第7話 絡み合う思惑
「どうだ。その力を――この帝国で、我が国のために使ってみる気は、ないか」
疑惑と警戒で、イリヤの表情が一瞬揺れる。
だが、イリヤは即座に切り替える。相手の真意を見極めるため、ゆっくりと貴族の仮面を被る。
「……過分なお言葉、恐れ入ります」
声に、穏やかな余所行きの色を乗せる。
「ですが、買い被りが過ぎます。私一人の力で、闇の君主を討ったわけではありません。仲間の協力があってこそ、成し得たこと。私個人に、それほどの価値は――」
「報酬なら、望むだけ用意しよう」
イリヤの謙遜を、アレクシスは涼しい顔で遮った。
「地位も、財も、思いのままだ。帝国騎士団の要職か、あるいは魔導の研究に不自由なき環境か。君が望むものを、私が与えよう」
紫の瞳が、じっとイリヤを見据える。
「悪い話ではないはずだ。エメラルド王国の、しがない伯爵家の跡取りでいるよりは――遥かにな」
その言葉に、イリヤは眉一つ動かさずに、頭を下げた。
「ありがたいお話ですが、お断りいたします。私には、帰るべき国と、学ぶべき事がございますので」
はっきりと丁重に断りを入れた――だが。
「ルリシア・クリスティーノ」
その名が、アレクシスの口から滑り出たことでイリヤの動きが、ぴたりと止まった。
「君の、恋人だろう?」
アレクシスは優雅に足を組み替え、口元には笑みが刻まれる。
「無論、彼女と共にでも構わないのだよ。私は、彼女にも興味があってね」
イリヤの赤い瞳が、すっと温度を失う。
「四大魔法を、すべて扱う稀有な存在。しかも――平民には、実に珍しい、金色の髪に青い瞳」
アレクシスの声が、ねっとりと絡みつくように低くなる。
「彼女の家系も、少々調べさせてもらった。父方は、平凡な商業家系だ。だが――母方が、面白くてな。数世代前から、記録が不自然に途切れている。まるで何者かが意図的に消したかのように」
紫の瞳が、獲物を見定める蛇のように光った。
「彼女の血筋は、もしかしたら――」
「――それは」
イリヤが、鋭く言葉を遮った。
「珍しいことではありませんよ」
貴族の仮面の下で、赤い瞳だけが氷のように冷えていた。
「四大すべてを扱う者は、確かに稀です。ですが、皆無ではない。エルウィン・ヴァレリウス様も、そのお一人。ルリシアがそれを成せるのは、血筋ではなく――ただ、彼女が誰よりも努力を重ねてきたからです」
一息に、淀みなく続ける。
「家系の記録が途切れることなど、平民にはよくあることです。戦や流行り病、あるいは戸籍の不備。様々な事情を抱える者は、いくらでもいる。金色の髪に青い瞳の平民が珍しくとも、この世に存在しないわけではありません」
理路整然と、一切の隙なく。ルリシアの稀少性を、ことごとく「ありふれたもの」へと塗り替えていく。
「そして、何より」
イリヤは、まっすぐにアレクシスを見据えた。
「私も彼女も、今はまだ、学びの途中の一学生に過ぎません。国に仕えるだの、力を捧げるだのという話は、いささか気が早すぎるかと」
静寂が、部屋に落ちた。
アレクシスは、しばし無言でイリヤを見つめていた。やがて――ふっと、喉の奥で笑う。
「……なるほど。よく回る舌だ」
ゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩む。
「学生……か。実に結構。若さというのは、それだけで得難い財産だな」
振り返ったその顔には、余裕の笑みが浮かんでいた。まるで、イリヤの拒絶など、はなから織り込み済みだとでも言うように。
「今日のところは、これで良い。無理にとは言わん」
紫の瞳が、細められる。
「だが、気が変わったら、いつでも訪ねてくるといい。私の扉は開けておく。……君にも、彼女にも、ね」
最後の一言に、ぞろりとした含みがあった。
イリヤは無言で一礼すると踵を返した。
「ああ、そうだ」
部屋を出るその背に、アレクシスの声が追いかけてきた。
「一つ、忠告を。――『王の執行者』の名は、君が思うより遠くまで届いている」
声に、ゆったりとした余裕が滲む。
「学生の顔で、隠れているつもりかもしれんが……無駄なことだ。その力を欲しがっているのは、何も、私だけではない」
紫の瞳が、細められた。
「私など、可愛いものだと思える日が来る。――忘れてくれるな」
イリヤは足を止めなかった。だが、扉に伸ばした手がほんのわずかに強張っていた。
――扉が、閉まる。
(……あの男の目的はなんだ)
思考の奥で、いくつもの違和感がまだ形にはならない。だが、確かな悪意の匂いだけはそこにある。
「イリヤ? どうしたんだよ。怖い顔して……」
あっけらかんとしたスノウの顔を、イリヤの赤い瞳が一瞥すると、暗い廊下の奥を鋭く見据えたまま歩き出していく。
**
夕刻。闇魔導学院の廊下に、観光から戻ってきたエメラルド学院の生徒たちの和気藹々とした声が広がっていた。
その中で、ルリシアは一人、どこか浮かない顔をしていた。
(イリヤ……今日も、一緒に回れなかったなぁ)
帝都は確かに楽しかった。魔力の噴水も、虹色に光る広場も、本で読んだ通り美しかった。でも――隣にイリヤがいなかった。
こちらに来てからずっと、そうだ。腕輪のせいで、彼はいつもスノウと一緒。二人きりの時間なんて、ほとんど取れていない。
小さな不満が、胸の底に積もる。
「ルリ、どうしたの? 元気ないよ?」
「……ううん、なんでもない」
セナの問いに、ルリシアは慌てて笑顔を作ったときだった。
「あの、すみません」
背後から、遠慮がちに声をかけられた。振り返ると、闇魔導学院の制服を着た数人の生徒が少し緊張した面持ちで立っていた。
「あなたが、ルリシア・クリスティーノさん? 四大魔法を、全部使えるっていう……」
「あ、はい。そうですけど」
「やっぱり! すごいです、噂になってて!」
生徒たちが、ぱっと顔を輝かせる。その様子に、隣のレイラとセナがくすりと笑った。
「ルリ、すっかり有名人ね」
「四属性使いなんて、そうそういないもの。注目されるわよ」
ルリシアが、照れたように頰をかく。
「あの、よかったら聞きたいんですけど……どうやって、四つも自在に使えるようになったんですか? 私たち、闇魔法に変換する元の属性ですら、一つ扱うので精一杯で……」
純粋な憧れの籠もった質問だ。彼らもまた、潜在する四大の属性を闇へと変換して魔法を使う。だからこそ、四大すべてを自在に操るルリシアの異質さが身に染みてわかるのだろう。
ルリシアは眉を下げ、首をかしげた。
「どうやって、かぁ……」
改めて聞かれると言葉に詰まる。考えてみても、うまく説明できないのだ。
「最初はね、炎からだったの。子供の頃、暖炉の火をおこそうとして……ぼっ、て。それが最初だった」
あの時の、小さな火の温かさは、今でも覚えている。
「でも、そのあとは……なんていうか、気づいたら、水も風も地も、当たり前みたいに使えるようになってて。いつからだったかなんて、覚えてなくて」
ルリシアは、困ったように笑った。
「えぇっ、覚えてないんですか!?」
「そんな、当たり前みたいに……いきなり使えるんですか!?」
生徒たちが目を丸くする。その驚きように、ルリシアはきょとんとした。むしろ、そんなに不思議なことだろうか、と言いたげに。
「うーん……そう、なのかな。使えること自体は、そんなに、頑張った覚えがなくて」
首をかしげながら、けれどすぐに、ぱっと表情を明るくする。
「あ、でもね! そこからが大変だったの。制御が、もう本当にぐちゃぐちゃで。何度も失敗して、何度も練習して……それは、すっごく努力したんだよ!」
照れながらも笑う、その顔には、努力を積み重ねてきたルリシアのまっすぐな誇りがあった。
生徒たちは顔を見合わせ、それから感心したように頷いた。
「そっか……努力、なんですね」
「すごいなぁ。私たちも頑張ろう」
「うん! 一緒に頑張ろうね! 最初はみんな、できないところからのスタートだから!」
ルリシアが、屈託なく笑う。
「私も、まだまだだよ。制御だって完璧じゃないし、もっと上手くなりたいことばっかり。だから、一緒に訓練しよう!」
その言葉に、生徒たちの表情が、ぱっと明るくなった。憧れの四属性使いが、こんなにも気さくで、努力家で。すっかり打ち解けて、彼らは「またお話ししましょう!」と手を振って去っていった。
「さ、ルリ。私たちも屋敷に戻りましょう」
「あっ! 私、先生にレポート提出してくるから、レイラとセナは先に戻ってて」
レイラやセナと別れて、ルリシアは歩き出す。
その時――廊下の向こうから、見慣れた姿が歩いてくるのが見えた。
イリヤだ。隣には、当然のようにスノウもいる。
「あ……」
ルリシアの足が、ぴたりと止まる。
会いたい。会いたいけれど――今、会えば、拗ねた顔をしてしまいそうで。不満気な顔をイリヤに見られるのは、なんだか嫌だった。
とっさに、ルリシアはすぐ脇の空き部屋に、ぱっと身を隠してしまった。
扉が閉まる小さな音がする。
(うぅ、思わず隠れちゃった……)
扉の陰で、ルリシアは小さくなった。
――だが。
イリヤの目は、その一部始終をしっかりと捉えていた。彼は表情一つ変えず、隣のスノウにさらりと声をかけた。
「スノウ。あそこの窓の外を見てみろ」
「んん?」
「お前のファンらしい女性が数人、お前に向かって手を振っている」
「うえっ、マジで!?」
スノウが、ぱっと窓に飛びついた。碧い瞳を輝かせて身を乗り出して外を見回す。
「どこどこ? 俺のファン? やだなぁ、モテる男は辛いね〜」
――だが、窓の外には誰もいない。
「……あれ? 誰もいないじゃん。おーい、イリヤ、どこに――」
振り返った、その時にはもう――イリヤの姿は、そこになかった。
「……は?」
スノウが、ぽかんと口を開ける。慌てて周囲を見回すが、イリヤはどこにもない。ただ、すぐ近くの空き部屋の扉が、かちりと閉まる音がした。
腕輪の許容距離ぎりぎりの扉一枚を隔てた、その向こう側へ、あっという間に消えていた。
「……あ、あいつ、俺を撒きやがった!? っていうか扉の前から動けないんだけど!? おーい!」
扉の外で、スノウの情けない声だけが響く。
**
空き部屋の中。突然入ってきたイリヤに、ルリシアは目を丸くした。
「い、イリヤ!? どうして……」
「隠れるのが、下手すぎる」
イリヤの口元が自然に緩む。
「丸見えだった」
「……うぅ」
ルリシアの頰が、一気に赤くなる。拗ねて隠れたことを見られて、居た堪れなくなった。
「……だ、だって」
赤い顔を隠すように俯きながら、指を絡める。
「イリヤと、全然一緒にいられないから……ちょっと、いじけてただけ」
小さな声で、本音がこぼれた。
イリヤは、静かにルリシアの前に立つと、その頰にそっと手を添えた。
「……すまない。俺も、同じ気持ちだ」
赤い瞳が、まっすぐにルリシアを映す。
「お前と、二人でいたい。ずっと、そう思っていた」
その声の真剣さに、ルリシアの胸が跳ねた。
「イリヤ……」
どちらからともなく、距離が縮まる。イリヤの手が、ルリシアの頰を包み顔を寄せていく。
唇が、そっと重なり合う。
離れていた時間を埋め合わせるように。募っていた寂しさを溶かすように。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。ルリシアは、とろりと潤んだ瞳でイリヤを見上げた。
「……イリヤと、帝都でデートしたい」
「ああ。……必ず、時間を作る」
イリヤがルリシアの額に、自分の額を合わせる。
そのまま、イリヤの腕がルリシアの背中に回り、彼女をそっと抱き寄せる。ルリシアも彼の胸に顔を埋め、両手を彼の背中に回してぎゅっと抱きついた。
そのまま、静かに抱きしめ合った。二つの指輪が、互いの鼓動を伝え合う。
――扉の外で、スノウが何やら騒いでいる声も、今の二人にとっては遠い世界での出来事だ。
**
寮への帰り道。スノウは、ずっと不満げに唇を尖らせていた。
「ひっどいよなぁ、イリヤ。俺を廊下に置き去りにしてさ。あの後、扉の前で三十分だよ? 三十分も放置してさぁ!」
イリヤは、素知らぬ顔で歩いている。
「しかも、二人きりで空き部屋に籠って……はは〜ん。さては、やらしいことでもしてたんでしょ?」
にやにやと肘でつついてくるスノウに、イリヤは冷ややかな一瞥をくれただけだった。
「くだらない想像するな」
「照れるなって〜♡」
寮の部屋に着くと、イリヤは慣れた手つきで、またしてもスノウを扉の外へ締め出した。
「あっ、こら! またぁ!? さすがにひどくない!?」
扉の向こうで喚くスノウを、完全に無視した。一人になった部屋で、イリヤは窓を開け放つ。
夜風が室内に吹き込むと、そこへ、闇から浮かび上がるように、一羽の鳥が舞い降りた。艶やかな黒い羽の「カラス」がイリヤの手に止まる。
伝達鳥よりも速く、夜闇に紛れやすい。この帝国でも、カラスは風景に溶け込む。
イリヤは、短くしたためた文を小さな筒に収め、カラスの脚にくくりつけた。
「――エメラルド王国へ」
低く告げると、カラスは一声鳴いてから夜空へと羽ばたいていった。黒い影が、闇に溶けて消えていく。
その背を見送り、イリヤは窓を閉めたと同時に――がちゃり、と背後で鍵の開く音がした。
「はい、ただいま〜」
振り返ると、スノウが澄ました顔で部屋に入ってくるところだった。手には小さな鍵が一本揺れている。
「こんなこともあろうかと、合鍵を作っておいたんだよね。えらい?」
「……普通に犯罪だろうが、それは」
「またまた〜。ここは俺とお前の部屋なんだから、セーフだって」
悪びれもせず、スノウはベッドにどさりと腰を下ろした。
だが――次の瞬間。
「ところで、さ」
スノウの声の色が変わった。へらへらとした軽さが消え、どこか静かな響きを帯びる。
「アレクシスに、ずいぶん目をつけられてるみたいだね。イリヤくん」
イリヤの動きが、わずかに止まった。
「あの人に狙われたら、厄介だよ。しつこいし……欲しいと思ったものは、手に入れるまで諦めない人だから。気をつけなよ」
その口ぶりには、まるで――アレクシスという人間を、骨の髄まで知り尽くしているような、奇妙な実感が滲んでいた。
イリヤは、静かにスノウを見据えた。
「……お前こそ」
地を這うような、低い声。
「ずいぶんと、あの男に詳しい口ぶりだな」
赤い瞳が、まっすぐにスノウを射抜く。
「お前は、何だ。アレクシスの犬か?手下か?――それとも、捨て駒か?」
突きつけられた言葉に、スノウは一瞬、目を丸くした。それから、へらりと苦笑を浮かべる。
「うわ、ひっどい言い方。犬とか捨て駒とか……傷つくなぁ」
肩をすくめ、それからゆっくりと首を振った。
「まあ、いいや。──残念でした。どれも不正解」
碧い瞳が、意味深な光を宿しながら細まる。いつものおどけた色とは違う、何か。
「教えてあげてもいいよ。俺が何者なのか。……でも、タダじゃ嫌だな」
スノウは、にっと笑った。
「代わりに――イリヤ。お前が、俺を助けてよ」
イリヤの赤い瞳がすっと細められた。その申し出の真意を疑うように。




