さえ積めば、帝国の裏の裏まで何でもお偉いさんたちから聞き出してくれる。アレクシスのこともね」
イリヤは眉をひそめた。確かに、喉から手が出るほど欲しい情報ではある――だが。
「……断る。こんな店に入る気はない」
きびすを返そうとするイリヤの腕を、スノウが慌てて掴んだ。
「まあまあ待ってって! 奢るからさ、な?」
「金の問題ではない」
「え〜、じゃあ何が不満なのぉ」
イリヤは冷たく言い放った。
「俺にはルリがいる。こんな店に足を踏み入れること自体、不本意だ」
その生真面目な答えにスノウは一瞬きょとんとして、それからにやりと悪い笑みを浮かべた。
「ふぅん? じゃあ、イリヤが来てくれないなら、偵察料払いたくないし、代わりにルリちゃんに来てもらおうかな〜」
イリヤの動きが止まった。
「あの子可愛いし。女の子役でその辺のお偉いさんに色仕掛けで探り入れてもらえば、情報なんて――」
ぞくり、と空気が凍る。
「――スノウ」
地の底から響くような低い声で、イリヤの赤い瞳が剣呑な光を宿してスノウを射抜いた。
「今、なんと言った」
「うっ……じょ、冗談だって! ほら、だからさぁ、イリヤが来れば丸く収まるじゃん! これは任務だよ、任務!」
スノウが必死に取り繕う。
イリヤはしばらく無言でスノウを睨んでいたが、やがて深々とため息をついた。ルリシアをこんな場所に近づけるわけにはいかない。この男なら、本当にやりかねなかった。
「……最悪だ」
苦々しく吐き捨てる。
「情報を得たら、すぐに出る。それが条件だ」
「あーい、まいど♡」
スノウが嬉しそうに扉を開けた。
**
「あら、スノウじゃない。珍しいわね、今日は連れがいるの?」
店の奥、薄紅の灯りの下で迎えたのは、艶やかな女だった。
気だるげな流し目に崩れた色香。だがその瞳の奥だけは少しも酔っておらず、すべてを見透かすような鋭い光がある。
「よ、サーシャ。相変わらず繁盛してるみたいで何より!」
スノウが軽い調子で手を挙げた。二人の間には、どこか気安い旧知の空気が流れている。
「今日はちょっと、あれの腕を借りたくてさ。あ、それと」
スノウがイリヤをぐいと前に押し出した。
「とびきりのイケメン連れてきたからさ、あれの料金、半額にしてよ」
「あらぁ♡」
サーシャの視線がすっとイリヤへ向く。値踏みするようにその長身を上から下まで眺め、ふっと笑った。
「本当ね。……いい男」
しなやかな指がするりとイリヤの胸元へ伸びる。だがその手が触れる寸前、イリヤは素早く身を引いた。
「悪いが」
冷たく、しかしはっきりと告げる。
「気安く触れないでくれ。俺には決めた相手がいる」
一切の隙のない拒絶だった。サーシャはぱちりと目を瞬かせ、それから可笑しそうに笑った。
「あらあら、つれないこと。……でも、そういうの嫌いじゃないわ」
ひらりと手を引いて、サーシャは長椅子に腰を下ろした。
「いいわ、今日は半額にしてあげる。彼の一途さに免じてね。――で? あたしに、何を探らせたいの」
サーシャは、酒瓶を手に取り妖艶に微笑んだ。
「言っておくけど、あたしが掴むのはただの『情報』よ。その真意はあなたの判断に任せるわ。ここには毎晩、お偉いさんが通ってくる。酒を注いで、機嫌よく喋らせて、口を滑らせたところを掬い上げる。そこまでが、あたしの仕事。いいわね?」
とろりとした流し目が、店の奥の個室へと向けられた。そこには、身なりの良い官僚らしき男たちが、女たちを侍らせて杯を傾けている。
「あの手の連中は、酔えば口が軽くなる。特に綺麗な女の前ではね。……で? あの中の誰から、何を聞き出せばいいの」
イリヤは、声を潜めて切り出した。
「……闇魔導学院の生徒たちが、噂していた。最近この帝国で貧民の人間が消えている、と。それと――皇太子の、私的な動向。掴めるだけ、掴んでほしい」
「へえ」
サーシャの眉が、わずかに上がった。
「……ずいぶんと、際どいところを狙うのね。ちょうど今夜は、宮廷勤めのお得意様が来てる。いいわ。少し、探ってみましょ」
彼女は立ち上がり、酒瓶を手にしなやかな足取りで個室へと消えていった。
――しばらくして。
ほろ酔いの官僚たちの笑い声を背に、サーシャが戻ってくる。その顔からは、先ほどまでの緩んだ色香が消え、情報屋の鋭い目に戻っていた。
「……あんたたち、厄介なことに首を突っ込んでるわね」
長椅子に腰を下ろし、声を低める。
「貧民の失踪の話、本当みたいよ。スラムや身寄りのない連中が、ここ最近ぽつぽつと消えてる。……ただの人攫いなら、まだしも……」
サーシャは、声をさらに落とした。
「妙なのよ。消えるのは決まって、身寄りのない、誰にも捜されない連中ばかり。『選んで』攫ってるみたい。しかも、街の衛兵は見て見ぬふり。まるで、上から手を回されてるみたいにね」
イリヤの目が、鋭くなった。
「……つまり、組織的に、ということか」
「さあ、そこまでは掴めなかった。でも、あたしには、そう『見える』ってだけ。……こういう『上の都合で消される』手口、あたしは嫌ってほど知ってるの」
最後の一言に、この業界を生き抜いてきた女の乾いた実感が滲んでいた。
「国にとって、いなくなっても困らない人間だけを、選んで――ってことでしょ」
スノウが、ぽつりと呟いた。いつもの軽薄さの消えた低い声だった。その横顔がほんの一瞬、強張ったのをイリヤは見逃さなかった。
「消えた者たちは、どこへ」
「そこまでは、あの酔っ払いも口を滑らせなかった。だけど、一つだけ妙な話を漏らしてたわ」
サーシャは、さらに声を潜めた。
「皇太子殿下が夜な夜な、誰もいない部屋で『炎』に向かって何か話してる、ってね」
イリヤの目が鋭くなった。
「炎に?」
「ええ。相手の姿はどこにもない。ただ揺れる炎に向かって、まるで誰かと会話するみたいに。……気味の悪い話でしょ?」
炎を介した、見えざる者との対話。
イリヤの脳裏に冷たい予感が走った。それが何を意味するのか、今はまだ分からない。だが確かに、この帝国の奥底で何かが蠢いている。
(……持ち帰って、調べる価値はある)
得られた断片を、頭の中で繋ぎ合わせていく。貧民の失踪。炎の対話。そしてアレクシスの執着。
その時、それまで黙っていたスノウが、ふいにサーシャへ身を寄せた。
「なぁ、サーシャ。俺からも、頼みたいことがあるんだけど」
声を落として、彼女の耳元でこそこそと何かを囁く。サーシャの表情がわずかに変わった。彼女はちらりとスノウを見て、小さく頷く。
「……了解。そっちも、当たっておくわ」
二人の間で交わされた密やかなやり取りを、イリヤは横目で捉えていた。スノウにも、探らせたい何かがある。だが――今は、追及しない。イリヤは一刻も早くここから出たかった。
「よーし! 話は済んだ! じゃ、飲もう。イリヤ!」
声を切り替え、スノウがイリヤの腕をぐいと引いた。
「用は済んだ。俺は帰る」
「まあまあ、いいじゃん。せっかく来たんだから! ほら、こっちこっち!」
「おいっ! 離せ!」
腕輪がある以上、振り払うにも限度がある。イリヤは、半ば強引に賑やかな席へと引きずられていった。
「ほら、イリヤも一杯♡」
「……いらん」
差し出された杯を、にべもなく断る。だが、そんな取りつく島もない態度も、この店の女たちには、かえって物珍しく映ったらしい。
「あら、素敵なお客様。見ない顔ね」
「ねえ、こちらの方どちらから?」
妖艶な女たちが、次々とイリヤの周りに集まってくる。しなだれかかろうとする者もいれば、酌をしようと杯を差し出す者もいる。
イリヤは、うんざりと眉をひそめて身を固くした。
「……結構だ。触れるな」
冷たくあしらうが、女たちはくすくすと笑うばかりで、一向に引く気配がない。
一方、その隣では。
「いやぁ〜、モテる男は罪だねぇ!」
スノウが、両手に女を侍らせて、上機嫌で笑っていた。すっかり我が世の春である。
「……スノウ」
こめかみに青筋を浮かべたイリヤが、隣の銀髪の襟首を、がしりと掴んだ。
「帰るぞ。今すぐだ」
「えぇ〜、まだ飲み足りな――」
問答無用で、イリヤはスノウを引きずって扉へと向かう。だが。
「おや、お客様。お会計がまだですよ」
店の者がにこやかに、しかし逃さぬ様子でその前に立ちはだかる。
イリヤは、ぴたりと足を止めた。
――そういえば。
この店には、スノウに転移で唐突に連れてこられたのだ。制服だとまずいからと上着を剥がされ、今はシャツ一枚の身軽な格好。財布の一つも、持ち合わせていない。
「……スノウ。金は」
問われたスノウが、へらりと笑って懐をぽんと叩いた。じゃらり、と硬貨の音がする。
「あるよ〜、俺が持ってる。今日は俺の奢りって言ったでしょ?」
にんまりと、実に嬉しそうに笑う。
「ってことは、だよ? 俺が払うまで、イリヤは帰れないってわけだ。……よーし、じゃあ、今日はとことん飲むぞ〜!」
スノウが、意気揚々と席へ舞い戻っていく。腕輪に引かれ、イリヤもまた否応なくその場に引き戻された。
「……っ、この、外道が」
イリヤの絞り出すような呪詛の声も、賑やかな店の喧騒にあえなくかき消されていった。
――数分後。
「あー、もう。むすっとした顔しないの! せっかく来たんだからさ。飲もうよ、イリヤ!」
不機嫌極まりないイリヤのその傍らで、スノウはいつの間にか、かなりの量の酒杯を重ねていた。とっくに顔が赤い。
「……おい。飲みすぎだ」
「いいじゃ〜ん。だってさ、俺いつも一人でここ来るんだよ? つまんないの。一度でいいから、友達と飲んでみたかったんだよねぇ」
ぐでんと椅子にもたれ、スノウがとろりとした目で笑う。その一言に、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。
「……俺は、お前の友達ではない」
イリヤが冷たく切り捨てる。
「えー、ひっどぉい! いいじゃんいいじゃん、今日から友達! ほら、乾杯〜!」
「かんぱーい!」
スノウの音頭に、侍っていた女たちも、きゃらきゃらと笑いながら杯を掲げる。
紅い灯りの下、幾つもの盃が触れ合って、澄んだ音を立てた。その輪の真ん中で、イリヤ一人だけが、げんなりと肩を落としている。
結局、スノウが飲み潰れて動けなくなるまで、イリヤはこの喧騒に付き合わされることとなった。実に長い、長い夜だった。
**
東の空が、白み始める頃。
寮の門の前で、ルリシアは一人でぽつんと立ち尽くしていた。
昨夜、夕食の席にイリヤの姿がないことに気づいたのは、ルリシアだった。エリックたちに尋ねても、「部屋にもいなかった」と言う。館じゅうを探し回っても、どこにもいない。
胸騒ぎが、どうしても収まらなかった。昨日の夕方、あんなに優しく触れ合ったばかりなのに。姿の見えない夜が、いっそう心細く感じられた。
結局、ルリシアは眠ることもできず、こうして門の前でイリヤの帰りを待っていたのだ。
空が、少しずつ白んでいく。
――と、通りの向こうから、ようやく二つの人影が現れた。
「イリヤ!」
ぱっと、ルリシアの顔が輝いた。堪えていた不安が安堵に変わって溢れ出す。ルリシアは駆け寄りその胸に、ぽんっと軽く飛び込んだ。
「もう、どこ行ってたの!? 心配して、ずっと待って……」
ぎゅっと、イリヤの服を握りしめて顔をうずめる。
――その瞬間だった。
ふわり、と女物の甘い香水の匂い。
イリヤの身体から、それは確かに漂っていた。
「……え」
ルリシアの顔から、すうっと血の気が引いていく。ゆっくりと顔を上げ、イリヤを見つめた。
「イリヤ……この、匂い……」
イリヤが、はっと息を呑んだ。
「ルリ、これは――」
弁明しようと口を開きかけた、その時だった。
「あ〜、ルリちゃんだ〜♡」
イリヤの肩にぐでんともたれかかったスノウが、間延びした声を上げた。真っ赤な顔で、へらへらと笑っている。
「聞いてよぉ、俺とイリヤぁ、夜通し楽しく飲んできたんだよ〜。女の子もいっぱいいてさぁ、いい店だったよねぇ、イリヤぁ」
ぴしり、とルリシアの中で何かが音を立てて割れた。
「……女の子の、いる店?」
握りしめた手が、わなわなと震え出す。
積もりに積もった小さなしこりが、香水の匂いを引き金に、ルリシアの中で一気に膨れ上がった。
「ルリ、違う。話を――」
「……もうっ!」
ルリシアの青い瞳に、みるみる涙が盛り上がる。
「もう、いい! イリヤなんか……イリヤなんて、知らない!!」
言い捨てるなり、ルリシアはくるりと背を向け、そのまま館の中へと、脱兎のごとく駆け込んでいく。
「ルリ! 待て――!」
イリヤがとっさに追いかけようとする、だが。
「うぃ〜……イリヤぁ、どこ行くのぉ〜」
肩にずっしりと酔っ払いの全体重がのしかかった。腕輪が、二人を強く繋ぎ止める。振り払おうにも、ぐでんぐでんのスノウは重石そのもの。
「……っ、離せ、スノウ!」
もがくイリヤの腕の中で。
スノウは、とろんとした目で幸せそうに呟いた。
「うぇっ……気持ち悪っ……」




